第五幕 「救われた命」
自分のせいであの人の思いが無駄になってしまう
自分のミスであの人の悲願がダメになってしまう
そんなのは嫌だ
「だったら……せめて!」
背中の傷が痛みで疼く。
自分で背中を見ることはできないけども、きっと酷いことになってるんだろう。痛みを堪えながら首を捻って結界に最初に突っ込んだ右の肩口に目をやる。当てていた布を剥がすと裂けて焦げた皮膚と肉が見える。流石に骨は見えていないけど……痛みで肩は全く動かせない。出血も僅かだったのは不幸中の幸いか、痕跡を残さずに済んだ。
でも背中は……きっと接触した瞬間、痛みで反射的に身を捩ったせいで背中まで広範囲が領域に触れてしまったのだろう。
この傷の原因となったあの結界。
人族の魔術体系には詳しくないけども……神殿に設置されている攻勢結界ならば魔族を対象とした物に違いないはずだ。
昼間に人混みに紛れていた時も当然設置されているであろう結界の存在を完全に失念していた。
あの人混みの中で接触しなかったのは完全に偶然。聖女の前に出ていたら確実に私の存在は露見していただろう。
自分の間抜けさが嫌になる。
それに、あの結界に触れた瞬間、神殿内の人の気配が動き出し急に慌ただしくなったのを見ると重要な施設への入口だったのかも知れない。
あの娘を探すことに夢中になって警戒を怠っていた。
油断するにもほどがある。
もはや退路は絶たれ、この場所が見つかるのも時間の問題。
父の仕事を手伝い始めて10年、今まで不慣れながらも危なげない調査を続けられてきたのは、この『対の指環』のおかげだろう。
父が生前の母に送り、母の死後私へと受け継がれたこの指環。
絶対に大事なものなはずなのに、父は私に肌身離さず着用し続けるように厳しく言ってきた。おかげで10年間この地での単独調査は何もトラブルがなかった。
それがこんな事で台無しになってしまう。
情けなくて悔しくて涙が出る。
でもこの指環が人族の手に渡ることだけは避けなければならない。それこそ命をかけてでも指環の存在は隠し通さなければ。
でもこの状況では誰かに託すこともできないし……飲み込んで体内に隠すのはどうだろうか?運が良ければ発見されずにすんで、打ち捨てられた骸と一緒にどこぞに廃棄されるかも。
あるいは、この食料倉庫のどこか隙間に隠してしまうのはどうだろうか?
この小さな指環なら石壁の隙間などに埋め込むのはそう難しくない。
そう思って薄暗い倉庫の中を見回す。
石壁、立ち並ぶ大量の棚。穀類の入った大袋、野菜の入った樽や籠。月明かりに照らし出された木箱には人族の文字で中に、収められた食材の名前が焼印されている。
月明かり……
ふと光の差し込む窓を探して上を見上げる。
かなりの高い場所に私がギリギリ通れそうな採光用の小窓。どうやら普通の窓のようだし、あそこにたどり着ければ脱出できるかも知れない。
でも足場がない。
普段開けるような窓ではないのだろう。
背中が無事であれば翼を使って飛べて逃げられた。
肩が動けばなんとか石壁をよじ登れて脱出できたかもしれない。
運動神経がだめだめな私が片手であんなところまで登るのは絶望的。
やはり指環はどこかに隠す方が良いだろう。
そう判断した私は、倉庫内を息を殺して移動しながら隠せそうな場所を探して動き回る。指環の効果で存在も音も隠されているだろうけど……少しでも存在がばれないように必死だった。
指環を隠すなら人目がつきづらい所のほうが良い。
頻繁に出し入れされるような物品の近くは避けて、保存食や動かすことのない容器の近くに……。
私は奥の方にある棚の影を覗き込む。
発酵食品、干し肉。酒樽……神殿に酒樽?ルミナス教のイメージには合わない食材もある。来賓歓待や祝会用かな……ここなら滅多に人が来なさそう。
そう思って良さげな隙間を探すために奥に行こうとした。
もぞり。
最奥にあった布の袋が動いた。
「え。」
思わず声をだしてしまった。慌てて自分の口を押さえて気配を殺す。そして直後に無意味だと気付く。指環の効果で私の意思なく、声や音が第三者に漏れることはそうそうあり得ないからだ。
だと言うのに……
その小さな布袋は私の声にビクリと反応した。
もしかしてあれは蹲っている人の背中!?
でもなぜ!?
もしかして攻勢結界に体が触れた時に指環も接触していて壊れた!?
焦った私はどうしたら判断して良いかわからなくて硬直してしまう。
そうこうしている内に蹲った小さな人影はゆっくりと動き出し振り返る。人影の横顔が見えて、その正体が判明する。
私が最初に布の袋かと思っていたのは、蹲っていた人で……小さな女の子だった。
そしてそれは、昼間遠目に見てさっきまで私が探していた聖女と呼ばれる小さな女の子だった。
何故かホッとしてしまって緊張していた身体から力が抜ける。
反射的に身体を強張らせたせいで、また背中と肩がじんじんと疼く。
思わず顔をしかめて肩口に視線を向ける。
痛みに堪えながら当てていた布をめくると、さっきより出血による染みが広がっている。焼けて爛れた傷口はなかなか血が止まらず、こころなしか先程より滲み出す血の量が増えてる気がする。
手持ちに役立ちそうな薬はない。布をあてて血が垂れ落ちないようにするのが精一杯。
とにかくあの娘が居ないところを探そう。
ていうか、あの娘は騒いだりせず大人しいままだ。
たまたま偶然のタイミングで振り返っただけかも?
そう思って、ふと視線を小さな聖女へと戻すと……ばっちりと視線が合ってしまった。
……本当に気づいてない?
バレてないかな、これ。
私は棚影に隠れようと一歩横にそーっと動く。
小さな聖女が私の目を見つめたまま追従するように顔を動かす。
バレてる。
なんで……やっぱり指環が壊れて……?
私は顔をしかめて左手薬指を見つめる。外観は異常ないのに……。
「あの……」
可愛らしい小さな声が聞こえた。
話しかけられた……。
「ごめんなさい、どうしてもおなかへっちゃって……」
しょんぼり顔の小さな聖女は突如、弁明をしだした。
彼女の手を見ると、チーズの塊が握られている。
「ちからをつかうと、おなかがへってねれな――」
「大丈夫です。私は叱りにきたんじゃないですよ。」
何を返事してるんだ私は。
いや、正直言うと……泣きそうな顔で歯型の着いたでっかいチーズを握りしめ、心底申し訳なさそうにしている小さな聖女をみたら、とりあえず安心させたくなってしまった。
というか騒がれたらお終いだし。
「ほんと?おこらない?」
小さな声をさらに押し殺すようにして少女が気色の滲んだささやき声で喋る。
少女の顔に希望の光が差し込む。
そして手に持っていたチーズの塊に視線を戻す。
まだ食べたりないといった具合に、じっとチーズを見つめてる。
というか、そのチーズ……あなたの顔くらい大きいのだけど。
もう半分くらい食べ終わってる……凄い食欲。
「誰も呼ばないから、食べちゃって大丈夫ですよ。」
思わず彼女を促してしまった。
彼女は私の言葉を聞いて、ぱあっと笑顔を綻ばせると。
「うん!」
そう言ってチーズの塊にかぶりついた。
一口がもの凄くでかい。
飲み物もないのに……ずっしり重そうなチーズを一気に食らいつき、素早く咀嚼してごくりと飲み込む。
すっご……。
小さな聖女の豪快な食事に頬が緩む。
なんか……凄く可愛い。
命の危機に瀕しているというのに……何故かその事を忘れて私は小さな聖女の食事を見守っていた。
そして彼女が最後の一口を飲み込むのを見届ける。
「美味しかった?」
またも思わず聞いてしまう。
「うん!」
元気よく、しかし小さく声を押し殺すように。
この子、こんなに小さいのに状況がわかってて声を押さえてる。賢い子だなぁ……さすがというかなんというか、小さくても聖女ということなのだろうか。
感心している私をよそに小さな聖女は立ち上がり歩き出す。
とてとてと可愛らしい歩調で無警戒に近づいてきて足元で立ち止まり、にっこり笑顔で私を見上げる。
何だこの可愛い生き物……。
じっと私を見つめたあと、ちょいちょいと小さな手で手招きをした後、何かを言いたげに背伸びをして手を口に添えている。いたずらっ子が内緒話でもするかのように。
思わず反射的にしゃがみ込んで彼女の小さな手に耳をかたむける。
「ないしょにしてくれてありがとう。」
嬉しそうな声でこしょこしょ話をする彼女の声が耳をくすぐる。
こそばゆくて顔が綻ぶ。
私はお返しとばかりに身をかがめて左手を口に添える。
小さな聖女が私の仕草を理解して耳をかたむけてくれる。
「どういたしまして。……かわりにおねーさんがここにいることもないしょね。」
こういっておけば、なんとかなるだろう。
そう思って、既に罪悪感を知っている聡明な幼子と秘密の共有を提案する。
きょとんとした表情のあと、少女はいたずらっぽい笑顔を浮かべて何度もふんふんと頷いた。
なんだこの超可愛い生き物。
抱きしめたくなる。
さりとて私の危機的状況は変わらず。
早くこのこを部屋からだして指環を隠したい。
そう思ってきょろきょろする私をじっと小さな聖女がみつめている。
「おねーさん。」
私の肩をじっと見つめていた聖女が声をかけてきた。
「うん?」
「けがしてる。」
心配そうな顔で私の右肩の傷を見つめている。
「ちょっとドジしちゃったの。大丈夫だよ。」
治療のために人を呼ばれたりしたら終わりだ。
私は不安そうな彼女を安心させたくて強がりを言う。
「おねーさん、もっとしゃがんで?」
唐突に小さな聖女が再び私に何かをしようとしている。
また内緒話かな?
そんな事をおもって精一杯身をかがめて彼女と目線の高さを揃えた。
すると彼女が私の右側に移動して肩の傷口に手を添えた。
次の瞬間、淡い光が小さな聖女の全身から溢れ出て小さな手を伝って私の体へと流れてくる。
声をあげる間もなかった。
文字通りあっという間の出来事。
私の肩の傷はすっかり治っていて、背中の疼きも完全に消えていた。
女神の奇跡、聖女の癒し。噂話で聞いた聖女の治療の権能。
「もういたくない?」
凄く心配そうな顔で、小さな聖女は私の顔を覗き込みながら聞いてきた。
ぽかーんとしてしまった。
あの傷を、ものの数秒で綺麗に治してしまったのだ。
「あ、あれ?まだいたい?もういちどやってみるね。」
「ううん、大丈夫だよ。もう痛くないです。」
失敗したと思って不思議がっている彼女を見てハッとした私はあわてて答えた。まさか人族の聖女に治療されるとは思ってなくて呆けていた。
「すごいですね。貴女が治してくれたんですか?」
「ううん。めがみさまのちからなの。わたしがなおさなきゃっておもうと。わーってなるの。」
「……?」
子供特有の要領を得ない感覚的な話だろうか?
ともあれ、これで……なんとか助かるかもしれない。
「ありがとうございます。聖女さま。おかげで元気になりました。」
私は精一杯の感謝の気持ちと敬意を込めて、小さな聖女にお礼を言う。
「ううん。せいじょだからじゃなくて、ね。たすけてあげてって。いわれたの。だから、えーと……おはねはうごく?」
あれ?翼がみえて……??
今の私の姿、偽装状態じゃなくて魔族状態?やっぱ指環壊れてる??
この子は魔族と気づいてないんじゃなくて、魔族をしらないだけか……。
もう何がなんだかわけがわからない。
ともあれこの場をなんとかやり過ごさなくては……
「えっと、はい。大丈夫です、動きますよ。女神様のおかげです。」
私はなんとか小さな聖女の話に合わせて問題ないことを伝えた。
「うん!よかったぁ!」
また嬉しそうな顔をしながら小さな声で無垢な感情を向けてくる。
「本当にありがとうございます……何もお返しができなくてごめんなさい。」
この子が喜びそうなものなど何も持っていない。
命を救ってくれた対価が払えなくて本当に申し訳なくなる。
「ううん。だいじょうぶ。ないしょにしてくれたおれい。」
ぶんぶんと首を振りながら彼女は照れくさそうに言ってくれる。
つまみ食いを咎めなかった対価……良いのだろうか……。
「はやくにげたほうがいいって。だれかきちゃう。」
ハッとしたように彼女は扉の方を見てから言ってくる。なにか気づいたのかもしれない。というか、なんかこの子……さっきから微妙に会話が第三者視点だ。不思議な話し方。
「えっと……あの。」
「はやく!いって!」
こんな別れ方じゃダメだろうと思った。
だから何かを約束していつか恩を返したい、そう思って言葉を紡ごうと逡巡していたら、彼女は怖い顔をして私に逃げるよう促した。
その時、私の耳にも壁の向こうの廊下から響く足音が聞こえた。
「…っ! わかりました!このお礼はいつか必ず!」
そう言って私は背中の翼に魔力を通すと、飛翔魔術を行使した。
ふわりと浮かび上がる身体を制御し、まっすぐ窓へと向かう。
窓には簡単な内鍵がかかっているだけ。
良かった、これなら出られる。
すぐさま鍵を外し窓を開けて身体を滑り込ませる。
胸とお尻がつっかえそうになってちょっと焦ったけどなんとか出れた。
ちょっとだけ外から窓を覗き込んで見ると、ちょうど廊下から誰かが室内に入ってくる所だった。
「本当に……ありがとう。」
そう一言だけ呟いて、私は夜の空へと飛び立った。
これが、私の……命の恩人との最初の出会い。
幼セレナ、カロリー確保のために
チェダーチーズをワンホールまるかじり
良いセンスだ。
胸焼けしそう




