78.業の深いラベンダー
銃の手入れは、もう済ませてあるな。
せっかくの長旅、二人してだんまりっつうのももったいねえ…………よし、ここはひとつ、暇つぶしに昔話でもしようか。
え? ははん……不安だって顔してるな。図星だろ。なに、そう気負いなさんな。老いぼれの戯言なんぞ、聞き流してくれるくらいがーーちょうどいいんだからよ。
*
「北陸だけはやめてくれよ」
看守に向かって、ぶっきらぼうに吐き捨てる。どうせ豚小屋みたいな部屋で暮らすなら、雪国は雪国でも、暖房がついている網走のほうがよっぽどマシだと思った。
恵業 笛吉郎。もともとは、お国のために命を懸けて戦ういち兵士だった。
それもーー43年前、日本がイタリアに、あっさりと負けるまでは。
国が、無条件降伏を認めてからというものの。恵業を取り巻く環境は、一変してしまったのだった。
軍が解体されると、同期の者たちは、揃いも揃って無職になった。けれどもお偉がたは皆一様に、恵業たち"お気の毒な存在"を見て見ぬふりした。結局、使い捨ての道具としか思われていなかったのだ。彼らは下っ端を気にかけるより先に、目前の横領合戦に夢中になっていたようだった。
それを皮切りに、恵業は仲間を寄せ集め、ずっと憧れていたマフィアになることを決意する。さてこれから、どんなやつと戦えるんだろうかと、それはそれは楽しみにしていた。口々に夢を語らいながら、マフィアらしく酒を呑む。どうしようもないほど、青かった。
でも。そんなものは所詮、スクリーンを通して見える幻想にすぎなかったのだと理解するまで、そう時間はかからなかった。
日本在留マフィアどもになすりつけられたのは、たしか、公務執行妨害と傷害致死、それから、違法ドラッグの横流し。
恵業は一夜にして、札付きのワルになった。
生き残ったのは恵業だけ。仲間は皆、刑務所の劣悪な環境に耐えられず自殺してしまったのだ。
当時の日本は、敗戦直後というのもあってか、信じられないくらいに混沌としていた。逮捕者が増えすぎたせいで、刑務所の男女混合すら当たり前。いうまでもなく、無法地帯だった。
坊主頭をじょりじょりと撫でながら、隣の牢屋の女がにんまり笑う。
「ふふ、あなたの瞳、左右で色が違うのね。猫みたい」
恵業は会話するのも億劫で、ふいとそっぽを向いた。
「あら。気を悪くしないでほしいのだけど、素敵って言いたかったのよ」
深層の令嬢、箱入り娘なんだろうと思った。別に、やんごとなき身分のお方が戦災孤児になるというのも、特段珍しい話ではなかった。
気づかれないよう、静かに女を見やる。女は、薬物乱用だかオーバードーズだかで捕まったらしい。
「あなた、よく見たら美形よ。ねえ……」
獄中で出逢った女は、形のいい唇でこう告げたーー私と一緒に駆け落ちしましょう、と。
死刑廃止が囁かれるようになったのは、それからずっと、先のことだった。
*
薬の禁断症状からなのか、たまに強迫観念に襲われることはあれど、女はだんだん、憑き物が落ちたような態度を取るようになった。お互い、弱さを見せても気にならない。むしろそれが、心地よい。
女との暮らしは、年月を重ねるごとに色濃いものとなっていった。カレンダーに○がついているーーふたりの脱走記念日だ。籍こそ入れなかったが、いわゆる、内縁の妻というやつだった。
恵業は少し考えて、ただいまを言うのをやめた。本当は帰ってやりたいが、いかんせん、まだまだ仕事が残っている。
恵業は半年ほど前、新しい会社を立ち上げた。貿易を生業としている社長。ただし表向きは、だけれど。
小さな会社は、夜が来れば「マフィアを狩るマフィア組織」に変身する。
恵業は拳を握りしめた。
ーーイタリアマフィアは今日も、悪行の限りを尽くしている。そう思うと、何もせずにはいられなかったのだ。
しかし、現実はビスコッティのように甘くはなかった。よく分からない素人による起業。たしかに、無謀といえば無謀だった。何より大事なのは実績。一刻も早く、実績を積まねば。恵業は、いつしかやけ酒を繰り返すようになった。肌だって荒れている。
「そこにいるの……恵、ちゃん?」
恵業はハッとなって振り返った。しまった、と急いでドアに手をかける。
「待って! ……行かないで。大事な話が、あるの」
ついに、別れを切り出されるのだろうか。恵業は目を伏せた。無理もない、と思う。あれだけ長い間、放っておけばーー
無言で、手を引かれる。寝室で、他の男が待ち構えているかもしれない。
覚悟を決め、うっすらと、目を開けた。
恵業は言葉を……失った。
テーブルの上に山のように積まれた、白いもの。紙おむつが一枚、足もとに落ちてきた。
「恵ちゃん、私ねーー妊娠したのよ!」
目の焦点が合っていないと分かった途端、悟る。薬の飲み過ぎでーー想像妊娠してしまったのだと。腹が、限界までへこんでいる。
恵業は、自分で自分を呪いたくなった。
「男の子かなあ、女の子かなあ。恵ちゃんと似て、オッドアイになるかもしれないなあ」
そんなふうに、ずうっと口走っている。
「やめてくれ。いい加減、目え覚ませよ」
それ以上、言うな。閉じろ、口。
「お前、"それ"……誰の子だよ」
一刹那。女は顔を、大きく歪ませた。
女は半狂乱になってアパートを飛び出したが、恵業はそれを追いかけようとはしなかった。
もう、疲れていたんだと思う。
後日、思い出したように女を探しに行ったことを、恵業はひどく後悔した。
ーーもともと恵業に恨みを抱いていた連中による、盛大なリンチ。死体は、家から遠く離れた河川敷で見つかった。
*
(あんな顔されちゃあ、たまらねえよ)
たすけてと泣く陽は、あの時の女と、同じだった。
恵業は眼帯を外す。左右で色の違う目が、窓に映っていた。
片方は、緋の瞳。陽が、息を呑んだのが分かる。やっぱり両目揃った方が、視界は良くなるのだなと思う。
突然、機体がぐらりと揺れた。二人して、身体の重心が傾く。
大きな鳥か何かがぶつかったのかと思って、下を見るとーー
「聖田……いや、ディアボロだ。」
大砲にもたれる聖田がいると教えたら、陽は動揺したように瞳を潤ませた。今なら、たとえ千里先でも、見通せる気がした。
「パラシュートが一つだけ積み込んである。陽は逃げな」
じっと黙って恵業の話を聞いていた陽がついに、口を開ける。肩が震えていた。
「ボスは……どう、なるんですか?」
「どうもしない。強いて言うなら、流れに身を任せるだけだ」
陽は、それなら嫌ですとかぶりを振る。
本能に任せて陽を拾ったが、はたして本当に、その判断は正しかったのだろうか。
陽は、いつまで経っても取捨選択ができないやつだ。リスクとか、考えないやつだ。
ある意味強情な姿勢に、拍手さえ送りたくなるが、恵業は心を鬼にしてパラシュートを装着させる。
「行け! 日楽 陽!」
(女ひとり守れねえで、何がマフィアだ)
最期に仏頂面もあれかと思って、にかりと笑ってみせる。陽を夜空に、突き飛ばした。
さっき浮かんだ問いだが、答えはおそらくNOだ。
だけど、とも思う。陽は気絶せず、夜空を舞っていた。
ああいう、なんだかんだ言って臨機応変に動けるやつが、実は一番強かったりする。
さあて、とコックピットに、向き直る。
「ここから先は、男のロマンを存分に味わってやるとするさ」
聖田は容赦なく大砲を撃ってくれるが、憧れの地で果てることができるのなら、むしろ本望だ。
ーーいっそ、こんな俺を笑ってくれ。なあ……照子。
オルタ湖が、こっちにおいでと誘っている。恵業はそのまま、ラベンダーの香りに包まれた。
あとがき
恵業はセイコに、照子を重ねている節があります。しょうことセイコ、なんとなく響きが似てるから。
それと、若かりし頃の恵業の夢は、"照子と一緒に世界一周すること"でした。62話で出てきたラベンダーのコロンに関しては、恵業が自分の香りを照子にプレゼントした感じでしょうね……おそらく。照子はどちらかと言えば薔薇を好んでたっぽいです。お墓参りが最たる例。




