第四十五幕 「獣の宿業」
誰かのために自分を犠牲にするなんて嫌だ
でも、誰もがこんな自分のために犠牲になってくれている
そんな事は望んでないのに、こんな自分のために苦しまないでほしいのに
だが思いは通じない、願いは届かない、声が出ない
「だったらもう覚悟を決めて、自分で動くしかないんだ。」
「セレナ様。ご無礼を承知で一つだけ、私めの疑問を引っ込めるために。問わせていただけませんか。」
先ほどからずっと押し黙って作業していたトマスだったが、遂に堪え切れなくなってか私に問いかけてきた。
ずっと極上の苦虫を嚙み潰したような顔してたもんね。
来ると思ってたよ。
だから私は彼から問いを聞くまでもなく、彼の言葉に応えた。
「トマス様、貴方の復讐は遂げられます。魔獣の死は間違いなく訪れます。全ての者の魂の救済は……必ずや成し遂げられます。」
だから私はにべもなく答えた。
トマスが驚いた顔をしたあと目を伏せる。
「承知いたしました……お答えいただき感謝いたします。」
多分、他にも言いたいことはあったんだろうけど。
今はそれを問答する時じゃないんだ。
……ごめんね。
トマスは一礼の後引き下がり、皆が待つ所へと歩いていってしまった。
彼が離れたのを見届け、私は改めて目の前の状況に目をやる。
ひらけた場所には複数のゴミ山。
その隙間の広場には巨大な骸の山。
既に魔獣の遺体は全て回収を終えて、ゴミ山と共にそこにある。
10体。
おおよそ3、4mの、決して熊としては小さくない、巨大であろう躯体。
魔晶化の症状は中期程度、酷くはないがしっかり兆候の出ている赤茶けた体毛も、既に根本が黒ずんでおり兆しは濃くなりつつあった。
そこの脇には大型の焦げ茶個体の3頭がうなだれるように、骸の香りを鼻を鳴らしながら嗅いでいる。
魔晶化は末期。大きく肥大化してしまった魔晶石が目立ち異形化が進んでいる。既に焦げ茶の体毛も僅か。根元は黒く染まりつつある。
そんな彼らをずっと見つめていたクロ。
漆黒の体毛を湛えており、魔晶化は全身へと浸食。体毛よりも紫色の結晶の方が多い。四肢も身体も首周りも、背中も腹も、口も頭部も。
全て異形と化した終末個体。
そして……環境適応種。
今まで知ってきた知識、見てきた現実、戦ってきた経験。
その一切が覆される光景が目の前にある。
彼らは同族を慮り、死を悼み、骸を埋葬すべく今ここにいる。
少なくとも私はそう思っている。
考えた上で、そう答えを出している。
ここに倒れた身体と今なお生きている者達は、この森に根付くはずだった負のマナをその身の内に留めて、飢餓感に狂いながら数年を生き抜いた。
これだけの魔獣が存在しながら、森が未だ豊かであり、この場所が荒れておらず、彼らが痩せこけているのがその証明だ。
極寒の死地ではあり得なかった光景。
過去に発生した環境適応種が暴れたと思われる事件とは全く別物の事象。もしかして環境適応種という存在そのものを我々は勘違いしているかもしれない。
そんな考えが頭に思い浮かぶ。
しかし答えを得るには時間が足りない。
だってもう、別れの時は済んでしまったようなのだから。
長らく、といっても……ほんの数分。
仲間との別れを惜しんでいた3頭が、頭をあげて立ち上がった。
遠巻きに見ている軍人たちは警戒することも無く。もはや武器もしまってこの状況を見ていた。おそらく彼らの中でも色んな価値観が崩れつつあり、葛藤のさなかにあるのだろう。
トマスは難しい顔をしたまま、リアムとフィンも困惑の表情だ。
ただ一人、リリスだけは静かな表情で見守っていた。
『グゥォォォー……。』
3頭の大型魔獣が低く唸る。
空に向けて何かを伝えるかのように。
『ォォォ……。』
また沢山の声が『応える』。
先ほどよりも近くでだ。
魔獣じゃない、普通の熊達の答えだ。
さっき聞こえた音は私の可聴領域ギリギリに居たはずだったが、今は100mも離れていない。
他の耳の良い者にも聞こえたのだろう、何事かと辺りを見回している。
「別れは……お済みですか。」
3頭は10体を離れてクロの前に鎮座している。
私の問いに応えるかのように3頭がクロの方を見た。
『グルゥ…。』
クロが答えた。
「お気になさらないでください。これは私の役割です。」
そう言って私は10体と3頭の間に歩み寄り、彼らに背を向けて死者へと跪いた。そして両手を組んで目を瞑る。
部隊の人たちが息を呑むのが聞こえる。
ごめんね。
背後に魔獣がいるのに跪いて目を瞑るとか、気が気じゃないよね。
でもこれは必要なことなんだ。
私は静かに口を開く。
『世界に光を与えし女神ルミナスよ。』
死者を弔う言葉を紡ぐ。
『我は汝の子らに寄り添う現し世の民。』
生けるモノらの想いを捧げる。
『汝に賜りし命、汝へとお返しする一抹の塵なり。』
鎮魂の言の葉は道となり黄泉へと辿る。
『汝の光をもって、彼の者を闇へと鎮め給え。』
彼らの上に光の陣が浮かび上がる。
『―光に還りし闇達に、永久の安寧と休息を求めん―』
光陣が柔らかな光を湛え辺りを照らしながらゆっくりと降りてゆく。
横たわる骸達に、金色に輝く光の粒子が吸い込まれてゆく。
やがて体から生えていた魔晶石が色を失い、砂のように崩れてゆく。黒くなりつつあった体毛も元の赤茶けた毛色に戻ってゆく。
後の躰には空虚な孔が痛々しく残っては居るが、異形を捨てたその骸は何処かホッと安心したかのように見えた。
私は立ち上がると振り返って彼らに向き直った。
「偉大なる守人達に。」
『ガゥ……。』
「これで安心して頂けますか。」
私は3頭の顔を代わる代わる見ながら言った。
彼らは私の問いに応える代わりに、クロの方を向く。
『ガウ。』
クロが彼らの代わりに是と答える。
「では、皆様方も。」
私はクロをじっと見つめた。
3頭もクロへと正対し、彼を見上げた。
身体の力を抜き、手をだらりと垂らし、だがしっかりと大地を踏みしめながらクロを見つめている。
誰も喋らず、誰も動かなかった。
クロだけが、一人動きだし、その左腕を振り上げる。
風を切り裂く音。
毛と皮を引き千切り、肉を撒き散らし、骨を打ち砕き、臓腑を撒き散らす音がした。
私の右側に黒ずんだ紫色の体液と灰色の臓物が飛び散る。
しかし彼の左手には未だ鼓動を打ち鳴らす心臓が在った。
誰かが息を呑み、誰もが動けなかった。
クロだけが、一人繰り返し、その右腕を振り上げる。
空を弾き飛ばす音。
魔晶石が砕け散り、破片を撒き散らし、悪意を打ち砕き、憎悪を打ち払う音がした。
私の左側にくすんだ紫色の体液と黒色の臓物が飛び散る。
しかし彼の右手には未だ鼓動を打ち続ける心臓が在った。
誰かが身を乗り出し、誰かがそれを制した。
クロだけが、一人の目の前の彼に向かい、大顎を開く。
岩をも砕く力が、彼の皮と肉と骨と臓腑を、砂糖細工のようにくしゃりと噛みちぎった。
誰もが息を呑み、誰もが目を見張っていた。
私だけが静かに目を閉じる。
クロだけが、独り顔を血で濡らし、両の腕を血で染めて。
呻きもせずに仲間の心臓を噛み砕く。
何かが潰れ弾ける音、粘り気のある液体が溢れ出る水音。
彼が大顎を動かすたびに、口の端から溢れ出そうになる。
クロはそれを逃すまいと舌で舐め取り、嚥下する。
やがて口の中いっぱいの勇気ある想いを飲み込むと、右手に在った心臓を口へと放り込んだ。
また何かが潰れ、水音が響き渡る。
クロはそれを零すまいと、上を向いて噛み砕き、飲み込んだ。
やがて口の中に満ちた純粋なる願いを飲み込むと、左手に在った心臓を口へと放り込んだ。
再びそれは潰れ、水音が響き渡る。
クロはそれを残すまいと、一飲みにしてしまう。
やがて口の中にあった、黒き思いは飲み込まれ、クロは上を向いたまま静かに独り佇んだ。
息をするのも憚られるような空気。
誰もが混乱と緊張の渦の中。
自分が取るべき行動が見つからず、じっとしていた。
私は一人、静かにその時を待つ。
ドクン。
何かの音が響いた。
空に轟く遠雷のような音。
ドクン。
何かが地面を揺らした。
大地に轟く地鳴りのような振動。
ドクン。
何かが皆の身体を叩いた。
血と魂を震わす鼓動のような音。
「グ……ゴ……ガ……ァ。」
クロの口がゆっくりと開き、苦しそうに呻いている。
「……ッガハァ! ハッ! ハッ!!」
大きく息を吐き出し肩を大きく揺らしながら喘いでいる。
「ギギ……! ゴルルルルル!!」
大顎を食いしばり、牙を軋ませながら何かを必死に堪える。
黒毛の魔獣が突如苦しみだし、尋常ならざる雰囲気を漂わせ始めたことで、状況を見守っていた者たちがざわついている。
何が起きているのか、このまま見ているだけで良いのか、これは大丈夫なのか。不安な表情で見守ることしかできないでいる。
「セレナ様……!」
ついに見かねたのか、ヴァルド隊長が声をあげた。
瞬間、私は右手を水平に手のひらを向けた。
「……っ!!」
彼はビクリと身体を強張らせて止まってしまう。
黙って見ていて。
そう思いを込めて彼を制した。
私は目を開き、黙ってクロを見つめる。
やがて彼は苦しそうに唸りつつ身体を震わせた。身体を蹲らせて必死になにかに耐えている。
ふと、彼の震えが止まった。
その直後。
『ギィィィィ!!』
ガラスをこすり合わせるような不愉快な音を響かせながら、体中の魔晶石が急激に巨大化した。
尖った魔晶石が槍衾のように連なり、鋭利な切っ先を天へと向ける。
まるで殺意剥き出しの刃を備えた、誰もを寄せ付けぬ反撃の鎧。
『グチュ……ギチュ……』
硬い肉を切り裂くような寒気のする音を鳴らしながら、四肢の爪の魔晶石が醜く巨大化する。
湾曲した魔晶石が大きな鎌のように並び、滑らかな刃先を地へと垂らす。
もはやそれは手ではなく、巨大な刃を備えた死を表す象。
『ゴキッ……バキッ……』
頭蓋が砕けるような怖気の走る音を鳴らしながら、クロの顔が魔晶石に飲み込まれる。
分厚く堅牢な醜い色の水晶は、かろうじて獣の貌をしていたが。
もはやそこに面影はなく、巨大な牙と……耳とも角とも取れぬ巨大な二対の鋭利な突起。爛々と燃え上がる瞳。
既にそこにいるのは獣でも魔獣でもなかった。
それは、ようやく落ち着いたかのように静かに大きく息をする。
「偉いですわ、クロ様。ちゃんと起きたまま居られましたね。」
私は笑顔で静かに語りかけた。
ビクリと身体を跳ねさせ、驚いたかのようにそれは私を睨みつけた。
まるで今までここに私がいたことを知らなかったかのように。
数瞬、それは私を見つめていた。
しかし次の瞬間にその内からは、黒い感情が滲み出る。
漲る殺意を迸らせ、溢れ出る害意を撒き散らし、荒れ狂う憎悪を煮え滾らせながら。
動かなくなってしまった表情をギチギチと軋ませながら。
それは醜く嗤った。
クロだったものがそこにはあった。
彼は全ての仲間の業を背負い。
終に魔物となった。
「さあ。機は満ちました。お望み通り死合うと致しましょう。」
私は深々と礼をし、静かに理力を解き放つ。
魔族という魔に染まりやすい人が居て
魔獣という魔に染められた獣が居る
では、魔物とは何なんでしょうね
種族でも、動物でも無い。
魔の物。
魔そのもの?
さあ、一章 第二部 聖女と魔物の決戦。
どう書こうかな。




