第五十幕 「再び会えるまで」
自分の優柔不断さが嫌になる
いつだって迷いながら歩み続けてきた
仲間はそれについてきてくれた
だから、この選択を否定したらダメだって思っている
「だから俺はリーダーなんかじゃない。」
「いつも通りのいい匂いだ。」
彼女たちが客用寝室に入ってからずっと、会話もなくひたすら待ち続けていたリックがソファに座ったままで一言漏らす。
「ありがとう、リック。こんな時間だけど…私、居てもたってもいられなくて…。」
そういった私の手にはこんがりと焼きあがったパイ料理。
甘く香ばしいにおいが部屋中に立ちこめている。
一時間ほど前から台所で一人作業をしていた私は、手にミトンをはめて湯気の上がる料理を持ってダイニングへ戻ってきた。
まもなく日付も変わろうという様な時間だが、丸いパイ皿には食欲を掻き立てる美味しそうな出来立てのアップルパイ。
「セレナ様がおっしゃってたからな…メイの好物も意識を取り戻すための重要な要素になるって。…いよっ…と!」
そういってリックはややぎこちない足取りで立ち上がる。
セレナ様の治療を受けてから数時間、奇跡の業で元の姿を取り戻した彼の体は驚くほどの速さで通常の感覚を取り戻していた。
それでも二週間もの間両足を失っていた彼は、いまだ自由に歩くというわけにはいかないようだ。
「リック、無理をしないで…。」
あわてて私は手に持ったままだったパイ皿をテーブルに置き、ミトンを外すとリックに駆け寄る。
私に肩を支えられながらダイニングのテーブルに置かれたアップルパイに近寄り、リックは大きく息を吸い込んだ。
「いいにおいだ。あの子の大好きな、ローナお手製の愛情たっぷりのアップルパイの香りだ…。」
そういった彼の目は物憂げで不安をたたえていた。
「えぇ…真心こめて作ったんだもの。あの子が何かに熱中して引きこもってるときにはコレが一番効果的だったから。だから…これなら今のメイにもきっと気づいてもらえると思うの。」
懐かしむように、願う様に私は思いを込めて料理した。
自分にできる最も可能性の有る手段を選んで行動していた。
だが、やはり私もまた不安を拭えずにいた。
「そうだったな…徹夜明けで昼まで寝てるような時でも、これが焼きあがると不思議と起きてきたんだ、あの子は。」
そういってリックは私の肩を抱き寄せる。
「そうよ。効果てきめんなんだから。」
から元気でも笑顔を作り、リックに身を寄せ頭を傾けた。
「「…。」」
ふと会話が途切れてしまう。
私は料理から視線を外し、扉へと向ける。
先ほどから物音ひとつしない客用寝室。
恐ろしいほど静かな部屋の中では、聖女とその供柄が娘の為に手を尽くしてくれているはずだ。
疑ってなどいない。
でも必ず助かるという保証はない。
絶望的な状況の一家を救った彼女の慈愛に、その献身に従わない選択肢など今の私たちにはあり得なかった。
そして聖女たちに任せっきりで手をこまねいている気もなかった。
自分たちに出来る何かが有るのならば何だってする。
そういった気概でこれから臨む覚悟はできていた。
だから私の心は不安を抱えつつも、強い意志を宿していた。
「リック。私は…どんなに時間がかかってもあの子を助けるつもりよ。」
そういった私の脳裏に去来する記憶。
不自然に捉えられ続けるだけだった十数日間の記憶。
一家で行商がてら行楽に王都に向かうため、村をでてしばらくしての出来事。
目の前に現れた3名の野盗。
抗う間もなく夫は切り付けられ、刃物を突き付けられた私たち。
街道で野盗の類の話など数十年来聞いたことの無い私たちに訪れた突然の不幸。
戦闘魔術の才能がない事を心底後悔した。
夫の悲惨な状況をしり目に肥満の男にメイとともに抱えられ森をしばらく歩き滝のある川辺へとたどり着いた。
夫を最後に見た時は既に片腕を斬り飛ばされていた。
相手は二人。
きっと助からない。
せめてメイを何とか助けないと。
しかし私の意志とは無関係に、私は部屋の奥に拘束され残酷にも娘が先に連れていかれてしまった。
拘束されて押し込められた小部屋の片隅にいる間も、カーテンの向こう側で何が行われているかは理解していた。身が引き裂かれる様な思いを募らせるばかりで何もできない自分を心底呪った。
そして、いつかは自分が野盗どもの慰み者にされるのだろうと覚悟を決め、せめてその間は娘に手を出さないように懇願するつもりでいた。
しかし数日経ってもその時は訪れず…しびれを切らして野盗の頭領に娘の代わりに私が相手をすると話を持ち掛けたが、あの男は視線を合わせる事も無く。
「そこで大人しくしていろ。」
そう一言いうだけだった。
なぜかはわからなかった。
日付の感覚が判らなくなった頃、カーテンの向こうからあの子の声が聞こえなくなったときは不安と絶望で息ができなくなった。
まさか…もうあの子の命が…。
そう思ってボロボロと涙をこぼして声にならないうめき声を漏らしながらうずくまった時。
「大丈夫だ、死んだわけじゃねぇ。お前も耐えて気を強く持つんだ。」
再びあの男が放った一言。
その言葉を聞いたときに私の中に黒い感情が沸き上がり、何もかもをかなぐり捨てて呪いの言葉を吐き散らかしながら噛みついてやろうと思った。
手を拘束する金属製の枷の存在も忘れて、怒りに身を任せとび掛かろうと残った力をすべて全身にみなぎらせて…。
顔をあげ、憎悪と怒りを籠めて頭領をにらみつけた時。
私はあの男の顔を見て思わず硬直した。
「…たのむ、自棄を起こさないでくれ。必ず…機会が巡ってくるはずだ。それまでは耐えてくれ。」
じっと私を見つめながら、泣きそうな顔と後悔と申し訳なさと懇願するような表情をぐちゃぐちゃに混ぜた。
悲壮感でいっぱいの顔をしながら。
あの男は頭を下げた。
なぜ、そんな顔をするんだろう。
なぜ、わたしは無事なんだろう。
なぜ、娘はあんなことになったのだろう。
なぜ、私たち家族はこんな目にあったのだろう。
なぜ…。
答えが分からない疑問が頭にあふれ出て、私の中に湧き出た黒い感情は一気に霧散してしまった。
わからない。
何をどうしたらいいのか。
何もできない、自分を呪うこと以外できない。
何も考えられない。
そんな地獄の日々をおそらく三日ほど過ごした頃、カーテンの向こう側が騒がしくなった。
男が立ち上がり、一言。
「よかった…助けが来たか。」
心底安心した顔で、そう漏らした。
今になって、あの時の会話を思い返してみても何一つ理解できていない。
なぜあの男が、あのような行動をとったのか。
どれだけ考えてみても答えはでていない。
でも、今考えることは一つだけ。
メイを救う事。
私の代わりに犠牲になった愛しい娘を今度は私が何を犠牲にしてでも救うのだ。それだけ考えれば良い。
「ああ、私も全力であの子の為に出来ることをしよう。」
過去を思い起こし、思考に没頭していた私をリックは再び強く抱き寄せた。
私も再びリックにもたれ掛かる。
「目が覚めたら…メガネ、新しいの買ってやらなきゃな。」
リックがぼそりと言った。
「ふふ…そうね。」
目標は大事。
あの子の目を覚ましたら、皆で王都へ行って新しいメガネを買ってあげよう。
リックの目標も定まったようだ。
何ができるか分らない。
何をしたらいいのかもわからない。
でも今できることは何でもしたい。
自分の無能や不幸を言い訳になんてしてられない。
考えを止めることはしない。
母として、夫と二人で娘の為に出来る全てを行おう。
積み木と毛糸。
あそこからあの子の世界が始まったように、もう一度最初からできることを全て、愛情を籠めて日々を過ごそう。
ルミナスの教えにも有る。
「今日の我々の務めを果たしましょう。信仰の徒として、祈る者として、また信じて待つ者として日々の暮らしを過ごしましょう。」
あの子が返ってくる日まで。
祈り、信じて、日々を過ごそう。
「オゥミナ。」
わたしは小さくつぶやき、心で祈りの所作を行った。
カチャ。
その時、私の見つめていた客室の扉からドアノブを回す音が聞こえた。
キィ、という音とともに扉が開く。
間を置かず中からセレナ様が現れる。
彼女の顔を見てドキリと胸が跳ね上がる。
何かをやり切った…とてもすがすがしい顔をされているのだ。
私たちの視線に気づいた彼女は扉から数歩進み、私たちに正対すると軽やかに一礼をする。
顔を上げた彼女は満面の笑顔をしていた。
「とても良い香りですね。」
セレナ様は開口一番、そういった。
「あの…えっと。」
リックは口ごもってる。
彼女の言っている言葉をどう捉えたものかと考えあぐねている。
「セレナ様…メイはどうなりましたか?」
私は迷わず疑問を口にした。
「ご安心を…手はつくしました。」
そういって半身をひねり、扉の方を見る。
「それは…どういう…。」
私もセレナ様の言葉の真意を測りかねる。
「いろいろと…目を覚ますには問題もあったようですが…。やはり彼女自身の才能がそれを解決しました。」
少しあきれたような笑顔を浮かべ、扉に向かって頷いている。
「しかし、目覚めに一番効果が有ったのは…やはり、お母さまの愛情だったのでしょうね。」
そういいながら彼女は大きく鼻から息を吸い込み、ため息をつくような仕草で肩をすくめた。
その時、部屋から出てきた人の姿を見て私は息をのむ。
―聖女の背後に見える扉から、身を寄せ合うように。
二人の女性が歩いてきた。
一人は聖女の供柄。
もう一人は私によく似た亜麻色の髪の女の子。
見慣れたメガネはしていない。
でも間違いない。
視界がぼやけてよく見えない。
口が震えてうまくしゃべれない。
息を吸うのも煩わしい。
言葉にならない思いが、嗚咽となってあふれる。
もつれる足を何とか動かしながら近づく。
夫もうまく動かない足でなんとか後に続いている。
急ごう。
あの子が待っている。
私は倒れそうになりながら我が子に縋り抱きついた。
夫も私ごと我が子を抱きしめた。
私も夫も、力いっぱい抱きしめる。
夢でないことを確かめるために、痛いほど強く抱きしめる。
熱いしずくが次々と頬を伝う。
なのに言葉が出てこない。
同じように涙で頬を濡らす愛しき我が子が
震える声で
懐かしい声を聴かせてくれた。
「ただいま。」
ああ、夢ではない。
あの悪夢のような現実の先に、こんな未来が訪れるなんて!
あまりにも多くの思いが湧き出て、何を言ったら良いか解らない。
だから私達も溢れ出る思いを載せて応えた。
「「おかえりなさい。」」
何処かから香る懐かしい匂い
それは料理だとか、自然とか、人工物だったり、天気なども。
それは薬品だとか、悪臭とか、獣の臭いだとか、血の匂いも。
あなたの記憶を呼び起こす『におい』。
今のあなたを形作る大事な『記憶』ですよ。




