第4章ー15
そのように悪戦苦闘しながら、中国本土や朝鮮半島へと、日米両国から、大量の兵員や物資等は送り届けられていた。
これは、ソ連や共産中国にしてみれば、明らかな日米満韓軍の反攻準備だった。
これに対処するために、ソ連軍側の本音としては、一旦、奉天周辺に部隊の主力を置き、日米満韓軍の反攻に対して、積極的な機動防御を図りたいところではあったが、1939年秋からの満州における大攻勢の成功が、そのような作戦の採用を困難にしていた。
スターリン以下のソ連政府首脳は、表面上の大戦果に酔いしれる余り、部隊の前進配備を進めるように督励しており、ソ連軍首脳の一度、部隊の主力を後方に下げるべき、という提案に拒否反応を示した。
そして、東清鉄道本線等の改軌は、日米等の空軍による妨害活動にも関わらず、それなりに順調に進んだ結果、1940年1月末にほぼ完成した、という現実があった。
これにより、ソ連極東部等においては軍民を問わず、補給体制が潤滑に進むようになっていたことも、ソ連政府が強気になっている原因だった。
補給が潤滑に進むようになっているのに、敢えて下がる必要があるのか、という主張、反論がソ連政府首脳から為されては、ソ連軍首脳部も、部隊を後方に下げるという提案を止めざるを得なかったのである。
ちなみに、ソ連政府、軍にしてみれば、第一の目標だった黒竜江省油田は、日本軍等が撤退する際、生産設備等を爆破等により、効果的に破壊していたために、再度の量産体制を整えるには、1940年の秋にまで掛かると見られており、ソ連政府、軍にしてみれば、期待外れもいい所だった。
(黒竜江省油田復興のための資材輸送が、極東部にいる軍への物資輸送よりも、優先度が落ちる以上、仕方ない話ではあったが。)
そして、他の満州所在の鉱山等も似たり寄ったりという現状であり、満州にあった工場の工作機械等の資材は、ほぼ洗いざらい日米満が後方へと持ち出したり、破壊したりという有様だった。
こういった事情も、更なる戦利品を求めた攻勢を、ソ連政府、軍に追及させたがる心理的背景になっていたのである。
だが、こういった事情は、裏返せば、日米両軍を主力とする反攻作戦が、結果論とは言え、成功しやすいように、ソ連軍が動くことに他ならなかった。
日米両軍の諜報が、推測しているように、ソ連軍は1939年秋からの侵攻作戦により、多大なる損害を被ってはいたが、それは後方からの補充等により、充分補いが付くモノに過ぎなかった。
こういったことから、ソ連軍は前のめりな態勢を執ることになっていたのである。
(諸説あり、各説の幅も大きいが、いわゆる通説では、1939年秋からの満州侵攻作戦により、ソ連軍は1939年2月末時点までの6か月間で、50万人の死傷者を出していたとされる。
もっとも、この程度の死傷者数は、この当時のソ連軍にしてみれば、蚊に刺された程の被害で、被害と言えない被害なのも、全くの事実ではあった。)
そして、それを航空偵察等により把握した日米満韓軍は、このソ連軍の態勢を逆用した反攻作戦の準備を粛々と進めることになった。
そのために、戦艦「高雄」以下の日本の戦艦群は、この反攻作戦に活用されることも決まった。
「高雄」艦長の大西新蔵大佐に言わせれば、
「日本史上最大最強にして、世界初の16インチ砲戦艦の初陣が、対地上軍支援の艦砲射撃任務かね。東郷平八郎元帥が、泉下でこの世の末も極まったものだ、と嘆きそうな話だな」
と苦笑いしながら、任務に当たることになった事態であった。
勿論、大西大佐にしても、この任務が重要なのは分かってはいる。
だが、隔世の想いがするのも否定できない話だった。
ご意見、ご感想をお待ちしています。




