第二十二話 いざ輿入れへ
それは一日中、暖かい冬晴れの日であった。
花嫁行列がしずしずと街道を続いていく。沿道の端々に、見物の人数が一人、また一人と集まってくる。頭上を舞う鳶の鳴き声が尾を引いて、はるか稲葉山の方角へ飛んで行く。のどけきを絵に描いたような永禄十一年の初春、麗らかな吉日だ。
市はずっと輿の中で明かり障子の隙から差し込む日溜まりを眺めていた。
旅路の果てはまだ、長い。
(輿入れか)
行ったらもう、戻ることはほぼ、ない。
そんな旅に出ることになるとは、思っていなかった。
だが、考えてみれば当然のことなのである。
織田家を出るのはもちろんのこと、自分はこれから他国人になるのだ。生まれ育った尾張から、隣国美濃へ、そしてただの話でしか聞いたことしかない、近江の国へ。
言葉では分かっているつもりでも、目の前に迫ってこなければ、どうしても実感は薄い。だが戦国大名の家に生まれた娘にとってみれば、輿入れは、まさに一つの旅なのである。
市は輿に乗って息を潜めているに過ぎなかったが、その旅路は長い。
早朝、岐阜城の大門を出た行列はどこまでも続き、花嫁を婚家へ運んでいく。
花嫁ばかりでなく、調度、衣装、化粧品など、嫁入りの荷物を含めると、行列が携える持ち物はそれだけでおびただしい。
そこに花嫁に馴染み深い侍女たちや、場合によっては乳母まで来るときもある。それをさらに、武装した衛兵で固めるのである。
ある意味では、一家屋敷丸ごと洗いざらいして浅井家に引っ越すようなものなのだ。
(物々しいものだわ)
兄が長柄槍はおろか鉄砲足軽までつけているのを見ると、市は鼻白んだが、もちろんこれは織田家の武力を無駄に誇示するためなどではなかった。
武装にはそれなりの意味がある。
行列が岐阜城を出て、最初に難所に到達するのが、分かりきっていたからである。
岐阜の山々の懐は深い。その峰々に囲まれて広がるその盆地の名は正しく、日本史に名を残すものである。
関ヶ原。
のちに天下分け目の合戦が行われるこの山あいの地は、古くから東西の分岐点、いわば天下御免の玄関口として機能してきた要所中の要所であった。
古今から、治安の悪さで知られてきた。うっそうと山林が生え揃った山肌も深く、山賊が伏せりやすいのである。
お市の頃は、常磐御前の受難で名高い。千人の官女から選ばれたと言う絶世の美女は、息子の源九郎義経を追いかけてここ関ヶ原から東国へ渡ろうとし、遭遇した山賊に殺されたと言われている。
だがさすがにこの戦国の世でも、まさか織田家の行列を襲おうと言う山賊は現れはしないだろう。
「どれ、今どこのどの辺りであろうかや…」
道中に飽いた市が、大きく戸を開け放とうとすると、いらだち気味にその戸を別の手が閉めて返す。
「無暗とお開け遊ばしますな」
その声は、火偸である。
「堅いことを言うな。…どうせ、この輿を出たらはしたなき真似など、しとうても出来にゃあで」
当時の祝言は長い。儀礼が煩雑なのは、長旅に疲れた花嫁をなお、中座させないことで、くたくたにさせて抵抗力を奪い、初夜の緊張をほぐすためだと言うが、それは本当なのだろうかと市は言った。
「なっ、誰がそんなことを申したのです、はしたない!」
「…帰蝶さまだわ」
「この火偸を揶揄うのも、いい加減になされませよ」
火偸はむきになるが、事実は事実だ。
房事にも、作法があるのである。一通りのことは弁えていなくては、花嫁を育てた家の格式が問われるのだ。
「しかし、ことは所詮、男女のなすこと。…どちらにどう転ぶかは、誰にも分かりません」
一くさり『常識』を披露した後で、そんなことも、帰蝶は言ったが。
「では帰蝶さまのときは…?」
当然、市は尋ねた。帰蝶は、冷え切った眼差しを珍しく丸くして、
「妾とおやかた様のときは?…それはおいそれとは、話せないわね」
二人の祝言は、市のときより大分稚い。信長は十六歳であり、帰蝶はその二つ下。そのため儀式は、ただの儀式としてなされたに過ぎなかったろう。
「絆の作り方は色々あるの。…妾とおやかた様のつながり方は、二人だけのもの。それは紛れもなくあの吉乃どのとも、別の築かれ方をしたものなの。儀式は、お家のためのもの。でも、夫婦のこととはまた別儀。もはや分かってはいるとは思うけど」
帰蝶は市の髪を梳き、餞のように言った。
「あなたは長政どのとまた、自分たちだけのやり方で絆を築かれませ」
市が帰蝶がくれた祝いの言葉を思い浮かべていると、突然からりと明かり障子が開いた。火偸が沢の水で清かに濡れた竹筒を差し出してきた。
「お、すまぬな」
「油断召されますなよ」
火偸は、不機嫌そうに言う。
「この関ケ原を過ぎましてのちは、おやかた様のご領地にあらず。元々は、敵地でござったのですぞ」
と、火偸は遥か彼方の山の上を指さす。冷たい水で咽喉を潤しながら、市はすっかり様変わりした外の風景を楽しんだ。
「おお!これが関ケ原の山々か」
「遊山に来たのではありませぬぞ!あそこにござるのもほれ!もとはあのにっくき斎藤右京大夫の治めていた城でござるぞ!」
「だーっ、うるさいッ!どーーーーでもいいッ!」
火偸はまた、いらいらしている。市はすっかり鼻白んでいた。
「兄上、また、大きな声を…」
あまりに騒がしかったのか、腹ふさぎの屯食 (握り飯のこと)を運んできた埋火が、思わずたしなめた。
「埋火、あれは長政どのが城か?」
「はい、あれは正しく松尾山。あそこにましますは要害と名高い長亭軒城、あれは浅井長政さまの兵が詰められておられるお城ですが」
「違うではないか火偸!あれは長政どのの城だでや」
「何を馬鹿なことを!火偸は敵城と言ったのでござる。大事なのはそこで、細かいことはどうでもよいでしょう!」
「そんなええ加減なことで忍びが務まるか!そもそも主君にでたらめを教える忍びがどこにおるでや!間違えたなら、間違えたと素直に申したらええのだわ!」
一度火がついてしまうと、市と火偸は、果てしなく言い争いを続ける。
「お二人とも、その、このまま浅井家に参られるとすごーく困ると申しますか、ともかくくれぐれもお静かに…」
埋火はたまらなく、先が不安になってきた。
(ったく火偸め。男児の癖にかしましくてならんだわ)
市はすっかりへそを曲げたが、火偸が神経質になる理由もよく、分かっている。それは婚礼直前になって、藤吉郎の口から知れたことだ。
敵はすでに、浅井家の中にいる。
それはもう、信長の命を狙う、と言うところまで来ているのだ。
信長自身は、市と長政のためか、おのれの身の危険すら一笑に付したが。すでに名も挙がっている遠藤喜右衛門尉なる男が、信長に害なすために罠を張り始めているとするならば。
市の立場は、ただの花嫁ではない。織田家の危急を、信長の危険を事前に察することが出来なければ、浅井家に嫁いだ意味がない。
さらには、岐阜城下に姿を現した斎藤右京太夫龍興。陰湿な暗躍を続けるこの男の消息を暴き、その身柄を捕らえることも、帰蝶から預かった課題だ。
(この市も、これでようやくあの兄上の天道の礎となれるのかも知れぬ)
浅井家では後ろ暗い間諜活動もする、とだけ考えていては、気づまりになる。楽しむとまでは言えないが、そう思えればこれから、挫けずに済むこともあるだろう。
(兄上と違うのは、この市は女子のことなれば)
市は市なりに、この戦国の世を生き抜いていくまでだ。
浅井氏の本拠は、小谷城である。標高四九五メートルの小谷山、南の尾根に築かれた山城であり、山頂に連なって本丸含む三つの曲輪群を成す。
お市の輿は、大門を通り、玄関前に設えられた式台の方へ運ばれていく。そこは浅井家のものである三つ亀甲の家紋が打たれた幔幕で仕切られており、ここで主人の迎えを待つようになっている。この式台の上に、無事に輿が安置されるまでをもって『輿入れ』と称するのである。
花嫁を迎えるのは無論、花婿である屋敷の主人の役割である。
(長政どの…)
何か月ぶりかの涼やかな眼差しと、艶やかに結い上げられた黒髪を、お市は見た。
「お市どの」
差し出された手を、市は取ろうとした。その刹那だ。ぐっと、伸びてきた長い腕が、思ったよりも強い力で花嫁衣裳をまとった市の身体を掻い寄せた。慣れない履物のせいもあって、市はつまずきそうになった。しかしその身体を、今はしっかりと長政が支えている。
「ずっと会いとうござった」
耳元で、長政が囁いた。
無作法である。
だが女子として生まれて、市にとってこれほど嬉しいことはなかった。




