64.アモーレしよう
男はエリベルトと名乗った。
エリベルトは血の海からざばりとあがると、上等そうなバスローブを適当に掴み、着替え始めた。影助はにやりと笑って、引き金に指を置く。着替えに気を取られている今がチャンスーー
「キミモリは俺についてくるといい。ケイゴウと言ったか、むこうで寂しがっているはずだ」
影助はとっさに、引き金から指を離した。ケイゴウ、けいごう、恵業?
「従者のお前が迎えに行ってやるのが、筋というものではないか?」
頭の中ですぐさま、これは罠だと警告音が鳴る。それでも、分かっていても。
(もしも母さんみたいに、ボスがオレを置いていったら?)
影助は目を伏せる。舌打ちしながら、仕方なく両手を挙げた。
ーー少し、話をしようかキミモリ。
エリベルトの言うがまま、影助はごてついたエレベーターに乗った。
「お前にはせっかく高潔なイタリアの血が流れているというのに、何故俺たちザンザーラを選ばなかった?」
話すのも億劫だったので、影助はエリベルトをひと睨みする。
「おお! たしかに、これはなかなか難しそうだ。うまい勧誘の仕方を、前もって朱華に聞いておくべきだったな。」
聞き覚えのある人物の名に、眉をひそめる。
「……俺はお前の優秀さを買ってやっているんだ。それが、カルマなんぞにやすやすと飼い慣らされ、実に哀れでならないよ。宝の持ち腐れだとは自分で思わないのか」
「うるせェ、黙れ。オレはオマエとおしゃべりする気なんかねーンだよ。殺すぞ」
銃口を向けるとエリベルトは、おおげさに眉を八の字にしていた。人質を取られた影助にはエリベルトを殺せるはずがないと、分かってやっているのだ。吐き気がする。
あいにくヤロウを見つめる趣味は持ち合わせていないので、影助はガラス越しに外を眺めた。さっきからどしんどしんと音が鳴っているせいで、頭痛がひどい。音が近づいてきたとき、影助は目を見開いた。
「なっ……陽⁈」
こんなところにいるはずもないのに。影助は一瞬、幻覚でも見ているんじゃないかと思った。どういうわけかバスローブ姿で、陽は獅子を自由自在に操っていた。
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エレベーターから、がこんと無機質な音が鳴った。陽はとりあえず、獅子から降りる。
「影助さん! どうしてここに?」
「……聖田はどうした」
影助は、陽の質問に答えてはくれなかった。
静かにじんざを一瞥した影助は、苛立っているようにも見えた。眉間にはしわまで寄せられている。
「朧さんは……ボスと一緒に、足止めしてくれてるんです。たしか、若狭さんって人を」
「テメェ、オレを騙しやがったな!」
地を裂くような声をあげ、影助は激しく舌打ちを鳴らす。陽は一瞬、それが自分に向けられたものだと思って、びくりと肩を震わせた。
「はは、そうかっかするなよ。何も、俺の部屋でとは一言も言ってないだろう」
影助に軽口を叩く妙齢の男性。その人は透き通る金髪をさらりとなびかせながら、陽のほうを向くと、にこやかに右手を差し出してきた。
「ーーやあ。アキラハル。お目にかかれて光栄だよ、俺の名はエリベルト・ザンザーラ。親しみを込めてエリーと呼んでくれてもいいぞ」
君になら特別に許そう、とエリベルトは耳元で低く囁く。そのまま、陽の耳は甘噛みされた。
あまりのことに、陽は短く叫んだ。影助が気づいてくれなかったら、陽は今頃、耳なし芳一の二の舞になっていたかもしれない。
「我慢がきかなくてすまない。綺麗な血管が見えたものだからつい、な」
じんざは牙を剥き出しにする。それでもエリベルトは、おどけたようなポーズをやめなかった。
*
「プリマ レ シニョーレ。お先にどうぞ。」
先導していたエリベルトが陽に前を譲って、部屋へ入るよう促すと、影助は瞬時にエリベルトを押しのけた。
そうして影助は、密着しそうになるくらい陽のすぐ後ろを陣取る。
鬼が出るか、蛇が出るか。陽は意を決して、ひときわ輝きを放つ豪華な部屋の扉を開けた。
ベルベットのソファに腰掛ける人物に、陽は絶句した。視線と視線が、絡み合う。
「ありゃ。誰やと思えばおはるちゃん。なんや、まんまと騙されてくれた思てたのになあ」
くつろぐように大きく、伸びなんかしている。
「あ。でもその感じやと、最初、俺だって分からへんかったやろ?」
『もう遅いから、お前は一旦部屋で休んでろ。ん、ああ……じきに戻る。あとちょっとで見つけられそうなんだよ。それに、イタチごっこのままじゃ腹立つしな』
陽はふいに、昨晩の通話を思い出した。そういえばあれは、誰からかかってきたものだったんだろう。風邪気味で掠れているんだとばかり思っていた、誰のものでもない声。
その瞬間、嫌というほど聞いた、カヨのすがるような声がフラッシュバックした。陽はたちまち、その場にくずおれる。
ついに鉢合わせてしまった。現実味なんて、まるでない。
ーー朱華 帷。
震える声で、そう口にした。




