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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第二十四話 浅井市

 生ぬるい血潮の香りが鮮やかに立ち上る。


「中へ」


 濡れ縁へ出ようとしたお市を、長政は短い言葉でたしなめる。椿の元の暗がりで男は確実に死んでいる。うつ伏せになったその身体は闇に沈み、風体は分からないが、忍びものであることは間違いない。


「…死んだか」


 長政は拳で柄を叩いて刀身を震わせると、びしゃりと血糊を落とした。余りにも見事な一撃だったが、それでも何故か長政の顔色は優れない。


 むしろ、一撃で仕留めてしまったことを悔やんでいる。対手の予想外に鋭い身のこなしに長政も撃ち込みを加減出来なかったと言わんばかりだ。


「…(たれ)かそこにある」


 斬撃の余韻を孕んだ不穏な口調で、長政は言った。初夜の間に戻った市に放った言葉ではない。廊下の暗がりに、すでに異変を察して駆けつけた者の気配をいち早く察して声をかけたのだ。


「長政さま、よくお気づきに…」

 出てきたのは、表情を押し殺した火偸と埋火である。

「曲者にござるか」

「遺骸を始末できるか」


 押し殺した声で問うと長政は、その椿の根本に屈み込んだ。あわてて埋火が、明かりを持ってきて足元を照らし上げる。


「何か隠していた。…それを見つかって、この長政に斬られたようだ」

「早く城方の誰かを…」

「まだだ。…少し待て」


 浮き足立つ埋火を、長政は鋭く制した。人を呼ばわるのは、曲者の探し物を、見つけてからにするつもりらしい。市が不審そうにのぞきこもうとすると、長政は暗がりから何か取り出して、埋火が持ってきた手燭にかざした。


 ほの明かりにうっすらと透かされたそれは、討ち入りする際、武士たちが用いる合印のように見えた。


「この印は織田木瓜(おだもっこう)…!」


 その言葉が出てしまってから、埋火は目を剥いて口をつぐんだ。長政とお市によって、浅井織田両家の縁が結ばれた今宵、それは最も出てきてはならないもののはずだ。


「そんなっまさか…!」

 異口同音に言って身を乗り出したのは、市と火偸であった。

「われらの中に賊が!?そんなのっ、ありえにゃあで!」


 もちろん、まったく身に覚えのないことだが、この曲者が婚礼の行列と共に小谷城へ入ったとするならば、織田家の信頼に関わる事態だ。


「賊の目的は火付けのようだ」


 胸騒ぎのする市たち三人をよそに、長政は遺骸を検める。なんと今度は殺した賊の持ち物から、燧石(いし)や油など城内に火をかけるための道具が飛び出してきたのだった。


「城中に仲間がいるのか、あるいは…」


 長政は怜悧(れいり)な目を、御殿の闇の中へ巡らせる。もし、火付けが合図ならば、不審火を機会(しお)に城中は夜襲の危険にさらされることになる。すると、


「夜間、なんの騒ぎにござるか」


 ついに廊下に声が立った。異変に気づいた宿直(とのい)が駆けつけてきたのか。誰が来たかと思えば、市は見憶えた顔に出くわした。さっき長政から紹介を受けた傳役の遠藤と言う宿老である。


「早かったな」

 長政は言った。まだ宿直の侍たちは、気づいていないのである。

「物音がしました故。…それにしても、この騒ぎはいったい」

 と、言ってから遠藤は、大きな目を剥いた。長政の足元に(たお)れている曲者の遺骸を見つけたからだ。

「これいかなる狼藉者にてござろうや…!いずくに紛れ込んでおりましたのか!?」

「さあ、どこから来たものかな。…だがどうやら、こやつの目的は火付けのようだ」

 長政は発見した放火の道具を遠藤に見せた。

「こは由々しき事態。早々に屋敷内を検め、こやつばらの一味を見つけねばなりますまい!」

 遠藤は正論を言ったが、長政はなぜか焦らない。

「そう騒ぐな喜右衛門尉。もはや夜も更けた」

「何を悠長なことを申されまするか!若殿ッ、その手の合印こそ何よりの証拠ッ!賊は織田の者にこそ紛れ込んでおるに相違なしッ!」

 遠慮のない糾弾である。長政は触れなかったが、遠藤は目ざとくその手にした合印に目をつけたのだった。

「何を無礼なッ…!」

 火偸が抗議の声を上げたが、その語勢は弱い。ここで織田の合印が出てしまっている以上、生半可な申し開きは、通用しない。

 だが動じないのは、長政だ。


「ああ、この合印か」

 と、言うと長政はいそいそと濡れ縁へ上がった。合印をぶら下げたままである。

「殿ッ、急いで手を打たねば!これこそ、上総ノ介の違背かも知れませぬのですぞッ!」

 焚きつける遠藤の声が追いすがるが、長政は涼しい顔だ。片頬に微笑を浮かべながら、お市の横を通り抜けた。

「かようなものは、こうすればよかろう」

 と言うと、長政はとんでもないことをした。せっかく発見した合印に、燈明皿の火をつけて焼いたのだ。

「なッ何をなされるッ!?」

 遠藤が悲鳴のような声をあげた。

 その間にも、どろどろと合印は長政の手の中で燃え尽きていく。燃え盛り消えていく合印を長政は、何気もない顔で見送っている。


「長政…どの…?」

 市も、長政の真意が分からない。確かに織田家にとって不利な証拠だが、せっかく見つけたものをなぜ、すすんでなかったことにしようと言うのか。


「少し考えれば、誰にも分かることではないか」

 長政はあっけにとられる一同の顔ぶれをゆっくりと眺めわたすと、あらましを紐解いた。

「そもそもこの合印、いかなるためのものか。これはいくさ場で目立つためのものだ。…まず間違っても忍び者の持ち物ではありえない」


 小気味のいいくらいの正論であった。なるほど確かに、この男が忍び者であるのならば、少しでも身元の割れそうなものは糸くずばかりのものでも身に着けはしないのが心得である。


「この期に及んで何を申されるか殿ッ!」

 焦れたように遠藤が噛みついてくる。

「火付けは夜襲のためのものに相違なしッ!合印があると言うことは、他にも仲間がいる何よりの証拠ッ!」

「なるほど仲間か」

 と言うと、長政はじろりと遠藤を見返した。そのまま、何も言わない。意味ありげな一瞥を、遠藤は目を剥きながら浴び続けた。


「賊はもうおらぬ。…夜襲は打ち止めではないか」

 謎めいた口調で長政は言った。その手の中ですでに、合印に染め抜かれた木瓜紋が形を喪っている。

「後始末は、任せたぞ」

「とッ、殿!?これはッ!一体どう言うおつもりかッ!」

 遠藤の声を背に浴びながら、長政は木戸を閉めた。ここまでのあまりに意外な幕引きを、市は息を呑んで見守るしかなかった。


「曲者はようござるのか…!?」

 二人きりになると、お市は耐えかねたように、長政に疑問を浴びせた。


 彼がお市はじめ織田家の者にまったく疑いをかけていないことは、それはそれで嬉しかったが、あの遠藤と言う男の言い分もむげには否定出来ない。合印がある、と言うことは、城中に仲間がいると言うことではないのか。それなのに長政は、なぜこうもあっさりと、騒ぎを不問にしたのか。お市にもさっぱり、そのあらましが腑に落ちない。


「これも少し、考えれば分かること。お市どの、これはくれぐれも他言無用に願いたいが」

 と、長政は市に言い聞かせると、きっぱりとした口調で言った。

「すべてはあの遠藤めがやったことよ」

「え…!」

 市もさすがに絶句してしまった。確かにさっき、息もつかせぬやり取りであったが、あの間に長政はそこまで見抜いていたとは。

「宿直の連中が気づかぬうちに、遠藤が来たでござろう。あやつめ、要は誰よりも早く、あの賊を発見したかったのだ」

 鋭い長政の洞察に、市は思わず息を呑んだ。


 そう言われてみれば…である。常に最も市の近くに侍っている火偸と埋火はともかく、あの遠藤と言う宿老の登場は、驚くほど早かった。


「目的は、織田家に賊あり、織田は信用ならぬ、と家中に知らしめること。故に他に仲間はおらぬ、と思った次第」


 言われて市は、長政のあの謎めいた言葉の正体に気づいた。長政はあのとき、確かに言った。夜襲は『打ち止め』だと。それは正しく、首謀者である遠藤を直に諫めたのである。今夜はもうここまでにしろ、と暗にほのめかす忠告だったのだ。


「織田お市殿、初夜ゆえ、浅井家の主から言い聞かせることがござるが、よろしいか」


 長政は布団の端に座り直すと、改まって言った。市も真正面に座る。短くうなずくと、長政はやや切なげに目を細めて市の反応(いらえ)を待っていた。やがて長政は、意を決したように口を開いた。


「これが、市どのがこの長政の嫁になると言うことにござる」


 その一言は、何よりも重々しかった。確かに分かっていたし、今も心得ている。そのつもりではあったが。織田家から浅井家に嫁ぐと言うことは、こう言うことなのである。かの遠藤に限らず、織田家の嫁を面白からず思う者たちにさらされ、浅井市の名を試されて行かねばならない。


「肝に銘じておきます」

 市は、肚から声を絞って自分の意志を答えた。

「これが戦国大名と添うて生くることなれば」


 後悔は今さらない。


 長政と生きること。

 それが市の選んだ天道である。なるほど、はじめの道筋は兄の信長がつけた。しかし自らの意志で選んだのは、自分だ。市はそれをいつでも、自身を持って言えると思える。


「肝に銘じたれば、それでよろしい。…だが片時なりと、これは忘れないでいてほしい」

 と、言うと長政は、やや潤んだ瞳を向けた。

「どんなことがあっても信じて欲しい。この長政ばかりは市どの、あなたを裏切りませぬ」



 そこから先は、ひとかけらの言葉もいらなかった。

 うっすらと汗ばんだ長政の身体に包まれ、市は応えるだけの存在になった。今度は静かに、溶けてこむように紛れていく夜の闇が、長政と市との間にあったはずのものすらも、呑み込んでしまったかのようだった。


 浅井市。


 市は新しい自分の名を、何度も胸の内で繰り返してみていた。これからどうなるかなど、まだ考えられるはずもない。今はただ、その名が胸に響くたびにもたらされる、かつてない幸福に浸っていたかった。






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