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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第二十三話 浅井家の初夜

「遠路無事で何より。…このときを待ちかね申した」

 と言う長政の声を市はどこか、夢うつつのような心地で聞いていた。

「当家へようこそ」


 市は思わず、長政の遥か頭上を仰ぎ見た。


 冬晴れの青が残る暮れかけの空が切り立った城郭や御殿の(いらか)形象(かたち)を孕んだ山影ごとのしかかってくるようだった。


「…この小谷の城郭は、祖父亮政以来の山城。ことごとに改築を加えており申すがまだ、それほど古くはなってござらぬ」


 築城は大永年間である。この頃で築五十年と言ったところのようだ。それでもかなり古いとは思うが、南北朝以来の古城がごろごろしている近江では、新城の部類なのかも知れない。


「さて、花嫁殿。そろそろ中へ渡らせませ」


 市はうなずくと、長政の手を握り返した。

 八つ手のように大きな長政の手は心なしか汗ばんでいるのか、血が通ってやや温かかった。


 武家貴族の婚礼は、無数の家同士が群れ集まった儀礼の尽くし合いである。遠路の旅を続けてようやくやってきても、主役の一人である花嫁の市には、片時も休む間が与えられない。


 家々の挨拶やら、重臣の誰それの話やら、後々のために市は聞いて憶えていようと思ったが、多すぎて複雑すぎて暗記(そら)で入るようなものではない。


 気がつくと、眠気で薄ぼんやりしていて、暗がりから火偸にたしなめられた。


「姫さま。…注意せよ、と言われたこと、お忘れになられましたか」

「うさいこでや!…う…分かって…いるだわ…」


 ここへ来たらまず、信長に叛意を持っていると目される浅井家の重臣の何たるかを見極めようと思っていたのである。だが、たびたび襲ってくる眠気のために今、それが思い出せない。


(そうじゃ、確か衛藤(えとう)?…衛藤なんと申したか)

 何度か聞いた名のはずなのにもはや、うろ覚えである。


「そろそろ一旦、お下がりになられた方がよろしいかと。…姫君ははるばる遠路のお越しゆえ、もう大分お疲れのご様子」


 ぼーっとしていると、間近くで男の声が立った。また誰か挨拶に侍ったのか、ほとんど聞き流してしまっていた。


 その男が下がるのをちらりと見ると、骨格の確かな大柄、四十前後と言ったところの、(びん)の生え際まで日焼けした精悍な武士である。白眼の部分がひと際大きく見える、栗色の瞳がぎょろりと市の顔を睨みつけていった。


「長政どの」

 思わず市は声を上げていた。

「ただ今の御仁は?」

 と尋ねると、長政は屈託なく教えてくれた。

「あれは遠藤と申しまする。喜右衛門中尉直経、この長政の幼きときよりの傳役(もりやく)を務める者にござる」

「はあ…」

 市は薄ぼんやりした声を出して、目を細めた。


 市が藤吉郎から聞いた遠藤の名を思い出すのはまだ、少し先である。だが無意識にでも、市の脳裏にそれは印象として焼きついた。思うに、喜右衛門中尉がこちらを見上げたときのその目つきに、市は並々ならぬものを感じたのだった。


 だが市が憶えている婚礼の記憶はその程度のものである。


 あと、酒宴はたけなわになった。燈明皿の火が、少し強まった夜風にかすかにおぼめいていた。その薄暗がりの中でもやのようになった人々が入り乱れて、(うたい)や踊りに興じている。誰が何をうたって踊っているのかは分からないが、賑わいは衰える様子を見せない。その雰囲気くらいしか、市には印象がない。



 初夜の頃には、物音ひとつしなくなった。小谷山を渡る夜風が戸板を揺るがす音くらいだけで、あれだけ城中に満ちていた人気(じんき)が嘘のように感じられなくなっていた。婚礼を迎えるのは一度ならずの長政の、心にくいばかりの配慮であった。


「花嫁どの」

 と、長政の声がはっきりと聞こえた。


 湯上りの垂髪を結い上げもせず、湯帷子ばかり着た長政が間近に座っている。面長の美貌は、いつになく引き締まっていた。


(い、いよいよ、であるか…)


 床入りである。

 枕頭に二人、座して相対しているわけで、さすがに夢うつつだった市も、胸が高鳴ってくる。だが次の長政の問いに、市は度肝を抜かれた。


「傘はお持ちになられたか」

「かっ、傘!?」

 市は、思わず甲高い声を上げた。


(あ…そうじゃ。これは違う。確か、合言葉のようなものだわ…!)

 とんでもない声を上げてから市は、それが初夜の儀礼で使う問答だと言うことに今さら気づいて真っ赤になった。


 作法には色々あるらしいが、花嫁と花婿の距離を縮めるために、なにがしかの話題を設けるこの作法が、長政は市のためには一番いいと思ったのだろう。


「傘!…左様、傘なれば!そう!(咳払い)…織田家より新しきものを持ち出して参りました!」

 と市がやっと答えると、長政はそれだけで口の端を綻ばせた。

「…さればそれをば、差してもよろしゅうござるか」

「い、今!?今!…でござるか!?」

「出来れば今が、良うござるな」

 長政は言いながら、すでにくっ、くっ、と胸を膨らませて笑い始めてしまっている。


 ちなみに『差す』は隠語である。床入りを始めていいか、と言うことを、暗に花嫁に問うているのだ。


「すっ、すみませぬ!何たる無作法!」

「いや、市どの。気に病む必要はありませぬ。そもそもこのような作法は、初対面の夫婦(みょうと)がなすべきためのもの」


 と、言うと細長い指を伸ばして、かすかに市の面に触れた。びくりと思わず市は背筋を強張らせたが、その指は優しく頬を撫ぜ、額に打ちかかった淡い髪を()いただけである。


「まずはいつかのようで、良うござる」

 長政は声音を抑えて、(ささや)くように言った。

「いつかのように?」

「岐阜で、二人で身を寄せ合ったように。…よもやお忘れか?」

 市は無言でかぶりを振った。もちろん忘れていない。長政の身体に初めて長く触れた日だ。

「手を」

 と、言われてお互い、ひらを擦り合わせるようにまず手を握った。それだけでぐっと長政の実体が近くなったような気がした。

「もう少し近くに」

 長政は指示したが、身体を開いて自分から身を寄せてきた。市はあわててそれに和したが、急に身を起こしたためにすっぽりその胸に埋め込まれるように収まってしまった。

「あ、あの…長政どの…」

 市の声は、やや震えた。


 湯帷子の胸元からは、薬湯の甘い匂いがする。あわいからのぞく長政の素肌は、日焼けしない部分のために余計女性のように潤って白く、野卑な感じは全くしなかった。ほとんどそれに顔を埋めるようにすると、長政の鼓動が皮膚を打ち破ろうとするかのように激しくあわただしく、伝え聞こえてくるのが分かる。


 市の手前、取り繕ってはいるが、長政もそこまで冷静でいるわけではないらしい。それが分かると市は、少し気が楽になった。


「お先に」

 と、長政は、布団をめくった。


 そこに市の身体を抱えて横たえようと言うつもりらしい。もちろん市は抗わなかった。いつもより神妙な仕草で長政の動きに従い、自分からと言うよりは長政にしつられてもらうように、布団の先まで素足を入れた。


 あとは、なすがままである。


「お市どの」


 首筋に、長政の唇が触れた。熱い息がそこにかかり、まだかすかに濡れた長政の洗い髪が肩口にかかる感触がした。いよいよだと思った。そのときだった。


「御免」


 えええっ!?


 長政の身体が離れた。市は、愕然とした。いや、ここまで来て!なぜ?叫びだしそうな市の口を、長政の細長い手指がとっさに塞いだ。


「曲者にござるな」

「ふっ!ふしぇもにょ!?」

「膝の鳴る音がし申した」


 いくら忍び足をしても、膝関節が鳴る音が出ることがある。これは訓練で隠せるものではない。


「…いつ、そんな音が」

 押し殺した市の問いに応えず、長政は長刀を握って立った。


「庭か」

 すでにその長身は、濡れ縁に出ている。

 月が明るい。

 追いすがってきた市は、赤紫色の寒椿の花陰に、何かがあわてて隠れたのを見た。

「見えている。神妙にすれば、命はとらない」

 柄に手をかけたまま、長政が言った。少しでも怪しい動きをすれば、容赦なく抜き打ちを浴びせかける態勢である。


「おのれッ」


 思い切ってその影は、椿の硬い葉の中から飛び出した。そのまま忍びの跳躍力を見せて、土塀の向こうへ飛び去ろうと言う魂胆だったのだろう。しかし、


「うんんッ!」


 長政の居合の方が、遥かに速い。飛び出したその背に、煌めいた白刃が濡れ手拭いで叩くような軽い音を立てて叩き込まれた。


 右肩から肩甲骨をぶち割って、左の腰まで斬り下げている。霧のような血飛沫が黒々と椿の花叢(はなむら)をけがした。


 夜陰に紛れた服装をした男は紛れもなく、忍びであった。


「誰かある。…曲者ぞ」


 長政のよく通る声が、睡眠(うまい)(むさぼ)る小谷城を揺り起こしたのはその直後だった。




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