第十三話 二人の決意
「兄上が…怖い?」
問い返してから市は、少し考えた。
「まさかそんな!…いや、兄上…怖い…うん、兄上は怖いでかんわ…」
「市どのもやはり怖いのでござるか?」
長政は、ふいに目を丸くして尋ねた。
「いえ、その…決して、そんなことわ!」
と、市は必死で首をぶんぶん振ったが。
実はある。ありすぎるのである。
本音をさらせば今の市は、信長に会うのが怖くて、びくびくしているのだ。言ってみればほとんどが、身から出た錆…つまりは自業自得なもののせいだが、咎め立てを受けそうな心当たりが、ありすぎてどこから取り繕ったものか分からない。
そんなわけでいつかあの剃刀のように鋭い兄にいつか出し抜けに、雷声を浴びせかけられるのではないかと思うと、毎日が気が気でないのだ。
「でっ、でも!あっ、兄上は、怖くないでかんわッ」
「本当ですか?」
気を取り直して市は、満面の笑顔でうなずく。
その笑顔が思わず引き吊ってしまったが、この点では嘘はついていない。それは誓って言える。
「まず兄上は長政どのに悪い気持ちは抱いては、おりませぬでしょう」
「ええ」
と、長政はその点は素直に認めた。
「信長公のはからいは、いつにても破格でござる。こうなっては正直に話してしまいますが、信長公たっての申し入れをこの長政すげなく袖に致したことは、一度ならず。それでも、一途にお市どのを嫁にと言うて下さるは、誠にもったいない限り」
「では今、何故に怖い、などと申されまするのか?」
市はそれが不思議でならない。
例えばこれは口にすることも憚ることだが、信長が悪心を隠し、長政を奸計に陥れようとする節があるのであれば、それはまさに怖い、と言うことが出来よう。
だが信長の長政に対する好意は、雲ひとつない冬晴れの陽射しを見るようだ。どこまでもあけすけでいて、明らかなのである。
「その明らかなるが、怖いのでござる」
長政は言い切ると、重苦しいため息をついた。
「掛け値なしのご好意、下さると言うことは、この長政に期待あること。…されど、今の長政が信長公の得難いご好意にどれほど応えられるかはまた別儀の話」
「はあ…」
つられて相づちを打ったものの、市にとっては今いち、ぴんと来なかった。
確かに火偸がたびたび口にするように、政略のことはあろう。
だが兄はこの長政を、同じ生業の武家大名として買っているはずなのである。
だからこそ、織田家にとって最難関事業である上洛の相棒に浅井家を選んだとも言えるではないか。
長政本人を見知った今、ますます市もそんな信長の望みが透けて見えるようになってきたように思えてきている。
「すでにお話ししたと思いまするが、浅井家中は二つに割れて、そのまま在り申す」
長政は、苦しい家中の内情をついに吐露し始めた。
「我が父、久政は多年、六角家の言いなりにござった。…この長政が、六角家の家臣より嫁をあてがわれ、あまつさえ六角家の当主より諱を与えられ賢政と名乗らされていたのも、ひとえに我が浅井家の力なきゆえ」
長政は十五の元服のときからすでに六角家から婚姻を迫られていたのだが、それは六角本家の姫ではなく、家臣の平井加賀守定武の娘であった。
諱を与えて名乗りを変えさせることといい、六角家が長政に強いてきたのは、一方的な服従であったのだ。
「こうなればいくさで勝つより、この長政が浅井の名を守る術はなく」
そこで長政が起こしたのは、いわば親子の下克上であった。父、久政を強制的に引退させた長政は、家中の圧倒的支持を得て、絶対的に不利と言われた六角家との合戦に記録的な勝利を得る。
六角方二万五千騎に対して、半数以下の手勢でこれを打ち破った野良田合戦は、かの桶狭間合戦と比べても決してひけをとらない大戦果であった。
思うに信長が長政に武将として惚れ込んだのは、まさにそんなところだったのだろう。
長政にはすでに戦国大名として、余人には成しえない実績がある。
合戦勝利後、平井加賀の娘を六角家に返して賢政の諱をかなぐり棄てた長政は、戦国の世に独立の大名として一躍、立ったのである。
「ご正室さまとはもう、離縁なされたのでござりまするか…!?」
市が覚えず、声を上げると長政は意を決したようにしてうなずいた。
「大分、以前の話です…意に染まぬ婚姻とは言え、むごい真似をしました。一度は正室とした方を離縁して、実家に突き返し申した。…自分でも決して良いことをしたとは、思ってはおりませぬ」
若くしての家督相続、結婚に離婚、決死の大いくさ…長政の十代は、それは怒濤であったのだ。ほぼ同世代で生きる市ですらも、想像もつかない。
「ここまでが長い道のりでござった。…しかしまだ、六角家じたいは南近江に健在ですし、浅井家は一つにはまとまっておりませぬ。この体たらくで、信長公の目指される天下布武の道程へどこまで殉ずることが出来るのやら」
先だって長政は、長年の重臣に心を裏切られたと言う。
さすがにその名こそ口にしなかったが、その重臣は市との婚礼に最初は賛成をしていながら、土壇場になってその意見を翻した。
長政の代わりに、岐阜で信長との対面を果たしてから心変わりしたと言うのだが、長政にはそれが理解が出来ない。
「いっそ思いまする。浅井の家など背負うことなくこの長政、市どのに出会えていたのなら、どれほど幸せであったろう、と」
そのとき市は思った。つまり、長政の迷いが大きいのは、ことが己の胸先三寸で収まるだけのものではないからなのだ。
それだからこそ複雑に根深く、彼自身を絡めとってしまっているかのようだ。
この年齢にして、あたら目覚ましい名将としての才を開花させてしまっているがために、いつの間にか背負わねばならぬものが、このたぐいまれな器量にも余ってしまっているのだろう。
(もしかして…)
ふと、市は思った。
(今の長政どのこそ、兄上を必要としているのでは…?)
「長政どのご自身は…」
と、市の口から自然と、その言葉が口に出たのはそのときだった。
「兄上をどう思われる?…会ってみたい、とはお思いになりませぬのか?」
「…お会いしてみたい」
すると、長政がはっきりと応えた。
「長政は、一度でいい…信長公にお目にかかりとうござる」
(この市と同じじゃ)
長政の素直な音が、市の胸の底にも波紋を残すように響く気がした。
(長政どのは、憧れているのだわ。一つの道を迷わずゆくことの出来るあの兄上に)
市のはまだただの、憧れだった。だが、長政は違う。孤独である。
それは恐らく、その先を歩む信長だけが理解できよう。そうだ、今の長政にとっては信長だけが唯一の先達、生きる手本を与える理解者になり得るのではないか。
こうなったら何としても、長政を信長に会わせなくてはならない、と市は心に決めた。
「さればこそ」
と、市は長政を見据えて尋ねた。
「市に一つ考えがありまする。長政どのを一個の武士として兄にお会いさせとう存じます。…そのために、市はこの命を懸けます。長政どのはそのときこの市めに、一命を預ける覚悟がおありか?」
放たれた一矢が胸板を貫くように。
市の言葉は真っ直ぐに、長政の想いを問うたに違いない。長政は震えた。市が問いかける一蓮托生の覚悟は、波紋となって長政の長身を隅々まで揺すぶったのである。
「お市どの、貴女は。…この長政のことをそこまで想って下さっているのか…」
波紋は、力強い余韻となって行き渡り、迷える長政の心を、にわかに澄ませたようだ。
「かたじけない。…この長政の一命、市どのにいつなりとお預けいたします」
二人は無言で冷えきった手を取り合うと、今度はどちらからともなく、その身を寄せあった。




