第三十二幕 「この思い」
遠い記憶
あの人が変わってしまった悲しい思い出
誰もが穏やかに生きる事はできない
時に激情が必要な時もある
「我々は、伏して泣くだけでは生きては征けない。
怒りが悲しみを塗りつぶす事もあるのだから。」
「久しいわね。ローザ。」
総白髪で上品な衣服に身を包んだ老齢の女性は、嬉しそうに微笑んで彼女の頭を優しく撫でた。
「ご無沙汰しております。ストラおばあ様。」
彼女も嬉しそうに微笑み、流れるようなカーテシーで挨拶をする。
ストラティアーナ・ウリマルクと名乗った彼女は、ボロスの母でありローザの祖母。夫と共にカスーリ商会を立ち上げた先代会長だそうだ。
歳相応に凛とした雰囲気を醸しながら、跪き手を組んで頭を垂れる。
「お初にお目にかかります。聖女セレナ・ルミナリス様。お会いできたこと、女神の導きと憐れみに心から感謝しております。」
そう言ってルミナス教徒としての祈りの所作をもって私に挨拶を述べた。
「こちらこそ。ストラティアーナ様。女神の導きと慈愛が我々を巡り合わせた事に感謝を。健やかなる時と穏やかなる光が我々にありますように。」
「オゥミナ。」
私の短い祈りに同意と感謝を添えた彼女は、スッと立ち上がると今度はシャルたちの方へと歩み寄り、彼女たちの少し前で立ち止まる。
「ご無礼をお許しいただきたく。」
「構いません。」
彼女がそういうとシャルは柔らかな笑顔で返答する。
そう言うと、ストラは音もたてずに両膝を着き、腰をまげて、頭を床板に伏した。美しく添えられた両の手は、まっすぐ伸びていささかもずれる事無く伏した頭の傍に添えられている。
「この度は、我が一族が御身にしでかした不始末の事をお詫び申し上げます。どうか、己の持ちうるすべてを以って、その罪過の代償としてお許しいただける事を許しては頂けませんでしょうか。」
この一族は土下座が上手すぎる。
礼儀作法の教育に必修項目として履修させているのではないだろうか。
「どうぞお顔を御上げ下さい。大奥方。既に私どもはお孫様から謝罪を頂きました。そこにいる聖女の導きをもって、わが身に降りかかる全ての不幸は取り除かれています。貴女が地に伏す必要はございません。」
やはり凛とした態度と、穏やかな口上でストラの謝罪を受け取るシャル。
彼女は彼女で私たちの文化を含めた礼節の教養が尋常じゃない。
猫人族にも土下座の文化があるのかな。
「感謝いたします。」
ストラはそう言って再び立ち上がると、小さく礼をして一連の作法を終えた。その表情は晴れ晴れしており、最大の懸念がなかったことに安堵するかのような顔だった。
ストラは再び向き直り、ローザへと視線を向ける。
「ローザ。あれは持ってきていますか?」
優しく問いただす様な声。
だが彼女が纏うマナは孫娘同様に覚悟と決意に染まっている。
「……はい。おばあ様。屋敷を出るときに全て持ち出しております。」
彼女はそう答えると、持ってきていた旅行カバンへと駆け寄り、中から分厚い台帳を取り出す。
立派な革の装丁で、中には様々な書類や封筒が挟まれているのがすぐわかる。ずっしりとした重量感を表しているその台帳を、ローザはしっかりと抱きかかえながら戻ってきた。
「こちらです……」
ローザの不安げな表情。だが祖母同様に覚悟を纏っている。
「セレナ様にお渡しなさい。」
ストラはきっぱりと言い切る。
「はい……」
未だ迷いを捨てきれていない彼女が、項垂れながらその言葉に押されるようにして私の前に歩み出て、重く厳めしい台帳を差し出す。
「……これは?」
私は静かに二人に問いかける。
「私の息子……ボロスが商会の長に就く以前から……大戦前から繋がりのあった様々な企業との繋がりを証明する記録の全て。そして、いまもなお続いている黒い繋がりの根幹を証明する記録の全てです。」
同席していたルーカスとエミリアの顔が歪む。
「それはどういう事ですか?」
彼が口を開き、ストラを問いただす。
「我々の商会は日用品を主に取り扱う流通網を広く持っています。その需要は一般家庭から軍部・王宮に至るまで、ありとあらゆる場所へと販路を伸ばしました。……夫は商会を興すにあたって徹底した清廉潔白を貫くことを信条としており、提携する全企業に対し慎重な調査を重ねて繋がりを作ってきました。」
「……では、黒い繋がりとは?」
ルーカスが続きを促す。
「およそ二十年前になるでしょうか。ボロスが家業に関わるようになった直後から……大戦前の様々な動きにより、我が商会も特需に沸き立ち、大きくその勢力と業績をのばしておりました。夫が信念を貫き、表向きは当家の家業は順風満帆の兆しのみを周囲に見せていた事でしょう。
しかし……日々行き交う物と金の流れの中に、ふと違和感を覚えたのが事の始まりです。ボロスが任されていた軍需物資や魔術媒体に用いられる素材の輸送代行業において、今までの取引に無い大きな金額の動きを私は見出したのです。」
「大きな、というと大口の取引があったとかではなく?」
エミリアも神妙な顔で会話に混ざる。
「いいえ。品数と金額こそ適正ではありましたが、それは架空の物であり実際の物流記録に無い、不明な金の流れであることが内諜によって発覚したのです。」
「あなたは自分の息子の担当する商売に不正を見出した。ということですね?」
私も話の流れを把握するために口を挟む。
「その通りです。実際の品目に無い、実体のない物資の流通。実際の品目と違う、不相応の取引額による金の流通。双方を巧みに操作し、全体を見れば一切過不足なく取引が行われているように見せかけた収支報告書。いわば表向きの台帳が、この頃のボロスの手によって生まれたのです。」
「……ストラティアーナ様、それはつまり。」
ルーカスが彼女の言いたいことを先んじようと仄めかす。
「ストラとお呼びください。ええ、そうです。ルークリウス様がお察しの通り。ボロスが『裏帳簿』を付け始めたのを私は存じておりました。昨晩、当家に対して上級管理官の方々が動いた報せを古い伝手から聞いた時、私は『ああ、ついにあの子は踏み込んではならない領域に手を出したのだ』と理解しました。」
「ストラ様。我々は今回の件で亜人保護法の案件で動いております……商会の業務実績については現段階では――」
「お気遣いは無用です。既に息子の書斎金庫から裏帳簿を抑えているのでしょう?私はそれの存在を知りながら憂いているだけでした。いつかは息子が正気に戻り、残った家族のために正道を歩んでくれると信じて。ずっと見守っていたのです。」
悲しそうな顔でローザを見つめるストラ。
彼女もまた悲痛な面持ちで俯いている。
「ローザには商いの勉強をさせるとともに、父親の裏帳簿の存在と旧資料との照らし合わせを行わせ、常に新たなつながりを把握させていたのです。」
ローム兄妹と私の顔に驚きが訪れる。
この人は孫娘に父親の内部諜報をさせていたのか。
「ボロスが今現在つけている裏帳簿は、既に名前を変え母体を替え終わったいわば新興裏組織の繋がりを示す物。その根幹を成している大戦前期より続いている古参の組織の繋がりこそが、本来の各商会を牛耳る裏組織に繋がる情報でございます。
当家が取り扱う商品が日常品であるがゆえに流通を手広く把握するに至り、結果としてその流通網が連中の都合の良い横流し経路として目を着けられることになってしまった。」
ルーカスの目が何かに気付いたようにハッと見開かれる。
「そうです。あの子が今掴まされている組織の繋がりは、多重の隠れ蓑の一つなのです。それが露呈した所で、末端組織を含む中小規模の尻尾を捕まえるに留まるのです。それらはまさに『トカゲの尻尾切り』用の組織であり、それらを運用している大戦前から続く老舗の各関連企業こそが……根深く裏社会を構築している者たちの首魁です。」
ルーカスとエミリアが明らかに愕然とした様子になってしまっている。
……カスーリ商会のような大規模な流通を担う企業ですら、尻尾きりにされてしまうような裏の組織構成。
端的に言えばそうなるのだろう。
そんなものが存在するといわれて落胆しない方が無理がある。
「おそらく、この古い台帳から追える組織の情報にも限界はあるでしょう。それでも確かな足掛かりとして、その証拠能力をあする資料として皆さまのお役に立つはずです。」
ストラはそこまで語り終えると、緊張が解けたかのように肩の力を抜く。
すこし心労が祟ったように、彼女がふらつく。
「エルディア様。ストラティアーナ様に椅子を。」
私は呆然としているエミリアに彼女を気遣うよう促す。
ハッとして我に返ったエミリアが急いでテーブルに添えつけられた椅子を持ってきてストラを座らせる。
「申し訳ありません。無様を晒してしまいました。」
長年つもりに積もった不安と憂いを吐き出した彼女は何かが抜け落ちたような有り様になってしまっている。
「おばあ様、お体は大丈夫ですか?」
ローザが心配そうに駆け寄る。
「大丈夫よ、ローザ。ありがとう。」
この姿だけを見れば……ほんとうにただの祖母と孫娘。
だが、この二人は身内の不正を正そうと長年必死に動いてきたのだ。
世間知らずのお嬢様などとんでもない話だった。小さな頃から祖母に教育を受け、商いの諸々を学び、自分の父親を暗闇から救おうと足掻いていたのだ。
なんて二人だ。
「ステラ殿……教えてください。なぜ、今こうして我々にこのことを伝えたのですか?貴女は何を望んでいらっしゃるのですか?」
酷く冷淡な口調でルーカスがくたびれた老婆に問いかける。
……ルーカス……あんたとんでもないことを聞くね……
やっぱり根は冷酷なんじゃないかな……?
「……望むことは有りません。ただ世界が正しく、清くあるように望んでいるだけです。」
彼女は弱々しく答えた。
先ほどまで凛とした態度で振舞っていたのが嘘みたいだ。
「ルークリウス様。」
私は思わず厳しい口調で彼を呼び、諫める。
「セレナ様。これは聖女の領分ではございません。上級管理官にその判断をゆだねていただきたい。」
彼は吐き捨てる様な口調で更に私の言葉を遮ってくる。
ぐっ……こいつ!
「ローザ嬢、あなたはどうなのですか。」
再び冷淡な口調で彼女を問いただす。
「……私は、父の商才を尊敬…しております。たとえっ……邪道に染まり、人道に反した行いをしていようと!私にとっては愛すべき父親です!」
必死に勇気を振り絞って言葉を紡ぐローザの姿が痛々しい。
「父は……確かに人としてあるまじき行為に手を染めています。今回の件も……私はシャル様が本当に病に伏して父はそれを救うために便宜を図ったものだと信じて……そう信じたいと思っておりました。だから、父の行いに恥じぬようミアを一生懸命励まして、いずれシャル様が回復したら笑顔で送り出そうと心に決めておりました。」
徐々にローザの声が震えだす。
「父の帳簿を調べていて一つの事が解っているのです。彼は暗い世界で商いをし、確かに巨額の利益を得ています。しかし、それによって得られた富を一切自分や私たちに使っておりません。表向きの商いによって得た報酬のみで私と家人を養っております!」
彼女の目尻にまた涙が溢れつつある。
「それに……あの人は失った母と私を愛してくださっていると心から信じています!あの人が裏帳簿を隠している金庫の番号が何を意味しているか、ご存じでしょうか!?私の母の命日と私の生まれた日なのです!あの人は暗い世界に足を踏み入れるたびに母と私を想い、絶対に正気を失うまいと耐えているのだと!私はそう思っているのです!!」
……ローザの母は亡くなっているのか。
「だから……私はそう思うから……父を見捨てるなんてできないのです……」
そういってローザは座り込んで泣き出してしまった。
さめざめと泣く彼女を前に、ルーカスもエミリアも言葉を失う。
ストラも悲しそうな顔のままで動かない。
シャルは静かに行く末を見守り、ティガとミアも俯いている。
「ストラティアーナ様。ローザ様の母君は……どうして亡くなられたのですか。」
「……あの子は。ボロスの妻は、ローザを産んで……この子が2歳になる事。病に伏して亡くなっております。」
「それはいつ、どのような?」
ルーカスを心中でなじりながらよくもまぁ。
我ながらひどい質問だ。
だが知っておきたいことだ。
あの男の心の在り処がどこにあるか、そこを突き止めなくては。
「22年前。……魔族の襲撃によって海運輸送船団が襲われ、同行していたこの子の一家が巻き込まれました。その際に、負のマナによって体を汚染され、あえなく。」
ああ……またか。
彼もまた、心の内に闇を抱えて狂ってしまった一人だというのか。
「母は幼い私をかばったのです!魔族の呪いの風を全身に受けてしまい…!それで……そこから……父は変わってしまったのだと……私は…」
「ローザに父を見損なってしまわせないように、私がエクリアの最後を話しました。そこから人が変わったように仕事にのめり込み、商会規模を広げることに妄執するようになったのだと説明しました。……私も、息子が変わってしまったのは最愛の妻を失い、その憎しみが魔族へと向かってからだと確信しております。」
そこまで話し終わり、ストラもローザも黙してしまう。
ボロスの命乞いなどは決してしない、悪事も認めて裁きを待つ、彼女たちはそう言いつつも、慈悲を求めている。
決してそれを口にせずに。
この話を聞いたルーカスとエミリアは難しい顔をしたまま固まっている。
当然だ、王国に属するものとして罪は罪として裁かなくてはならない。
だが、それをしてしまえば目の前の純真無垢な少女のたった一つの家族を失わせてしまうことになる。
二人とも任務を遂行するべく、残酷な言葉を吐こうと必死に歯を食いしばって己を奮い立たせている。
どうやら、ローム兄妹の本質はやはりいい人なのだろう。
さっきはあんなこと言われたけど。
……これをほっとくわけにはいかないよね。
ま、なんとかしましょ。
悪の解像度というのは難しいですよね
私は性悪説を信じるタイプです
なぜなら社会にとっての悪とは社会の構成と規模によって変わってくるからね
じゃあ悪の定義ってなんだろうね
難しいですね




