第四話 小牧山
その市の目は、執念く信長を追っている。
この日も、清洲を飛び出して一路、馬首を北西へ向ける。馬を巡らせて眺めるのは、城普請の現場である。堤の上に萌える淡い若草が色づくころ、信長の新たな城が出来上がろうとしている。
予定地は小牧山と言う、手ごろな低山である。東西を沼田に囲まれた小牧山は、斜面がなだらかで、山城と言うよりは平時の屋敷を作るのに好適の立地だ。
市は信長がここで、かってはたびたび鷹狩りを催しているのを知っていた。その季節になるとこの山の空を埋め尽くすほどに、白鶴が舞い降りるのである。
「姫」
馬で乗りつけたその背後から、湧くように声が立ったのはそのときだ。市は、恐らく大手口になるであろう入口から、石運びの人足たちが運び込む石垣を見ていた。
「作事場に、むやみと足を運ばれまするな。…間者を疑われまするぞ」
言ったのはまだ、若い男の声だ。市の目の端に、髪の生え際も初々しい匂うような美しい若衆が立っている。青い袖なし羽織に野袴、肩に担いでいるのは、医者の仕事道具である。
「まさか、草働きのお前に言われようとはな、火偸。この市が間者働きに見えるか」
平然と市は言い返した。うかつに忍び名を呼ばれた青年は、不快そうに眉をひそめた。
「みだりとその名を、口になされまするな。どこで何者が聞き耳を立てているか、分かりませぬ」
「そうかえ。それは難儀なことだわ」
甲高い声で、市は笑った。
もちろんわざとだ。この火偸などと言う大仰な異名の割に清げな忍びの青年を、目につくたびにからかうのを市は無上の楽しみとしていた。
「それよりお前、間者は見て分かるのだな。…よもや、あの人だかりの中に、それと見知った美濃の忍び働きが隠れておるのであるみゃあの?」
ごく無邪気にあっさりと、お市は尋ねる。火偸は、はっきりと困った顔をした。
この若者の立場は実は微妙なのだ。
主人は清洲にいて、美濃の斎藤家から輿入れしてきた帰蝶、と言う姫なのである。
夫の信長より二歳下のこの姫は、濃姫として正室の座を与えられてはいるが、実家の斎藤家とは敵対の間柄だ。二人の婚礼をお膳立てした斎藤道三はすでにこの世に亡い。弘治二年(一五五六年)春、長良川の内乱で道三は死に、以来の斎藤家は織田家と美濃の支配権を争う関係になっている。
「あれほど見事な石垣を運ぶところを見ると、小牧はやはり、いくさ城かのん?」
「さて、どうでありましょう」
火偸はとぼけたが、美濃の国境に近いこの小牧山が、信長にとって斎藤家との争乱の前線基地の意味合いを含んでいる事実は否めまい。濃姫たる帰蝶も気にしないわけがない。だからこそ、ここで火偸に逢うのである。
「ところで今一人はいかがした?…お前のかわゆい妹よ」
年頃の娘の癖で、お市はころころと話題の矛先を変える。
「よもやあの中で、間者働きをしておるのではあるみゃあなあ?」
火偸は顔色こそ変えなかったが、押し黙った。
気まぐれに触れているようにみえるが、お市の質問はいちいち鋭く、常の姫君とは思えない洞察力をうかがわせる。
しかも近づくたび甘ったるい花の香をあふれんばかりに振りまく姫君に澄んだ瞳で詰め寄られるので、振り切れぬ圧力を感じ、火偸も対応に困ってしまうのである。
「おッ、おやめくださりませッ!」
お市がその話を口にしたとき、ちょうど人だかりの中から若い娘の声が立った。悲鳴を上げたのは、のどが渇いた作事場の客を目当てに瓜を商う娘で、そこに薄汚れた小男がまとわりついていたのだ。
それを見咎めるや否や、市は馬を駆って飛び出した。火偸が留めるまでもない。兄の信長を思わせる行動力であった。
「下郎ッ!狼藉まかりならぬッ!」
馬で乗りつけるや、突然お市はしつこい小男を蹴倒した。見ればきちんと羽織袴はつけているものの、どの人足よりも汚らしく日焼けした野良猿のような男だ。
「なッ!なッ!いきなり馬で乗りつけていったい、何をするだぎゃ!?」
男は仰向けに転げながらも、かしましい高声で抗弁した。こぢんまりした体格の割に耳に障るほどの大声に市の癇癪の炎もことさら燃え上がった。
「それはこちらの言うことだわ!黙ってみておればッ!立場が弱き物売り娘がいいことに、かさにかかって、狼藉を働くかッ!」
切り裂くような雷声と隙のない糾問は、信長譲りである。反撃に出ようと立ち上がった小男は一瞬、感電したようにたじろいだ。そこをついて、辛うじて割って入ったのが火偸である。
「お控えなされいッ!…これなる若姫御ッ、織田上総ノ介様が妹君にござりまするぞッ!」
この作事場のそもそもの主の名前を出されて、ひれ伏さぬものはない。げえっ、と嗚咽を漏らした小男は、あわてて平伏した。
「ご無礼どっ、どうか平にご容赦ッ!まさかあの名高きっ!清洲の市姫さまとは思いも寄らずッ!」
小男は早口に、詫び言をまくしたてた。市はそのとき気づいたが、下人かと思われた小男のそのときの口調は、意外と整ったものであった。
「して、お前は何者だえ!?」
市は目を剥いた。
「そっ、それだけは!それだけは、お許しくだされッ!…身どもはまだ、上総ノ介さまのお供の端についてから、日が浅くッ!よもや怪しきものはおらぬかと、作事場でにらみを利かせておりました次第でッ!出過ぎた真似を仕出かしたと思うておりゃあす!どうか、どうかッご勘弁をッ!」
立て板に水でしゃべる男である。この男こそ、間者向きである。実に怪しい。お市は、信長譲りの凍りつくような目で、小男の後頭部を見下ろしていた。
「…この男は、ほんに兄上が家来か」
すると、お市がかばっていた瓜売りの娘が、小さくうなずいた。
「名は」
と、娘が答える前に当の本人が唾をまき散らして名乗った。
「木下藤吉郎でござりまするッ!上総ノ介さまにはッ、この身命、そっくり捧げるつもりで奉公させて頂いておりまするわも!」
「ほざけッ」
市は鼻で笑った。どうにもいけ好かない。みすぼらしい風貌のくせ、いかにも流暢に口が回る。さらにそれも、どこか歯の浮くようなことを言うのが気に障るのである。
「姫君、これ以上は。…人が集まりまする」
火偸が、気まずそうに割って入った。
確かに、ここは何者が紛れているか、分からない場所である。織田の市姫の名をおおっぴらに出したのも、本来、得策ではなかった。火偸としては最低限ここで、ことを収めたいのである。
「よかろう。この娘の身柄はこちらで預かる。兄上には、話しておく」
市は、瓜売りの腕をとると自分の馬の背に引き上げた。そのとき顔を近づけると、いたずらげに耳打ちした。
「これは借りぞえ、埋火」
忍び名を呼ばれ、娘は、はっ、と息を詰めた。市は密かにほくそ笑む。この辺りの呼吸も、やはり兄妹である。




