60.豹はローラースライダーと遊ぶ
時計はすでに、夜の11時をまわっていた。
「こりゃもう先に休んでてもいいぞって、陽たちに一報入れてやったほうが良さそうだな」
そんな恵業の計らいに影助は、オレがかけますよとトランシーバーを取り出した。
「……出ねェな」
恵業はひとつ、考えるそぶりを見せる。
「いいさ。聖田もついてることだし、心配いらないだろ」
影助はちらりと、時計を見やった。
「まあボスがそういうなら……」
「影ちゃんいいのォ〜? いまごろランデブーかもよ」
「ハッ、ほざけ。」
そうして、トランシーバーを放るようにポケットへと投げ入れた。
*
いまだに、女の手がかりは一切掴めていなかった。いくら逃げ足が速いにしても、ここまで来るともはや看護師というより仙人の域なのではないか。
影助は窓を一瞥した。紫の雲は、かぎ裂きのようにたなびいている。もう日も昇ろうかというとき、トランシーバーに連絡が入った。セイコからだ。なんでも、最初に訪れたギャラリーに、ある異変が起こっていたのだと言う。
先に着いたであろう恵業とセイコは、二人して狐につままれたような表情をしていた。
影助も目線を合わせてみると、地獄篇が逆さまになって、それに注目するように煉獄篇と天国篇が90°に回転していた。
「見てよコレ! どこからどう見ても罠だよねっ?」
「みてェだな……クソっ! おちょくりやがって!」
一番近くにあった天国篇の絵を力まかせに叩いたら
ーーがこん、と何かがずれる音がした。途端、肩幅大の穴が影助たちの前に姿を現した。
「……この穴、もとからあったやつだよな? 影助がぶっ壊したわけじゃねえ」
恵業はそう言うと、衝撃で散らばった額縁の破片を集め出す。
(いや、まさかな。だがーー)
影助は、逆さまになった地獄篇の、金の額縁に手をかけた。引き留めようとする二人のことはあえて無視して、予想通り露わになった空洞に片足を突っ込む。
「一人、思い当たるやつがいる」
悪だくみの笑みを、心配する二人に向けた。
こんな殊勝なマネをしてくれるヤツなんてきっと、アイツくらいだ。
*
地獄の釜の蓋が開いた瞬間、影助は足場を失った。
唐突な浮遊感に、うおッと短い叫び声をあげてしまう。
「チッ、痛ってーな。」
とっさの受け身は取れていたと思うが、尾てい骨あたりに一瞬、鋭い痛みが走る。てんで格好がつかない。
(これじゃ、アイツと変わんねーじゃねェか)
影助の脳裏で、のほほんとした間抜けヅラが、シャボン玉のように浮かんでは消えてゆく。
もしも今、陽がすぐ隣にいたならば、絆創膏くらいは貼ってくれたのだろうか。上目遣いで、心配そうにして。
いやしかし、あの性格だ。陽なら、絆創膏の貼る位置を間違えては貼り直す……なんていった行為を繰り返しかねない。悪気がなさそうなのが、かえって残酷さに拍車をかける。何はともあれ、あまり期待はしないほうが賢明だろう。やっぱり一人でよかったと、影助は心の底から思う。
気が遠くなるほど高い天井を見上げてみる。どうやら勾配のきつい下り坂の先に、影助は放り出されたようだった。
(つーかどこだよ、ココ)
地下にあるのは間違いないが、本当に部屋の中ーーというか絵の中なのだろうか。夜はとっくに明けたはずなのに、まるで暗い森の中にいるみたいだ。
さくさくと、地面を踏みしめる。影助が歩みを進めるごとに、湿っぽい鉄の匂いは濃さを増してゆく。
手持ち無沙汰の道すがら、かつんと、白っぽくて細長いものが影助の革靴に当たった。
一見白樺の枝のようだが、白い棒の先端をよく見てみたところ、それは生殖器のように真っ二つにわかれていた。これは多分ーー
「じんこ、つ」
侍ならば居合。ふいに、背後に気配を感じたため、影助は素早く銃を取り出した。
低く唸る獣の鳴き声は地響きのようにゆっくりと、でも着実に近づいてくる。
「ぐるる………………」
豹だろうがなんだろうが、影助はまっすぐ睨んだ。そいつは、お前を喰い殺してやる、みたいな生意気な目つきをしていた。気を確かに持てと己に言い聞かせる。
影助が目を見開いたとき、戦いの火蓋は切られた。豹は、キマった薬中のごとく影助に飛び掛かってくる。影助も負けじと、即座に前足を蹴る。弾は極力減らしたくないし、取っ組み合いの大喧嘩は慣れっこだった。ただ、相手が豹ってだけで。
「ち、しつけーな。仕方ねェ……特大サービスだコンチクショウ!」
影助は、首を噛みちぎろうとする豹を止めるべく、回し蹴りをお見舞いしてやった。
けっこういいのが入ったと思ったのに、豹はくずおれなかった。それどころか、影助の見事な一撃が、豹の逆鱗に触れてしまったようだった。マジかよと思ったのと同時に、影助は豹に押し倒された。吐く息は獣臭いし、どかそうにも、潰されそうなくらい重たかった。
「テメェ……オレを手籠めにしようだなんて、ずいぶん見る目あンじゃねーか」
まさしくケダモノ。その意欲だけは、どうにか買ってやりたい。が。
「オレを押し倒していいのは、まだまだおぼこいシニョリーナだけだ!」
性癖開示とともに豹の隙をつけた影助は、ポケットからタバコのライターを取り出して、しゅぼっと火を点ける。自慢の髭を少し炙ってやると、豹はだんだん後退りし始めた。そのまま、できる限り追い詰めていく。すると豹は、ぱっと踵を返し、一目散に高いところ目掛けて駆け出して行った。あの速さを維持し続けられれば、そのうち火も消え失せることだろう。
「はん、動物ごときに狩られンのはごめんだね」
影助はひらひらと片手を振った。
またしばらく歩いていくと、影助を通せんぼするかのように、道の真ん中にバリケードが立ちはだかっていた。ーーどれもこれも、白骨化した死体。しゃれこうべが、渦高く積み上げられていた。
影助はそれらを、迷いなく撃っていった。一つ一つ丁寧に弔ってやる時間はないし、ましてや弔うだけの義理もないだろう。
しだいに、寒くもないのにくしゃみが止まらなくなってくる。鉄の匂いと、硫化水素の匂いが混じり合って、そこらじゅうに充満している。
気は進まないが、影助は匂いの根源に近づいていった。
*
檻を、見た。中には血まみれの美女たちが、所狭しと敷き詰められ吊るされている。
絹のような金髪を梳かした男が、ゆったりと浴槽に浸かっている。吸血鬼みたいな白い肌に、獣のように異様な輝きを放つ瞳。目は逸らせなかった。
檻がちょっとでも揺れると、美女の体に棘が突き刺さる。ぼたりぼたりと血が落ちるたびに、男は感嘆の声をあげていた。
男が浸っているのは湯なんかではなく、愉悦でできた澱だ。
男の傍らではヴェネチアンマスクが、見るも無惨に散らばっていた。




