虜囚のジルとフィーアの疾走
灰色の石が不自然なほど等間隔に積み上げられた、四メルトほどの石造りの部屋。
地球世界のどこぞの遺跡は、組み合わせた岩の継ぎ目に、剃刀の刃も通らないほどだといいますが、ここはカッターナイフどころかレーザービームですら通らないのではないかと思えるレベルで研磨され、石材がハチの巣構造でもって半円形の部屋を形作っていました。
六角形の壁のどれかが出入り口だと思うのですが、気が付いた時にはこの部屋――つまるところ牢屋の中にいましたので、私には区別がつきません。
部屋の中には、粗末なベッドと水瓶の入った壺。そして不浄物を始末する底の見えない壺がひとつあるだけです。試しに持ち上げようとしましたが、完全に一体化しているのかビクともしません。
それと当座の食料なのでしょう。カチンコチンに固い煉瓦のようなパンと魚の塩漬けの入った、ボストンバッグほどの箱がひとつ、ベッドの下に置いてありました。
食欲の失せる代物ですが、そもそも私はこの世界の食料を摂取する気はありませんので――神話や伝承、昔話などでも、冥界や異界に往った者が、その世界のものを食べると帰れなくなる、もしくは現世に戻って反動があるのがお約束ですので――放置して、改めて部屋の様子と自分の現状を確認します。
「……なかなか本格的な独房ですこと」
三十分ほど手探りで壁の凹凸がないか、ベッドの下に使えるものがないかと探したのですが、コレといって収穫はありませんでした。
まあ、不潔な虫がいないだけでも御の字ですわね。
なお、明かりは壁全体がダンジョンのように――そういえばダンジョンって、本来は『(地下に設けられた)牢獄』という意味でしたわね(城の天守という意味もあります)――ならば、いまの状態は文字通りダンジョンに閉じ込められたということでしょう。
また、私がいま着ているものも虜囚らしく、粗末な木綿のワンピースに素足、あと下着もなにもない布一枚という徹底ぶりです。
意識のない間に誰に脱がされたのか――まあ暴行された形跡がなく、きちんと清潔な布で洗われた形跡があるので、おそらくは女性が行ってくれたのでしょう――どんな身体検査をされたのか、ちょっと気になりましたが、『光翼の神杖』を筆頭に魔術に必要な触媒や、暗器の類、ちょっとした裁縫道具まで没収されたのは痛いですわね。
「……まあ、魔術師や魔女、精霊使いにあまり意味があるとは思えませんが」
連れ去られたフィーアが心配ですのでさっさと脱出してしまいましょう(幸い、魔術経路はまだ繋がっている感覚があるので無事のようですが)。この程度の壁なら無詠唱の『念動』でも一撃ですわ。
と思って、さっさと脱出するために魔力を動かそうとしたところで、ピクリとも魔術が構成できないことに気付きました。
「――え……?!?」
サッと刹那、顔から血の気が引きました。
もう一度、本気で詠唱を加えて魔力を丹田から巡らせ、魔術を構成して放った途端、霊的視覚聴覚において、一瞬で魔術が壁にぶつかった安物の皿のように砕け散るのが感じられました。
「これは……まさか……」
念のために精霊魔術を行使しましたが、これまた溶けるように消滅してしまいます。
ならばと体内魔術によって強化した魔闘法による掌底突きを放ちましたが、これまた風の前の塵に同じで、『パン』と軽い音がして、私の素の腕力による突きが決まっただけでした。
滅茶苦茶痛いです。
「……というか、治癒術も働いてないっぽいですわね」
いつまでも赤くヒリヒリ痛む掌を眺めて、私は久しぶりの痛みによるダメージの継続と蓄積という、人として当然ながら、私的にはずいぶんと懐かしい感覚に、涙目でふーふー掌に息を吹きかけます。
「ここって、レジーナから聞いた【罪人の塔】、そのものでしょうか、もしかして?」
状況から判断して、私はそう結論を出します。
あらゆる魔術、精霊力、神力でさえも中和する特殊な建物。
かつては大陸各地にそれなりの数、同様の施設があったそうですが、《神魔聖戦》後には、ほとんどが消え去ったとか。
私もかつて半ば遺跡と化した塔に入ったことがありましたが、その時には経年劣化によるものでしょうか、かなり弱体化はしたものの、初歩的な魔術は使えたのですが、こちらは煙一つ立ちません。
せめて『収納』してある物品が取り出せれば、力業で脱出も可能かも知れませんが、そちらのほうも完全に使用不能です。
「……困りましたわね」
助けを求めようにも、味方は誰もいない状況ですし、これはもしかして詰んでいるのではないかしら?
いえ、あきらめるのは早いです。とりあえず落ち着いて考えましょう。
そう自分に言い聞かせて、椅子とかないので、私はベッドに腰を下ろしました。
そもそも貴賓として招かれたはずですのに、なぜいきなりこの扱いなのでしょう?
まさか本当にエリカさんの発言を真に受けて、私を魔物扱いして閉じ込めた……ということはないでしょうが、百五十年近く外界から訪れる人間がいなかったということは、完全に情報が遮断されていたということです。
町の様子を見ながらカーサス卿が口にされていた内容を信じるなら、この世界では外界がすべて滅びたことになっています。そして、いわばノアの箱舟にあたるここ封都インキュナブラへ、選ばれた敬虔な神の信徒だけを保護した、という考えが常識となっています。
聡明なカーサス卿でさえも、同じ神の信徒である私――というかユニスの関係者――が、たまたま難を逃れていて偶然に迷い込んできた、という風に理解していたようですのに。
ですが――
『遠路はるばるとよくきた』
『異邦異国の巫女姫よ。お前の世界においては、お前は比類なき身の上』
思い起こせば、先に私が会った神子や宰相であるベナーク公は、私が外の世界から来たことを、既知の事実であるかのように振る舞っていました。
「つまり、上層部は世界が滅んでいないことを知っている? そしてその事実を喧伝されることを恐れて、私を隔離した……ということかしら?」
ありそうな話ですが、そう口に出してから平和そう――いえ、どこか退廃的な町の様子と、無気力そうな住人の姿を思い出して、私は自分の言葉に首を捻りました。
百年以上の平穏と安寧を享受して、神子と聖母を絶対視しているこの世界の人間が、たかだかひとりの小娘の妄言(この世界の人間にとってはそうでしょう)を信じるでしょうか? まずあり得ないでしょう。
人間というものは基本的に自分が信じることしか信じないものですし、たとえ現実を目の当たりにしても、視力とは関係なく節穴になるものですから。
「そもそも口をふさぐためなら、こんな迂遠な手段を取らずに一思いに殺せば済むことよね」
生かしておく理由。
外界に対する人質でしょうか?
どちらにしても判断材料が少なすぎますわ。
そう思って、思わずベッドに仰向けになって、ぼんやりと天井を見上げていたところ、コンコンとベッドの反対側にある壁が、向こう側から小さく叩かれる音がしました。
◇ ◆ ◇
来た道を再度逆方向に獣車を走らせるカーサス。その足元には、鋼鉄製の鳥籠に入れられた翼の生えた狼――フィーアが、盛んに唸り声をあげてガジガジと鳥籠に噛り付いていた。
必死に脱出しようとしているが、仔狼の力では歯が立たないようで傷一つつかない。
それでもあきらめないで必死に食らいつくフィーアの健気さと不屈の闘志に、ロベルト・カーサスは知らずに小さく唇を綻ばせていた。
(――そういえば、あの娘も眩しいほどの生命力に満ち溢れていたな)
その飼い主を思い出して、若干ほろ苦い笑みへと変ずる。
『リビティウムの巫女姫を騙る不届き者の疑いがあるゆえ、乃公が直々に審問いたす。そう、余すところなく……な』
倒れ伏した彼女を前に、お気に入りの玩具を手に入れた子供のような――いや、御馳走を前にした豚鬼のような、野卑な顔つきで言い放ったベナーク公の言葉を思い出して、カーサスの胸にチクリと形にならない棘が刺さった。
ベナーク公の女好き――それも十代前半から中頃にかけての少女とも言える年代の娘ばかり――は、宮殿勤めの者なら誰でも知っている公然の秘密である。
ましてあれほどの美貌の娘とあれば、食指が動かないわけがない。
嘆息したカーサスの対面に座っていた宮殿仕えの上級道士が怪訝そうに、そして若干の不審を込めて尋ねる。
「カーサス様、ベナーク公は社稷壇で、この犬もどきの首を刎ねて殺すようにご命令になったはずですが、どちらへ向かわれておられるので?」
「『社稷壇にでも行って』だ。聖なる宮殿内で得体の知れない獣を始末するのはマズかろう。それに犬畜生の血で我が剣を汚すのも矜持にかかわる。ゆえに結界の外、〈滅亡の霧〉の中へ放り捨ててくるつもりだ」
事前に考えていたカーサスの大義名分に、合点がいった様子で頷く上級道士。
「おお、なるほど。〈滅亡の霧〉の中へ入った万物はすべからく、塵も残さず消え去るが道理。確かにそれならば後始末の問題もありませんな」
ほどなく町外れまで進んだ獣車が、かつて聖母様が張ったという結界を越えると、目の前に大瀑布のような一面の白い霧が忽然と現れた。
これこそが〈滅亡の刻〉に世界を消滅させたという〈滅亡の霧〉である。
この霧の中に入った者は一瞬で消滅し、またいかなる魔術(この世界では巫術と呼ぶ)でも、内部を見ることも越えることもできない。まさにこの世の終わりであった。
封都インキュナブラは、この中にポッカリ浮かぶシャボン玉のようなものである。
「さて、行け――!」
戻ってくれるなよ、来たらお目付け役の手前、お前を斬らねばならん。
そう思いながら地面に置いた鳥籠の出入り口を、〈滅亡の霧〉に向けて開けるカーサス。
その願いが通じたのか、開け放たれた出入り口から脱兎のごとく、〈滅亡の霧〉へと一直線に駆けていくフィーア。
完全に霧の中に溶けて消えたのを確認して、小さくため息をついたカーサスは、空の鳥籠を手に踵を返すのだった。




