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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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かりょーのどうなん?③浅井長政

 お市ちゃんの人生のパートナー、浅井長政。お市との結婚生活は、6年間でしたが、1男3女をもうけるなど、その夫婦仲は長政の死後も分かちがたい絆で結ばれ続けていたようです。


 江北の雄、浅井家ですがその出自がはっきりとするのは、長政の祖父、亮政(すけまさ)からと言われています。実は長政の浅井家には、その大元となる根拠地が発見されていません。


 例えば織田信長の織田家なら敦賀(福井県)に織田盆地があるように、大抵の戦国大名の氏には、そこから一族が興ったと言う地名があるのです。その起源は一説には物部守屋までさかのぼると言われていますが、つながりが分かるほど定かな史料は亮政の頃からしかないようなのです。


 本編でも取り上げていますが、最初、京極家を支える執権の一家だった浅井家は、亮政の代に至って勢力を蓄え、独立を志すようになってきます。その際に頼ったのは、近江の南で力を蓄えてきていた六角氏であり、又は越前の老大国、朝倉氏でした。


 大国に揉まれるようにして立った浅井家は、各代ごとに翻弄される運命をたどります。同じように斯波家(しばけ)の有力家臣の家柄からスタートし、東は駿河今川氏、西は美濃斎藤氏に阻まれていた信長の織田家と境遇は似ていますが、その行く道は似て非なるものでした。独立に苦労した背景には、織田家の津島湊(つしまみなと)のように確固とした経済基盤がある根拠地を持たなかったことに、理由の一つが挙げられるのではないでしょうか。


 そんな浅井氏に独立の機運を抱き、大きく舵を切ったのは、三代目の長政に他なりませんでした。永禄三年八月、二万五千の兵を発した六角義賢の軍勢を、浅井長政は半分以下の兵で打ち破ります。


 現在の彦根市で行われたと言うこのいくさは、野良田合戦(のらだかっせん)と呼ばれます。長政はこのとき少ない兵を二手に分け、自ら本陣を急襲して勝利を得ると言う大戦果を挙げます。この時、若干十五歳でした。まるで桶狭間合戦のようないくさぶりに、織田信長は、大きく期待をかけたのかも知れません。


 その長政ですが、現存する肖像画から察しても分かる通り、色白で恰幅のいい大男だったと言うことが分かっています。年齢は若いながら、信長の目には、非常に頼もしく映ったに違いないと思います。


 本編では長政は大太刀の達人と言う設定になっていますが、これは当時、大柄な武士の使う道具としてよく、大太刀が用いられていたことからとっています。


 歴史に詳しい方でぴんと来るのは、長政の同盟国であった越前朝倉家にいたと言う『力士衆』と言う大男の部隊だと思います。のちの姉川合戦で活躍した真柄十郎左衛門まがらじゅうろうざえもんの太刀は、七尺三寸(約二メートル二十センチ)あったとされています。


 甲冑を着た当時の武士はこれ振りかぶらず、大きく足を踏ん張って左右に振りながら敵を蹴散らしたとされています。槍が登場した戦国の戦場では、徐々に廃れていった武器ですが、大力ばかりではなく、刃物を扱う熟練が必要だった大太刀を戦場で使う武士は、その技量を恐れられたことだろうと思います。


 若くして戦略・武勇ともに申し分ない才能があったはずの長政でしたが、華々しい登場に比して後半生はひたすらに戦国の運命に翻弄される人生になっていきます。


 お市の兄、信長への離反、そしてその末路は多くの先行作品が紹介している通りですが、信長も長政をはじめから憎んだわけではなく、幾度も使者を通じて修復の道を模索してはいたようです。長政の享年は二十九歳、その短い生涯を、お市とともに何を想って送ったのか。次章ではその怒涛の後半生を、さらに腰を据えて描いて行こうと思っております。



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