第二十幕 「闇魔法で出来ること」
誰かが手を差し伸べてくれる
たったそれだけで不安は嘘のように霧散する
誰かが知識を分け与えてくれる
たったそれだけで思考は嘘みたいに加速する
「楽観的?きっとちがう、知らないってことはそれだけ危ういんだ。」
「…教えて下さい、セレナ。この方の…メイさんの治療はそんなに大変なのですか?」
部屋に入ってからも難しい顔をしたままのセレナを見てリリスが問う。
「…表面上の傷と内臓に対する治療については…力技でどうにでもなると思うの。体内に残留している薬物ついても、人体が持つ代謝能力を超促進させることで短時間での強制排出・分解は可能だわ。」
セレナは彼女の下半身へと視線をずらした。
「それと…乱暴な扱いを受け続けた彼女の体内に有るであろう『汚物』についても。彼女の…生体バランスを司る要素を強化・操作することで、強制的に月経を起こすなどすれば排出させることが可能よ。」
チラチラと淡い光が彼女を纏いはじめている。
セレナの脳内には「知らない知識」が渦巻いていた。
彼女が囚われてから2週間。
メイが違法薬物投与を受け続け、凌辱され続けたと仮定した場合。それが継続的に行われていたのであれば彼女自身の月経のタイミング次第では妊娠している可能性が考えられる。
薬物によってホルモンバランスが乱され妊娠適正期間を逃れていたのであれば望まぬ事態を避けられているのだろうけど。だがセレナの理力ではメイの胎内の状況をつぶさに調べることはできない。
ならばプロゲステロンの作用を遮断した状態で代謝を促進させ子宮内膜の剥離を起こし強制的な月経を引き起こすことで『化学流産』を再現できる。
彼女の身体に掛かる負担も理力による治療を同時展開することで最小限に抑えられるだろう。
セレナは今まで「知らない知識」を本能的に行使し、致命的な人体の損傷を治してきた。四肢を失ったり、半身が千切れてしまった兵の治療。
仲間の腹に風穴が開いたのを塞いだこともある。
通常の治癒魔術では賄い切れない「奇跡の業」を数え切れないほど起こしてきたセレナだが、今回の施術は未体験だ。
彼女の心に不安が付き纏う。
しかも問題はこれだけではない。
「それと…もう一つの問題は彼女の精神状態を把握する術が無いことね。」
「理力をもってしても難しいんですね?」
「人の心の有り様…精神は記憶や体験、思考と生活習慣。知識や教育過程を経て、ただの誰一人として共通する要素を持ち得ない物になるわ…。
人体における脳という器官を…端的に言えば『宇宙』と例えられるの。」
「宇宙…星読みの学者たちが夜通し眺める星達がたゆたう空間の事ですね?」
思わず天を仰ぐリリス。
「そう。我々がいまだ到達できていない未知の領域。無限の夜空に浮かぶ星たち一つ一つ。「数億」の星が観測されてるけど、それは現在の星読みの技による限界値であり一説にはその100倍をゆうに超えるそうよ。」
「100億個の星たち…」
「その数倍の星達が存在するのが我々の脳という器官なの。」
「ひぇ…ど、どういう事なんですか?」
「とても小さな…記憶を司る器官『ニューロン』というものが脳に存在していて。そこからつながる『シナプス』の繋がりによって我々の脳は記憶を形成している。」
「にゅーろん。しなぷす。」
リリスの反応が悪くなってきた。
「シナプスが形成する脳内記憶領域は100兆から1000兆個のパターンが形成され、そのパターンによって人体は記憶を保ってるそうよ。」
「せんちょう。」
―あ、この話を続けたらリリスが保たない。
「とにかく、そういう複雑で膨大な情報を持っている個人ごとに異なる脳を理力によって修復するのは不可能といって良い。そういうことよ。」
「あい。」
「だ、大丈夫?」
自分の頭に宇宙が存在すると言われてリリスは正気度を喪失したようだ。
「とりあえず、だいじょうぶです。」
…ホントかな。
「そして、その脳は今、薬物によって色んな器官が無茶苦茶に機能してる状態よ…」
一番の問題はこれだ。
「麻薬の効果。知覚の鋭敏化、幻覚や幻聴、酩酊や失神を伴う精神の喪失。
彼女は今、恐らく心神喪失状態にありながら支離滅裂な知覚の中で眠ることもできずに自らの精神を守るべく心を閉ざしてしまってるの。」
「…なんとなくですけど判ります。眠りたいのに回りの音や光が自分を苛んでいるなら何処かに閉じこもってやり過ごすしか無いですもんね…。」
「そうね、今の彼女にとってありとあらゆる外的刺激は、彼女自身を攻撃する嵐のようなもの。私の理力による治療も例外では無いはずよ。」
「…なんでセレナが難しい顔をしていたのか理解しました。」
…短期間であれば『麻酔』という化学物質による強制的な意識遮断が行える事を「知らない知識」が教えてくれている。
でもそんなものはこの世界に存在しない。
一か八か、一気に理力による回復を施術し奇跡的な回復を臨むか…。
いや、危険過ぎる。今のメイに肉体的な治療を施したら精神や記憶にどんな障害を発生させるか予想がつかない。
そんな事をするくらいなら数ヶ月、あるいは数年をかけて彼女を治療し続ける方が良い。でもそんな機関は存在しない。
この世界に「薬物中毒者を治療する施設」など存在してないのだ。
私がここに留まって治療し続ける…?
ダメだ、それではリリスとの目的が大幅に遅れてしまう。
いったいどうしたら…。
『コンコン。』
木戸をノックする音で我に返り扉の方を見る。
「セレナ様。湯と水、それから布の準備ができました。入ってもよろしいでしょうか?」
フィンの声だ。
ハッとしてセレナは答えた。
「はい、お願いします。」
「失礼します。」
フィンはワゴンを押しながら入室してきた。
ワゴンには大量のシーツやタオルが積まれており、フィンの後ろからはリアムが入室し湯の入った大きな鍋を持ってきてくれた。その後二人は樽いっぱいの水を運び入れた。
「これで大丈夫でしょうか?」
リアムとフィンは額に汗を滲ませながらセレナに尋ねた。
「はい、取り敢えずは大丈夫です。もし追加で必要になる時は声をおかけしますのでよろしくお願いします。」
「承知しました。…それと、料理の方もでき次第中へお運びしますか?」
「いえ、料理はこちらから言うまでは外に停めておいて下さい。冷えてしまっても別に構いませんので。
「わかりました。…これから治療を始めるのですね?」
「…そうです。こちらから声を掛けるまでは決して中を覗かぬように。
施術中は彼女の肌を晒すことになりますので、特に殿方は絶対遠慮して下さい。いいですね?」
キッとした視線を二人に投げかけるセレナ。
「も、勿論です。お任せ致します。」
「承知しました、メイをよろしくお願いしますセレナ様。」
リアムとフィンはそれだけ言うと部屋から出ていった。
「…リリス。今は指輪の効果でこの部屋は結界状態になっており、音が外部に漏れることは無い。この認識で大丈夫よね?」
「…えっ。あ、ハイ。そうです、先程の会話も外へは漏れてないはずですし、今もその状態なはずです。」
なにか考え込んでいたかのように曖昧な反応をするリリス。
「…ならば多少無茶な施術で彼女が暴れるようなことがあっても、外へ状況が露呈することも無さそうですね…、お母様が近くにいるのにメイの悲鳴やうめき声が漏れたら哀れでならないわ。」
きっとこの後、決して穏やかでない反応がメイからは発せられるだろう。
それでもやるしか無い…。
取れる手段が限られている現状では背に腹は代えられない。
「…。」
リリスが考え込んだまま反応してくれない。
「リリス、大丈夫?これから施術を開始したいのだけど…。」
不安になってしまったセレナがリリスを見つめながら声を掛ける。
「…セレナ、ちょっと考えがあります。」
真剣な眼差しでリリスはセレナを見つめ返した。
「考え…?」
「はい。メイさんは現在、体内に残留している薬物によって外的刺激による感覚がむちゃくちゃになっていて、それがセレナの治療にも悪影響を及ぼす危険性が有る。そうですね?」
「ええ、そのはずよ。」
「セレナ、私の闇魔法を使用することで外的刺激の問題を解決することができるかもしれません。」
「…!」
ハッとするセレナ。
「闇魔法には相手を強制的に昏倒させる魔術があるのはご存知ですか?五感を強制的に闇へと沈めて行動不能にさせる補助魔術です。」
「冥魂の揺籠!」
セレナの表情に喜色が宿る。
「人族ではそう呼ぶんですね。この魔術は対象の意識を完全に停止させる事で光や音による外的刺激、触れたりしても目覚めることが無い状態に出来る魔術です…それに記憶や時間感覚すら曖昧になる効果が確認されてます。」
「それなら彼女の知覚を遮断したうえで理力による治療や施術を可能にできるかもしれない!」
「それと、もしかしたらなのですけれども…。」
すこし自信なさげな顔ではあるもののリリスは真剣な眼差しで続けた。
「対の指輪による魔術の最適化が可能かもしれません。」
自身の左手を目の前にかざしながら言う。
「指輪の効果範囲内における外部鎮静効果!そういえば使い方を聞いてなかったわね?」
まだ何かあるのか!と更に喜色を滲ませているセレナ。
「簡単です、5mの効果範囲内にいる対象に精神干渉系魔術を使用するだけです。父によればこれで反抗してきた軍の将をなだめていたとか。」
「なるほど、指輪による魔術の最適化によって悪意や害意をなだめる効果があったってことね…なら知覚遮断や昏倒の効果が装着者の意図に沿った形で最適化されれば!」
「はい、メイさんの意識をなくした状態で刺激を最小限に抑えられる可能性があるかもしれません。」
「最高よリリス!早速支度して試すわよ!」
セレナはやや興奮気味にぬるま湯を桶に用意したり、シーツやタオルを取り出しつつメイの回りに準備しはじめた。
「はい!」
リリスもセレナを手伝うために駆け寄る。
希望が見えた二人はテキパキと動き、先程の迷いは既に消え失せていた。
程なくして準備は終わり、ベッドの上には裸でシーツをかけられただけのメイが横たわっており、彼女の右側にセレナとリリスが立っている状態になった。
「それじゃ、リリスは冥魂の揺籠を使用して彼女の意識隔離をお願いね!私は術効果が確認出来たらすぐに理力を行使して外傷と内臓の治療、残留薬物の排出と分解を行うわ。」
意気軒昂といった表情のセレナ。
「了解!今のメイさんが魔術に抵抗することは不可能だと思いますので、術が浸透すれば彼女は完全に脱力状態になるはずです…頑張りましょう!」
「解ったわ!絶対助けるわよ!」
「はい!」
リリスは力強く返事をすると両手をかざし魔術を行使した。
リリスの手から黒紫色の靄が広がりメイへと降り注ぐ。
靄は徐々に広がりメイの身体を薄く包み込むと音もなく体内へと吸い込まれていった。
メイの四肢はだらりと投げ出されていた状態だったが、顔や首筋、背中に有ったこわばりがスっと抜けていった。
見開かれていた目蓋がもゆっくりと閉じてき、安らかな顔に落ち着いた。
「メイさんの身体の状態はどうですか?」
リリスは体勢を維持して魔力の出力を維持しながらセレナに尋ねた。
ふわりとセレナの全身に淡い光が纏わりついている。
「大丈夫よ。呼吸も安定してるし…身体に残っていた強張りが完全に消えたわ。」
メイの手首に指を添え脈を取りながら、右手で様々な所を撫で触診して反応を見ている。
「筋肉や関節も完全に脱力状態…心音も深い睡眠状態ね…。」
セレナは触覚と聴覚を強化し、彼女の身体を隅々まで確認し終えた。
「行けるわ。治療開始するわよ。」
そう言いながらリリスを見つめる。
リリスもセレナを見つめ返し無言で頷いた。
セレナは両手を開いて緩やかに構えると目を閉じた。
次の瞬間、セレナの全身から光が溢れ出した。
小さな光の粒が奔流となり彼女の全身を駆け巡る。
一つ一つは小さな光だが数え切れないほどの光がセレナにまとわりつき、彼女自身が光り輝いているかのようだ。
セレナはゆっくりと広げた手をメイの身体へ近づけていき、その掌が触れるか触れないかの距離まで近づいた所で彼女の全身を駆け巡っていた光の奔流が堰を切ったようにメイの方へと流れ出した。
やがて光の粒はメイの身体も包み込み、次々と体中へと吸い込まれていく。
細かな擦傷やうっ血した痕が次々と元の瑞々しい肌へと戻る。
メイの全身に有る痛々しい紫色の痣がすぅっと消えていく。
―よし、外傷の治療は問題なし。
「リリス。彼女から魔術抵抗の兆しは?」
「ありません。術後の無防備な状態が維持されてます。」
リリスは平常を保ったまま闇魔法の行使を継続できているようだ。
私の方もまだ平気だ。
「おっけぃ。それじゃあ次は内側をやるよ。」
そう言ってセレナは次に彼女の下腹部へと掌をかざし、再び大量の光を自身にまとわせた。先程より更に多くの光がセレナを纏い、勢いも増している。
「内臓への干渉は生体反射のような反応が有り得るわ。本能的な魔術抵抗も起きるかも知れないから、その時には出力の増加をお願いね。」
セレナは目を開きちらりと視線をリリスに向け、横目の状態で事前に忠告を伝える。
「はい、判りました。」
リリスはそう言って、状況に即応できるよう集中するために目を閉じた。
「行くわよ!」
セレナも再び目を閉じて意識を集中する。
大量の光が激流となってセレナの掌からメイへの身体と移ってゆく。
セレナは彼女の下腹部へ集中的に光を集め、内部へと干渉する。
黄体の活動を極限まで鈍化させ停止状態にし、プロゲステロンの分泌を完全抑制した上で他の部位の代謝を超増進させる。
彼女の胎内における変容を慎重に確認しながら施術を継続していると、やがて内膜剥離が起きた事が確認できた。
続けてセレナは理力にる干渉でプロスタグランジンの分泌を促進させ子宮収縮を起こさせる。同時に理力による剥離粘膜の治癒も同時進行し彼女の身体的負担を最小限に抑えるようにするのも忘れない。
通常であればこの時点で人体は痛みを覚え、個人差はあれど相応の反応を見せるのだがメイは一切の変化を見せていない。
大丈夫だ、リリスの闇魔法によって彼女の感覚は完全に遮断できている。
更に収縮により子宮頸管を抜けた経血を体外へ排出させる為、骨盤底筋へ干渉する。通常ではあり得ない動きを強制的に起こすことで寝ている状態でも体外排出を行わせる。
その後、再度器官全体に干渉し治癒と平常化を施した。
ここまでの施術を終えた所で、一旦セレナは理力の行使を止める。
緊張していた全身の力が抜けて汗がぶわっと滲む感覚がする。
ふぅ。と息をつき、となりのリリスに向き合う。
「リリス、一旦魔術の行使を止めていいわ。」
「はい、わかりました。」
リリスがゆっくりと目を開き、手をおろした。
「…彼女はまだ魔術の効果時間中よね?」
「ですね。この魔術は行使した時の抵抗に失敗したら数十分は目を覚ますことが不可能です。同じく魔術による干渉によって術式の分解を行うか、時間経過による術式の崩壊で自然に目を覚ますかどちらかです。」
自分の魔術の効果を確かめるかのように、メイから視線を外さずにリリスは状況の説明を行ってくれた。
「結構すごい魔術ね。」
「セレナの理力ほどでは有りませんけどね…これ程の力を行使してセレナは負担は…」
そう言いながらリリスがこちらを向く。
私の姿を目視した直後、リリスは驚いたように目を見開いた。
「…負担は軽いわけじゃ無さそうですね。」
「うん、割と今しんどい。」
「汗が…すごいです。ちょっと顔色も良くないですよ、セレナ。」
「補給無しでやれるのはここまでかな…今すっごい腹ぺこよ。」
「時間は…部屋に入ってからおよそ1時間くらいでしょうか。」
「料理…まだかな。」
やや憔悴した様子のセレナを気遣いリリスが傍に来る。
「セレナ、すこし休んでて下さい。私が料理の状況確認してきます。」
「あっ、それよりもメイの身体をきれいにしてあげて。…あと、強制排出させた物も感染症の危険性があるかもしれないから触れないようにね。」
セレナは少しだるそうにしながらメイの下腹部へと目をやる。
リリスもつられるように視線を移す。
黒ずんだ赤い物体が彼女の股の間に確認できた。
セレナがあらかじめ設置したタオルにじわじわと染みが広がる。
「そうですね、私が処理しておきます。」
そういってリリスは手早くタオルを回収し、用意してあった桶へと丸めて放り込んだ。
それを眺めながらセレナは思う。
―彼女の、メイの胎内を平常化するために理力で人為的な流産を再現したわけだけど…あの経血の量だと「やって正解」だった可能性が高い。
さっきまでの彼女が「そうであるならば」、この先の彼女の薬物によって無茶苦茶な状態の身体では、きっと「母体も胎児も耐えられない」だろう。
だからこれは適切な処置。
でも…命の有り様は何処から始まるんだろうな。
私のしたことはルミナスの教えに反する事になるんだろうか…。
すこし靄の掛かった頭でそんな事を考えていると、再び扉をノックする音が聞こえた。
ちょうどリリスがメイの身体をきれいにし終えた所だ。
かなり怠い身体を起こすとシーツを手に取りメイを覆う。
まだ山を一つ越えただけ。
本当の戦いはこれからだ。
終わりませんよ?
これからが本当の地獄なんです。
いや、ほんと




