第二十話 最後に立ちはだかるもの
ついにだ。
輿入れの日取りが決まった。いよいよ、この年明けに織田家を後にするときが来たのである。
ここへきて話が一気に進んだのは、何より信長の墨付きを得たのもあるが、長政が家中をまとめる覚悟を持てたことが今回は、大きかったに違いない。
「お市どの、かえすがえす今回のこと…心から感謝している」
あの朝、去り際に興奮覚め遣らぬ長政が思わず、手をとって来たことを、市は長く忘れられずにいた。
「いっ、いえ、この市はさしたる働きは別して!大したことはしてにゃあし、そのとんだ失態で…それより長政どのこそ、身体を張った破格のおもてなし。意表を突いた馳走。この市には到底、思いもつきませなんだ…」
「いえ、これは市どのが背を押してくれたから」
「いやいや、長政どのこそ」
と言う市はなぜか、長政の顔を見れない。どうしてだかは、分かっている。だがそれを口に出して言うのは最も恥ずかしいことだと分かっているので、そこから口ごもったまま、顔を伏せるしかなかったのだ。
「今さら水臭しゃあでかんわッ!」
もじもじして核心を言わぬ二人を叱りつけたのは、信長である。
「…両人すでに契りをかわした仲にてあろうがや。ここで何を、他人行儀に振る舞うことやはあるがやッ!?」
「「そっ、それはッ!」」
異口同音に、同じ言葉で詰まった。
「兄上ッ、とんだ誤解にて!この市と長政どのは、そのっ…まだ、契りと言えるものは…交わしてにゃあでッ」
市がすっかり上気した顔で、ぶるぶるとかぶりを振ると、
「べーつに隠さずとも、ええでかんわ。…輿入れの初夜など、形ばかりのものだでや。誰もそれまで手つかずでいよ、などとは申さぬで」
なぜか信長は、にやにやして信じない。
「いえ、信長公、市どのは偽りを申してはおりませぬ。契りについてはまだの運びにて。…お市どのは無垢にござる…」
そこで言いにくい助け船を、あえて出したのは、長政である。
「…とかく市どのの、名誉のために申し上げますれば」
「ふん、夫婦にならぬうちから横道しでかしたかと思えば、律儀なことだでや」
信長はつまらなそうに、鼻を鳴らした。
「まあ、それは良い。あとはただ、成り行きに任せれば、万事滞りなかろうでや」
と信長は、鴨肉入り卵飯を一気に掻き込み、蛟血盃の清酒をぐっと煽り干した。
「婿どの!此度は何よりの馳走、ほとほと感じ入った」
かくて東海一気難しい信長は、これ以上ない上機嫌で帰って行ったのだ。
(それにしても、あのときの卵鴨飯は美味かった…)
お市自身は、あのとき、生卵をかけた飯に最初は拒否反応を示したのだが、信長に強いて勧められ、思い切って口にしたらことのほか美味しく、美味しすぎて、城に戻ってもたまに埋火にこっそり鶏卵だけでも調達してきてもらうほどに気に入ってしまったのだ。
(もし近江にもらわれていったら、浅井家では毎日あのような見たこともないものが沢山出てくるのであろうか…)
食べ物の妄想など浅ましいが、お市にとってまだ長政のいる近江は、その美味しいものでしか、想像するよすがもないのだ。
「鴨ばかりでなく。近江には、鮒の熟れ寿司なども古くから都への献上品となるほどの名物にござるぞ」
長政は、信長ばかりでなく市も、卵鴨飯を平らげたのを見て、喜色を隠さなかった。
「元々、温順な土地柄にござる。…近江商人は商売上手と古くから申してどこにても円く商いをまとめて諍いを起こしませぬ。…と、失礼」
長政が自分の顔の方へ手を伸ばしかけたので、市は思わず後ずさり、身体を強張らせた。
「卵のついた飯粒が口元に。…失礼、不調法でござったな」
やんわりと指摘し、長政は苦笑した。
「ひっ」
泡を喰った市は懐紙を取り出すと、あわてて自らの口を拭う。
(はっ、恥ずかしすぎるでかんわッ…!)
もちろん、言うまでもなく、不調法の極みは市の方だ。仮にも武家貴族の姫上臈にありうべからざる失態である。
「お市さま、じゃじゃ馬どころか、あまりにも…あまりにもの暴れ馬でござると、嫁ぐ婿どのへの面目も潰しますぞ」
「ぐっ!」
普段は小癪としか思えない火偸の苦言も、ぐうの音が出なくなってくる。
今までは実家だからこそ黙認されていたことも、ことによっては今度は婿である長政の顔をつぶすことにもなりかねないのだ。
(花嫁になるのも容易なことではにゃあわ…)
今まで、面倒だからと遠ざけていた嫁入りの修行も、下手をすれば長政の顔をつぶすと言われれば、自分のわがままで揺るがせにする訳にはいかないのだ。
「お市さまっ、湯浴みをばきちんとなされませっ!」
だが困ったのは、この頃、やたらと湯殿を使わせることである。市は日頃、馬糞くさい埃や土にまみれていると思われているのか、日に何度も薬湯に入らされるのだ。
そのために洗い髪をすいて、あれやこれやと嫁入りの衣装を選び、試し着などしたりするのだが、これがことのほか面倒である。
最初こそ市は、婚礼のときに身につけるであろうきらびやかな打掛やら、小袖やら、化粧や装身具に目移りしていたのだが、ずっと立ち尽くしで着替えたり脱がされたりを繰り返されているうち、まるで自分が着せかえの人形にでもさせられたように、気ぶっせいになってきたのだ。
この湯浴みにせよ、半日遠乗りにでも出てきて、冬でもじっとりと汗を流してくれば心地が良いものを、ほとんど髪の乾く間もなく、薬湯に浸けては出てを繰り返されていくと、何だか気持ちまでふやけてしまいそうなのである。
(これでは下ごしらえの泥鰌だでや…)
湯あたりしそうなると、なぜだかあの藤吉郎が自慢げにしていた酒甕に放り込まれた泥鰌を思い出すのだ。
そんな市がうんざりしていると、背にぴたりと熱く濡れた柔らかいものが。
「…どうやら万事、上首尾のようね」
「きっ、帰蝶さまっ…!」
市の声は思わずひきつった。
自分一人かと思ったら、まさかの乱入である。
湯殿の番は、埋火が勤めている。だから帰蝶を止められるはずはないとは思うが、こんな心臓に悪い登場の仕方は、してほしくないものだ。
「くだんの蛟血盃は役に立って?」
「はっ、はいッ!とても…とても!」
市は悲鳴のような声を上げた。
なぜなら背にぴたりとくっついている柔らかく濡れたものは、帰蝶の乳房である。普段は着痩せしてみえるが、その弾力は意外に確かな質感を市の背に伝えてくる。
それだけでも鳥肌が立ったが、薬湯を浴びてかぐわしくはあるものの、冷たく濡れた洗い髪が、まるで巣穴の蛇玉のように、無数にお市の素肌に触れているのだ。
「次が本当の勝負ですよ」
帰蝶は、そんな市の狼狽を楽しむようにささやいた。
「薬湯は、妾が用意させました。…市どの、元はいいのだからしっかり、磨かないとなりませぬ。素肌も、髪も、香りも…立派な女の武器です」
「はっ、はひっ!」
市は足の指まで強張らせた。
「もう…!限・界ッだわッ!」
さすがにこれ以上は無理だ。市は根結い髪に直し、乗馬の衣装を整えると、日中の街へ繰り出した。
四六時中は、婚礼のことなど考えていられない。
「誰ぞ馬を、馬を曳いてくれぬか…」
市がこっそり愛馬のいる舎に顔を出したときだ。誰かが手慣れた所作で市の馬を曳いてくる。その顔をみて市は、大声を上げそうになった。
「とっ、藤吉郎ッ!このしわっ猿!おのれ一体なんの腹積もりか!?」
顔を真っ赤にして怒る市とは対照的に、藤吉郎の顔はすべての血色が引いて、まるで土気色だ。
市もさすがにそんないつにない藤吉郎を、不気味に思った。
「なんじゃ早う馬を返せ…」
と言う市の前で、何をするかと思いきや藤吉郎は、土下座した。
「お市さまッ!この藤吉郎、たってのお願いにござりまする!こたびの浅井家の婚礼、必ず、必ずお断りをばッ!」
まさかの藤吉郎の、夢にも思わぬ願いである。




