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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第三話 長政の頼み

 六角承禎(ろっかくじょうてい)


 その名を口にするとき、長政からは、普段からは感じられない張り詰めた空気が発せられた。


「剣呑な名にござる。六角家の前当主…とは言え、今でもこの近江の政情に多大な影響力を持っている」

「長政どのは、その方をお恨みに?」

 市は長政を案じて尋ねた。

「いや、個人的には恨みはござらぬ」

 とは言ったものの、長政はそれ以上の言葉を濁した。


 長政には私怨はない。

 だが、御家にはある、と言わんばかりの口ぶりに市には聞こえた。実際、幼少の長政にとっては、承禎は目に見えぬ鎖だったと言えよう。六角家と結ばれた宿業とも言うべき因縁は、長政の浅井家を決定的に左右してきたのだ。


 長政は今、さかさず私怨を否定したが野良田いくさで勝利する前の浅井家は六角家に組み敷かれていた。長政自身、承禎の諱を与えられて賢政(かたまさ)、と名乗らされていたのだから、個人的に想うところがないはずがない。


「確かに。だが長政、承禎どのには肉親を殺されたと言うわけでもない。不倶戴天の仇、と言うところまではないが」


 いや、承禎から恨まれているのは、むしろ自分だろうと、長政は自嘲気味に言う。


 長政が名を挙げた野良田合戦は、六角家の近江支配への反抗の狼煙である。琵琶湖の南側を従える承禎からすれば、東側の浅井家をおさえてしまえば、越前の朝倉家とともに、京都政界を守護する勢力は調(ととの)う。そうなれば将軍家を脅かす三好三人衆を駆逐して、中央政情を安んじることが出来ると言うのが、承禎が描く絵図だったのである。


 だが浅井家が織田家に(なび)くことで、承禎のものとされるべき功績とそれに伴って与えられる地位は、そっくり織田信長のものになろうとしている。それを当の承禎が指をくわえて黙ってみているはずがないと考えるのは、なるほど当然の理である。


「兎角、術策の多いが六角承禎と言う御仁」


 長政は、眉をひそめる。普段は沈着にふるまい、人前で感情をあらわにしないことを心がけている長政だが、市の前にゆえか、胸に秘めた懸念を隠さない。


 そう言えば、承禎と言う男の見えない大きな手に、長政は少年の頃から悩まされてきたのだ。そのために、まだ起こりえぬ何事にも心を囚われてしまうのではないか、と、市は思った。


「でも、朝倉公も、長政どのも軍勢を率いて参りはしにゃあので?」


 そうなれば何人とても迂闊な手出しは出来まい。例え承禎がどれほどに、長政の邪魔をしたいと思ってもだ。だが、長政の顔は晴れない。


「術策が多い仁と申したでござろう」


 承禎は甲賀者とかかわりが深い。何度も繰り返すが元々六角家は、忍術使いたちのもり立てでここまで台頭してきた家なのである。忍びと言う特殊技能を持つ者どもが大勢の力など、物ともしないのは、六角家が名を挙げた(まがき)の陣はじめ歴戦が証明している。


「油断がならぬ。いざとなれば、何でもやってくるのが甲賀に限らず、忍びの常」


 長政の調べによれば、承禎自身も忍術を究め、密かに他国の動静を探るために出向く場合もあると言う。


「そう言えば、火偸と埋火の二人はいかにしておられるか。くだんの二人が目的の斎藤右京龍興も、承禎の息がかかっているはず」


 龍興はあれから、火偸と埋火が血眼になって捜しているが、伊勢に流れたと言う消息からその後は聞いてはいない。だが北伊勢平定を信長が為した今、龍興が拠り所を喪っているとするならば、承禎の旧誼を頼っている可能性は無きにしも非ずである。


「なるほど。じゃあ今度、あの二人を召して尋ねてみまする」

「かたじけのうござる」

 長政はそれで少し、気が晴れたようだった。



「斎藤右京が承禎の肚の内を知っているのではないか、ですと!?もしそうだとしてッ!この火偸がそれをなぜ、知っておりましょうや!?」

「いや、火偸。お前と埋火は、斎藤右京を追っておるのであろうがや。…なれば、知っておるのではないか、と思うただけじゃ。その、であるなあ。六角承禎とやらの。あれやらこれやらをな…」

「あれやらこれやらとは…!雑すぎませぬか!?」

「あっ、主に言うな雑とか!…この市も長政どののお話から!勉強中なのだわ!」

 市と火偸のやりとりはしばらく不毛で、埋火はひと通り鎮火するまで黙ってみていることにした。


「だがお前らも、考えてみれば助かっておるのではないか。…長政どののお陰で、まだまだ他国のこの近江で忍び働きが出来るのだ」

「それは…長政公の格別のお計らいには、感謝しておりまする。もちろん、その長政公がお尋ねのことあればいつなりとも全力で答える気持ちはござりまするが…」


 どうやら二人も、龍興の消息を追うので手いっぱいのようだった。確かに承禎、と言う手がかりが与えられたことで新たな材料は出来たが、それが即、龍興の尻尾を掴むことになるかどうか、と言うのはこれからの話である。


「しかし兄上。…手掛かりにはなるのではありますまいか。足利公方さまが近江にお渡りになり、承禎どのが動く気配はあるのでしょう?」

「で、あろうあがや!」


 市も思わず乗ったが、長政がほのめかしたのは、「きっかけはある」と言うことなのである。六角承禎を知り尽くしている長政の読みには、かなりの信憑性(しんぴょうせい)がある。長政のためにその承禎を動きを探ることは、ひいては斎藤龍興の消息を追う足しにもなるのではないかと言うことである。


「しかし、南近江に入るのか?」

 火偸は二の足を踏む。忍び者なら、当然だ。そうなれば必然的に五十三家と言われる甲賀忍家の本拠地を侵すことになるのである。

「何か手立てを考えましょう、兄上…」

 埋火も、甲賀忍者の巣窟を侵す無謀をとるつもりはないようだ。

 とは言えど、ある程度の危険を冒して踏み切らなければ、何も得られるところはないのである。


「ああそれなら、名案があります」

 と、言ったのはやはり帰蝶だった。もちろん帰蝶は美濃にいるのだが、埋火がうかがいを立てに行ったのだろう。戻るときにはその帰蝶の言葉と共に、一通の密書を持っていた。

「名案とはなんだわ?帰蝶さまはなんと書いて寄越したのだ」


「名案はこれから直接、説明するから読む必要はありません」

 立つはずのない声が物陰からして、市はぞわっとした。なんと暗がりから現れたのは、忍び装束をまとった帰蝶本人だったからである。

「えっ…あっ、帰蝶さま!?どうしてこの小谷城に!?」

「長政どのには密書で知らせてあります。どうぞ心配は無用に」

 冷ややかな気配をまとった笑みをみせて、帰蝶は目を細める。

「思ったよりちゃんと、奥方をしているのね。…どう、そろそろ子宝には恵まれそう?」

「それはもうちょっと努力が…って言うか余計なお世話だわ!兄上の御正室が、なっ、何たることをなされまするか!」

「名案はこの帰蝶でなくば仕切れませぬから」

 こともなげに言うと、帰蝶は火偸と埋火に命じた。

「これから忍び宿を主宰します」

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