エピローグ1 終わりの物語と始まりの物語
――雪が降っている。あの日と同じように、真っ白な雪が夜の街に、しんしんと舞い降りている。
その日、東京には季節外れの大雪が降っていた。
タクシー乗り場には長い行列ができ、寒さに震え、白い息を吐きながら、無言で歩道を歩いている人の群れは、その多くが疲れ果てた社会人たちに見える。
そんな中、大きめの傘を一本だけ差して、肩を寄せ合ってゆっくりと歩みを進めるで一組の男女がいた。
どちらも二十代後半だろうか。一見すると相合傘のカップルに見えるが、女性よりも一、二歳年上に見える痩せた男性が大儀そうに片足を引きずり、女性がそちら側に寄り添って肩を貸していることから、この大荒れの天候にもかかわらず、単に場をわきまえない類いのバカップルではないだろう。
「……ああ、また雪が降っていますね。智弥さん。すみません、足元気を付けてください。ご迷惑をおかけします」
自由に動かせるほうの腕で傘を持ちながら、青年が心底申し訳なさそうに介助してくれている女性に謝罪しつつ、なるべく傘を彼女の方へさしかける。
顔立ちは整っている方だが、特筆に値するほどでもない。切れ長の目をしているが、活力に乏しい。個々のパーツはそれなりなのだが、全体としてみると細かな減点で、ごくごく平凡に見える。そんな青年であった。
「気にしないで秀樹さん。綾瀬――いえ、『緋雪』さんの命日にご焼香するのは、私も納得の上だし」
そうひっそりと微笑むのは、素はとても整った顔立ちをした女性だが、化粧やお洒落に興味がないのか、この年頃にありがちなキラキラとした派手さはなく、どことなく所帯じみた生活臭と薄幸そうな諦観が表情や所作にこびりついていて、非常に惜しいと思える女性である。
ちらりと肩を貸す『秀樹さん』と呼んだ男性の、首元に巻かれている古びたマフラーに視線を走らせる『智弥さん』と呼ばれたその女性。
手編みらしい白いマフラーには色違いの赤い毛糸で雪華模様――幾種類かの雪の結晶をかたどった模様が器用に散りばめられていた。
それから自分が手にしたままの赤い小薔薇――昔ながらのしきたりだと、赤い花や棘の生えた花は不謹慎だと目くじらを立てられる場合もあるが――に視線を巡らし、ほうっ、と白い吐息を吐く。
(――緋雪さんの遺品か)
若干モヤリとするものもあるが、今はいもういない故人からの贈り物、それも男性(オフ会で会った当人は『ほぼ美少女』としか見えない容姿ではあったものの)からのそれに嫉妬するなど、我ながら了見が狭い……そう自分に言い聞かせながら、なんでもない風を装っていまだ左半身に麻痺の残る秀樹を支える智弥。
ほどなく雪が積もったガードレール。その下に針金で括りつけられた空き缶の花瓶に、すでに誰かが供えたのであろう、花や缶ジュースが幾本か、雪に隠れるようにして置かれているのが窺えた。
「……ああ、まだ緋雪さんを忘れずに手向けに来てくれる人たちがいるのですね」
淡い笑みを浮かべる秀樹。綾瀬奏の家庭環境については生前に軽く話を聞いたことがある。両親が亡くなり、引き取られた親戚の家で虐待に近い扱いを受け、行政の手でシェルターに隔離してもらった……等の背景から、間違っても親類縁者が命日に訪れたわけではないだろう。
「“らぽっくさん”か“タメゴローさん”あたりかな? “影郎さん”は……一昨年、オーストラリアに帰国したから、さすがに無理だろうね」
「ふふ、まさか影郎さんの中の人が、外国語指導助手をしていたオーストラリア人だったなんて、思ってもみなかったわね。恥ずかしげもなく似非関西弁を喋ると思っていたけど、どうりでね」
思いがけずにイケメンだった彼を思い出して、智弥は懐かし気に思い出し笑いを浮かべた。
「もうあれから七年ですか……」
しみじみと感慨深げに、雪の積もった花を見下ろしながら、秀樹が独り言ちる。
七年というのは綾瀬奏が亡くなってからだろうか、それとも同じこの場所で彼が――秀樹がトラックにはねられ生死の境をさまよい、二年間も昏睡状態になっていたそのことだろうか。それとも『エターナル・ホライズン・オンライン(略称『E・H・O』)』がサービスを終了してからのことだろうか……?
様々な思いが彼女――『E・H・O』における【爵位保持者】と呼ばれた高レベルプレイヤー“アチャコ”こと、北村智弥(旧姓・相川)――の胸に去来するのだった。
もともと社交的ではなく、ひとりで本を読んでいるのが好きな内向的な子供だった、智弥。
だが小・中学校まではまだしも、女子同士が派閥を作るようになる高校生になると、キラキラした価値観に馴染めない彼女は自然と孤独になり、やがて人間関係に疲れ果てて高校を中退して、ほぼヒキコモリとなり……そこで思いがけずに出会った『E・H・O』に没頭し、現実の芋臭くて垢抜けない自分とは正反対の、蓮っ葉で婀娜な容姿と言動のプレーヤーを演じていたのは、ままならない現実に対する反動と、もしも自分がこんな風だったなら……という羨望もあったからだろう。
しかしその『E・H・O』が、思いがけずに突然運営中止となった日から、智弥の日常は一変した。
最初は茫然自失。
『E・H・O』の公式フォーラム、SNS、匿名掲示板を片っ端から漁り、運営中止の真相を必死に追いかけた。
「サーバー障害で復旧不能」「投資家撤退」「法的トラブル」……断片的な情報が飛び交う中、ついに決定的なスレッドを見つけた。
『DIVE』――ゲーム内で神がかり的な強さを誇り、ギルド連合を率いてラスボスを初クリアした伝説のプレイヤーが、実は『テクノス・クラウン』のプログラマー、北村秀樹だった。しかも、彼が自らサーバーデータを破壊し、復旧を不可能にしたのだという。動機は不明。裏切り者として、プレイヤーコミュニティは大炎上した。
智弥の胸に、怒りが沸き立った。「あんたのせいで、私の居場所が……!」 だが、事態はさらに複雑に絡みつく。
北村秀樹は、新規アップデート開発の最終フェーズで連日の徹夜続き。一年で五十kgも痩せ細り、注意力が散漫になっていた矢先、大型トラックに轢かれ意識不明の重体に。ICUに運ばれた彼のニュースが、地元紙に小さく載ったのを、智弥は偶然見つけた。
ゲーム仲間の一人――元ギルドメイトの「ルナ」――が「DIVEの中の人、ヤバいことになってるよ」と連絡をよこし、皆で情報を共有するうちに全貌が明らかになった。
会社は北村を「業務上過失によるデータ破壊」で訴えようとした。ところが、北村の弁護士が反撃。北村のPCやスマホに残された膨大なログが証拠として提出されたのだ。
労働基準法を遥かに超える残業時間、未払い賃金、他の社員や上司からの罵詈雑言の録音、社長以下役員による会社経費の私的流用……さらに、勤務医とグルになって健康診断を偽造し、「問題なし」と虚偽報告していた悪質さまで暴かれた。
マスコミがこれを嗅ぎつけ、大々的に報道。「ブラックベンチャーの闇」「過労死寸前の天才プログラマー」――スキャンダルは一気に広がり、『テクノス・クラウン』は資金繰りが悪化して破産。北村への訴訟は取り下げられ、痛み分けのような形で決着した。
智弥は、最初こそ北村を「ゲームを殺した男」として憎んだ。だが、詳細を知るにつれ、憎しみは薄れていった。あの『DIVE』のプレイスタイル――完璧なタイミングで仲間をフォローし、皆を勝利に導く姿――が、過酷な現実の裏返しだったのだと気づいたからか。そしてまた、ゲームがなくなった喪失感は、幸か不幸か彼女に社会復帰を強いた。
元仲間たちとオフ会を開くうち、「DIVEを見舞いに行こうぜ」との声が上がった。病院の場所が意外と近かったこともあり、智弥も、半ば流されるようについていった。
病室で見た北村秀樹は、痩せこけ、管だらけの亡霊のようだった。皆が励ましの言葉をかけ、智弥はただ黙って傍らにいた。週に一度の訪問が習慣になり、わだかまりはいつしか消えていた。そして二年目の秋、奇跡が起きた。モニターの警報が鳴り、医師たちが駆けつける中、北村の目がゆっくりと開いた。
「長い長い、悪い夢を見ていた気がする……『E・H・O』の世界が、崩れ落ちる夢を」
その言葉を、たまたま立ち会っていた智弥は鮮明に覚えている。覚醒の瞬間、北村の視線が彼女に絡み、かすかな微笑みが浮かんだ。
リハビリは長く、苛烈だった。左半身に麻痺が残り、最初はベッドから起き上がるのもやっと。智弥は自然と手伝うようになった。マッサージをし、歩行器を支え、食事の介助まで。北村は、かつての『DIVE』らしいユーモアを交えながら感謝を口にした。
「アチャコか……こうして現実で会うなんて、なんだろう、なんだか夢の続きみたいだ」
智弥は照れくさく笑った。垢抜けない自分を、ゲーム内で演じていた蓮っ葉なアチャコが、今、現実の支えになっている。北村の回復が進むにつれ、二人は互いの過去を語り合い、共有した喪失――失われたゲームと、取り戻した人生――を糸口に、心を通わせていった。
やがて、北村は立ち上がり、歩けるまでに回復した。左半身を少し引きずりながらも、智弥の肩を借りて病院の庭を散歩する姿は、まるで古い映画のワンシーンのよう。
結婚式は小さな式場で、家族とゲーム仲間の幾人か招いただけのささやかな……それでいて、皆から祝福された温かなものだった。
あれから三年半――。
現在は、中小企業の事務員として働く智弥と、ライターとして在宅ワークを請け負っている秀樹。
いまだ子宝こそ恵まれないが、それなりに幸せな家庭を築いていると自負する夫妻であるが、贖罪なのかトラウマと化しているのか、頑なにプログラム関係の仕事を忌避する秀樹。
あれほど熱意を傾けていたMMORPGやソシャゲすら触ろうとしない秀樹の一貫した姿に、智弥は複雑な思いを抱いたまま何も言えずにいた。
だが、彼女は知っている。しばらく前に、昔馴染みで中堅ゲーム会社の二代目社長から、「DIVEさんの才能を腐らせるのは惜しいですよ」と、思いがけずに連絡があって、その熱意に打たれたのか……或いは心境の変化があったのか、秀樹が前々から温めていたゲームの企画書を、「あくまで手すさびですが」と見せたところ――。
ぜひともこの企画に沿ってゲームを開発するので、現場主任として参加して欲しい。もちろん無理はさせないし、『テクノス・クラウン』の二の舞を踏まないように、持ち株の何%かを譲渡するので、株主にして役員待遇でお迎えする用意がある、と破格の条件で要請をうけ、密かに悩んでいることを……。
可能であれば秀樹にはもう一度かつての情熱を取り戻して欲しい。だが、それはエゴでありいくら妻でも、元『E・H・O』のプレイヤーとして迂闊に触れてよい話題ではない。
「…………」
無言のまま黙祷する秀樹に合わせて、智弥も瞑目して“綾瀬奏”のために祈りを捧げた。
大雪が降りしきる、七年前と同じ交差点だった。信号は青に変わり、歩行者たちが傘を差して横断歩道を渡っていく。
その流れの外れ、事故現場のすぐ脇に小さな空き缶で作られた花立てがある。
片足を引き吊りながら、秀樹が智弥の手から赤い薔薇が三本だけ添えられた花束を受け取り、代わりに傘を渡すのだった。
子供がケンケンをするように、片足で器用に花立てのところまで行き、秀樹は屈み込んで手にした薔薇を手向ける。
隣に寄り添いながら、智弥は相合傘の柄をそっと握りしめた。
言葉はいらない。毎年、同じ日に、同じ場所で、同じことを繰り返してきたのだ。
雪が強くなる。
街灯の光が白い粒を金色に染めて、まるで無数の蛍が降っているような幻想的な光景に、思わず二人揃って目を奪われた――刹那、雪のカーテンの向こうから、ひとりの少女が歩いてきた。
艶やかな黒髪が長く、雪よりも白い肌。一見すると十代前半の少女。それもこの世のものとも思えない、完璧な黄金律で整った美貌の少女である。
「「!!!」」
凄まじい存在感とともに、同時に「本来存在しない」違和感のある彼女。だが、それよりも二人にとって、その姿は忘れようにも忘れられない馴染み深い……そして、あり得ないものであった。
秀樹の喉が鳴る。
「……緋雪?」
少女は立ち止まり、微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、秀樹の左半身の古傷が疼いた。まるで、あの事故の衝撃が今になって蘇ったかのように。
「忘れないでいてくれて、ありがとう」
声は確かに、ゲームの中でも、そしてリアルのオフ会でも何度も聞いた、あの声だった。
「本来、こっちの世界に来るのは、激流に逆らって泳ぐみたいなもので、神にだって難しいんだよ。でも、君たちが私の事を覚えていてくれたから、その経路を伝ってなんとか、抜け道を見つけることができたんだ」
少女はゆっくりと近づいてきて、二人を見上げた。
「さて、こっちの世界では異物であるボクはあまり長居ができないので、さっさと忘れ物を、届けて帰るとするよ」
そう言って、少女は両手を軽く翳す。
淡い、ほんとうに淡い光が、雪の中を漂い、智弥のコートの前でふっと止まった。そして、静かに、お腹の中へ溶けていく。
智弥の目が大きく見開かれた。震える手で自分の腹に触れた瞬間、確かに、何かが「宿った」ことを悟った。まだ小さすぎて、誰にも聞こえない鼓動。でも、確かに、そこに。
「……お帰りなさい……」
なぜかその言葉が魂の内側から湧き出し、震える唇から漏れ、同時に滂沱と涙がこぼれた。
一方、秀樹は狼狽し過ぎて言葉を失っていた。
ただ、少女を見つめるだけの彼に向かって小さく笑って、秀樹の前でしゃがみ込む。
花立てから赤い薔薇を一本抜き取り、そっと鼻先に当てる。
「ボクはね、もう大丈夫だよ。DIVEさんのおかげで、向こうの世界でも楽しくやっているから」
そして、静かに立ち上がって、真っ直ぐに秀樹の目を覗き込んだ。
「だから、もう過去を背負わなくていい。アチャコさんと、いや……三人で、ちゃんと前を向いて、どうか幸せに」
降り注ぐ雪が、少女の輪郭をぼかしていく。
「これが、ボクからの、最後の願い」
最後に、少女は小さく手を振った。まるで昔、ゲームの中でログアウトする時に見せていた、あの仕草と同じように。そうして、雪に溶けるように消えるのだった。
残ったのは相合傘の下で、互いの体温だけを感じている二人と、花立てに残った二本の薔薇と、智弥のお腹に確かに宿った、新しい命だけ。
しばらく、ふたりは無言だったが、やがて、秀樹がぽつりと呟いた。
「……あの企画、受けてみようと思う」
涙を拭きながら、智弥が顔を上げる。
「新しいMMORPGの……?」
「ああ。俺が壊した世界の欠片でもいい。もう一度、誰かの居場所を作れるなら」
智弥は微笑んで、秀樹の腕にそっと自分の腕を絡めた。
「……私も、手伝うよ。今度は、ちゃんと、みんなが笑える世界を」
雪はまだ降り続いている。だが、二人の足元だけ、ほんの少し、雪が溶け始めていた。
まるで、春がもうすぐそこまで来ているかのように。
実質的に『吸血姫は薔薇色の夢を見る』のエピローグです(T_T)/~~~




