第五話 蠢く謀略
一見した印象は、柔弱な若侍と言った感じだった。
張りのある肌は白く透き通り、切れ長だが冷たさを感じさせぬ瞳は小猫のようによく動きそうだ。髪は黒く艶やかで唇は紅く、面長な瓜実顔の顔立ちの可憐さは、姫君にも珍しい。赤銅色に灼けた野良面が当たり前の武者衆の中では、異色と言うべきだろう。だが驚くべきことは、その優男がお市の馬を軽々と取り抑えているのである。そう言えばこの男、思ったより上背がある。
(顔が大分上の方にあるでや…)
兄の信長も大きい方である。だが五尺七寸 (約一七十一センチ)ある信長より、この男はもう一つ、頭が高いのではないか。市はしばし、茫然として男の顔を見上げてしまった。馬から落ちそうな姿勢そのままだ。
「これでもう、大事には至りますまい」
馬首のたてがみを撫でながら、その男は言った。それからお市に向かって華奢な指をしたその手を伸べた。
「お手を」
「あっ、ああいや!お気遣い無用ッ!…そのッ、お見苦しいところをッ!」
さすがにばつが悪そうに、自分で立とうとする市に、その身体ごと、その若侍は抱え上げてひょいと馬の背に押し上げた。
「これは佳き馬です。失うには惜しすぎる。…ゆめゆめ、お手放しなされぬよう」
「こっ、これはかたじけなしッ…!」
そのとき市は、息が停まるかと思った。
だってあまりにも簡単に、無造作に持ち上げるから。抗う暇もなかった。ほとんど生まれて初めて、同じ年代ほどの若い男の身体に触れたのである。
洗いざらしの袖なし羽織の袂から、市が愛用しているのと同じ、桃の葉の薬湯の匂いがした。だが、その甘い香りが去った後に残る爽やかな香りは、紛れもなくこの若武者の肉体から上るものである。
「おっ、お市さまッ!大事はありませぬかッ!」
すると折悪しくそこへ、埋火が血相を変えて駆けつけてきた。
埋火は、暴れ馬を停めたのが、見慣れぬ若武者と見るや、あけすけに市の名を叫んだことを後悔した。同時に、暴れ馬を軽々と御したその男が、顔つきが優しい割に、見上げるほどに背丈があるのに、今さら気づいたようだった。
「何者ですかっ…まさか、織田家のご家中ではありますまい…!?」
埋火は、警戒心をむきだしにして誰何した。だがそれは、端から見てみれば、かなり無礼な決めつけである。
「これッ何を無礼を言うとりゃあすッ!この御方は、この市めの失態を庇うて下されたのだぞえ!?」
市が叱りつけると、埋火は不満そうに黙りこくった。そもそも今の失策は、市が花嫁修業をさぼってこんなところにいなければ、起こりえることではないのである。
「いえ、当方が不調法でした。…埃臭い往来で荒馬を乗りこなすは、見るも初々しき若衆かと思いきや、まさか嫁入り前の姫君だったとは」
「や!やあ!それは!そのう、お恥ずかしいところを…ッ」
いたずらっぽく差されて、市は顔を真っ赤にした。確かに、嫁入り前の姫君はおおよそ、往来に飛び出て、そんな荒っぽい真似はしない。
「それにつけても、織田家のご家中ですか。…あっ、そうだ確か!御家の方々の中には、お輿入れを控えた大層麗しいとの評判の姫君がおられるそうですが…」
と、若武者は興味深そうに市の顔をのぞきこむようにする。
そのときこそ市は、心臓が停まりそうになった。
「ええああ!…それは一体、だっ、誰のことを言うとりゃあすのやら。全然っ、わたしのことではないと言うか!わたしなどこの通りのお転婆でござりまするし!そもそも何かの聞き間違いでは!…ごじゃりまするまいか…」
市は最後噛んだ上に、一気にしどろもどろになってしまった。
(まずい…ここで織田の市姫とばれては)
そもそもこの失態、誰かの口の端にでも上って家中の評判にでもなれば、せっかくの麗しい姫君の評判は台無し形無し、他国への輿入れにも響くことは必定である。そうなれば、兄の信長など、烈火のごとく怒り狂って手討ちの沙汰が下るかも知れないではないか。
「ああ、左様でしたか。人違いか…私などてっきり、もしかしてあなたがその評判の姫君かと。…こう言うのも何ですが、いささか型破りながら、見ればいかにも愛らしき御方ゆえ」
と、若党は屈託なく、涼やかな笑みを見せた。
「それより、少しその木陰で休みませんか。私も見ての通りの他国者ゆえ、当国のお話など、出来れば詳しくうかがいたきものです」
「いえ!そのッ、お礼代わりにお付き合い致したいのは山々なれど、わたしたちは火急の用事があるゆえこれにて失礼をば…」
そそくさと埋火とその場をまとめて去ろうとする市に、そのとき若党が顔を近づけて何事か囁いた。
「なんですと…」
途端、お市の顔が、さっと強張った。
「どうかされたのですか、おいち…いや、姫様」
不審そうに割って入ろうとした埋火に、市は今、告げられたことを話す。
「まさか…」
埋火も、なぜかはっと息を呑む。
それで二人は、その得体の知れない若党に乞われるままに人目につかない篠藪のたまりに入ることになったのだ。
「この辺りで良いでしょう」
辺りを憚るような仕草をすると、彼は微笑んだ。
「ではお話ししましょう。…実は今の馬の手綱、何者かの故意にて切られてござる」
さっき二人は、彼に耳打ちされて初めてそのことを知ったのである。だが、半信半疑であった。まさかと言う顔で市と埋火は顔を見合わせた。
「恐らくは、元々どこかで目立たぬよう切れ目を入れられていたのでござろう。…まずは、切り口を検められよ」
言われて、市と埋火は突然切れた手綱の断面を検めた。なるほど、半分はほつれて切れたように見えるが、その反対側にはどこかわざと入れたような鋭利な切り口が走っている。…ような気がする。
「いや、しかし、考えすぎでは…!?」
「…では、これでもでござるか」
まだ信じきれない二人の前に、若侍は自分の手のひらを差し出した。
見るとそこにたった一本、小指の長さにも満たないほどの小さな針が乗っているのが分かった。
「ご愛馬の鼻の口から、これを見つけました。忍び者が、暴れ馬の騒ぎを起こすときには、もっぱらこれを使いまする」
眼に見える証拠を見せつけられて、二人は息を呑んだ。
どうやら死に至る毒は塗られていないが、これには刺激物が塗られているようだと彼は言う。万一、馬がこれを鼻腔に吸い込めば、雀蜂に刺されたほどに大暴れするはずである。
「暴れ馬はどうやら、忍び者に操られていたようでござる。…恐らく、このまま馬とともにどこぞの藪だまりへでも飛び込めば、そこで取り籠められて、どこぞの遠国へさらわれていたやも知れませぬな」
優男の割に、若侍は平然と、恐ろしいことを口にした。
「しかし誰の指金で、そんな恐ろしいことを…!?」
市が当然の疑問を尋ねると、若侍は苦笑して首を振った。
「人さらい人買いの横行するのが巷の常です。…されど、織田家の家中の姫君と知ってさらうものなら、素性は絞れましょう。まずは、斎藤家。そして、近江の六角家」
「六角家…!?」
斎藤家はともかくとして、聞きなれぬ家の名を聞いて市は眉をひそめた。
「こたび、織田家の姫君が輿入れなさる浅井家のもとの主人が六角家です。…この六角家は、甲賀者の元締めの一人なのです。国越えして密かに織田の姫君をさらおうなどと言う謀略は、朝飯前でしょう」
「あっ、あの!六角家の話は分かり申したが、そもそも、なぜそのようなことをご存じで!?」
六角家そのものよりも、目の前の若者が恐ろしくなってきた市は、思わず悲鳴のような声を上げてしまった。
「風の噂を聞きつけました。…輿入れを控えた織田の市姫は、ひとり馬の遠乗りに出るのが日課なのだと」
何もかもお見通しだと言うように、青年は笑った。
「ここでせっかくの新妻をさらわれては、婿の不覚ゆえ。…浅井備前新九郎長政、急ぎ美濃へまかり越した次第」




