第四十二幕 「黒き風と黒毛の魔獣」
自らの無力さに憤る
自らの無責任さに恐れ慄く
自らの無謀さを心より後悔する
「だが、立ち止まり地に膝をつくことは許されぬ。」
その生き物は崖上から我々を見下ろしていた。
その姿はまるで、戦況を把握して自身のとるべき最善の行動を導き出さんとすべく、次の一手を模索する知将のごとく。油断なく構えつつも一切の情報を見落とすまいと、隅々まで意識を行き渡らせているかのような、鋭い視線と悠然とした振る舞い。
四十メートル上方というはるか高みにあって、その漆黒の影は異常なほどの巨体だと、一目で理解させられる強烈な存在感を辺りに知らしめている。
しかし、その姿は異形そのものであった。
体長は目算で8m超。ひどく艶やかな真っ黒な体毛に覆われた巨躯は美しさすら湛えている。
その身体は暴威に満ち溢れた頑強な筋肉に覆われていて、一目で全てを打ち砕く超常の膂力を備えていることを否応なしに理解させられる。
身体の至る所には紫色の硝子のような鉱物が生えてきていて、それらは宝石の原石と同等の輝きを放つ負のマナの結晶であり、魔晶化と呼ばれる魔獣特有の現象。
結晶は四肢の外側を防具のように覆い、手の甲から巨大な爪の部分にかけてもしっかりと保護されている。というか爪も魔晶化している。
首周りや胸部、腰椎部分や上腕、大腿部に至るまでおおよそ急所と呼べるほとんどの所は同様に魔晶化してしまっている。
あんな状況の相手に有効な攻撃を与えるのは難しいだろう。
そして口元もまた魔晶石に覆われており、憤怒の形相を象ったような口面が耳元まで続いており、強大な魔族のような大きな角を形成していた。
事情を知らない者に、あれが元は熊だったなどといっても絶対に信じてもらえないだろう。
純然たる魔獣。大いなる脅威。暴力の権化。
「これはこれは……なんとも奇怪な姿になったものだ。」
黒毛の魔獣が姿を見せ、最初に口を開いたのはトマスだった。
嬉しそうな雰囲気を纏い、だがしかし憎しみの籠った言葉を吐く。
「以前の容姿をご存じで?」
私は対象から視線を外すことなく、トマスへと問いかけた。
「ええ、数年前に一度。森林調査隊五名を惨殺し、腸だけを食い散らかすところを遠目に拝見いたしました。私の発した殺気に反応し姑息にも逃げおおせましたが。その時はあそこまでの魔晶化は進んでおりませんでした。」
いつもの丁寧な言葉遣いなのに、酷く冷淡な印象を抱かせる口調。
もう隠すことをやめたのであろう彼は、尋常ならざる殺意を放っている。
ああ、彼はずっと隠していたのか。
自責と後悔の念と復讐と怒りの炎を。
なぜ彼が浮き立つかのような雰囲気を漂わせていたのか理解する。
そして、ならば彼の次の言葉も予想できる。
「セレナ様、ここまで頼らせていただいた上に更にご無礼を承知で、不躾なお願いを一つ叶えて頂きとうございます。……彼奴めの相手、先陣を切らせていただいてもよろしいでしょうか。」
「ええ、どうぞご随意に。ずっと不思議に思っておりました。貴方ほどの武人が魔獣と戦うことごときで、浮き立つかのような……らしからぬ振る舞いをしていたことに。その理由はなんなのだろうかと。」
「未熟者ゆえ。未だ達人の域は遠く、はるか彼方でございます。己の責を全うできず、恥にまみれ奥歯を噛む日々でございました。」
自嘲気味な笑いとともに彼は頭を振る。
「それでも弛まぬ意思をもって歩まれたのでしょう?女神は貴方の内なる闇を祝福します。どうぞ死力を尽くし復讐の意思をお捧げになってくださいまし。私も聖女として見届け、貴方の末路を受け入れます。」
私は彼に淡々と告げた。
「感謝いたします。」
彼はそういうと、右の腰に佩いていたもう片方の剣を抜き、両手にて剣を構えた。そして、長くゆっくりとした呼吸の後。
とびきり濃い殺意を魔獣へと向けて放つ。
冷たく突き刺すような、熱く燃え盛る刃のような、研ぎ澄まされた激情をぶつける。
周囲を見回し状況を観察していた黒毛の魔獣は、トマスの殺気を受けてピタリと止まった後、ゆっくりとこちらを向いた。
憤怒を象った口面が嗤った気がした。
次の瞬間。
黒毛の魔獣は崖上からこちらへと、まっすぐに跳んできた。
十数トンはあろう巨体を支える膂力が、崖を飴細工のように砕いた筋力が、巨体をまっすぐ飛ばすほどの威力で崖を踏み抜いた。
まるで砂場を蹴り飛ばすかのような気軽さで、硬い岩の塊がはじけ飛ぶ。形容しがたい轟音とともに崖が砕け散り。黒い脅威がまっすぐ跳んできた。
落ちるよりも早く、走るよりも速く。
トマスは低く身を構え、相手を迎え撃つ。
巨体が着地すると同時に地面が割れ、岩盤がめくれ上がった。もはや衝突音などという容易いものではなく地震のような地鳴りが辺りに響き渡る。
大小さまざまにはじけ飛んだ石礫が四方へと飛び散る。
私は後方へと跳び退き、大きな破片の幾つかを叩き落す。
『ゴアアァァァア!!!』
土煙も収まらぬ内に、黒毛の猛獣は再び雄叫びあげた。空気が震え、鼓膜を叩きつけるような音が響き渡る。
同時に後方でも3頭の魔獣が森から飛び出し、咆哮を上げながらヴァルド隊へと突っ込んでゆく。どれも6m級の大物で、黒毛の個体を除けば最大級だ。
戦力を温存しての、挟撃とは恐れ入る。
やはり知性を得た魔獣は厄介なのだろう。
普通であれば。
しかし我々は誰一人として怯まなかった。
目の前に3頭の脅威と、背後に1体の脅威が有ろうとも。
誰もが皆を信じその場から逃げることは無かった。
―女神の光を記したる教典 ルミナス聖典
導きの章 4章12節
『誰もがその身の内に闇を抱え、誰もが暗闇の中を歩むのです。
ならば私は貴方を照らし、貴方の標となりましょう。
貴方がいずれ闇に沈もうとも、私は貴方を貴方の道の先で待ち続けます。
いずれ朽ちた身体から、黒き魂が這い出ても、私はそれをも導きます。
安心して迷いなさい。
だが止まってはいけません。
貴方が決めた道なのだから。』
復讐だろうが、後悔だろうが、恨みだろうが、憎しみだろうが、意思をもって進み戦う者を女神は蔑まない。
神聖魔術 『生きる者への標』
ありとあらゆる恐怖を跳ね除け、戦う勇気と生きる意志を与える魂の導きが、この場にいる戦士へと与えられている。
熊ごときに誰がびびるものか。
咆哮の刹那、老兵は巨大な魔獣の咆哮をものともせずに疾駆した。
両手に握り締めた剣を振りかざし、飛ぶように巨躯へと挑みかかる。
渾身の威嚇をものともせずに、目の前へと迫りくる矮小な殺意に苛立ったのだろう。黒毛は再び叫びながら自らも前へと進む。巨大な四肢で地面を抉り飛ばしながら馬より遥かに速い走りで、老兵をなぎ倒そうと襲い掛かってきた。
巨木のような腕で、老木を刈り取らんと横なぎに殴りつける。
風圧だけで人が千切れそうな猛威が吹き荒れた。
だが老兵は信じられないほどの軽い身のこなしでそれを避けると、するりと黒毛の懐へと滑り込んだ。
「まずは一合。」
閃光のような剣筋が黒毛の肌を撫ぜた。魔晶石の鎧の隙間を縫うように、ゆらりとした動きで刃が踊る。流れるような動きなのに、手元が見えないほど速い。
切り裂くような風切り音が響き渡り、老兵は黒毛をすり抜けた。
だが彼は残心を残しつつもすぐさま振り返る。
『ゴルルルル……。』
黒毛は急に冷静になり老兵を睨みつけた。
殺意が自分の身をすり抜けただけのように感じたのに、身体はしっかり傷を負ったからだ。
「ふむ。やはりコレでは皮を断つのが精一杯ですか。」
自らの得物を横目で見やり、やや残念そうな面持ち。
「ならば。」
そう呟くと、再び老兵は駆けだす。
今度はヘビのごとく地面を這うような低い軌道で、しかし滑るような速さで駆け抜ける。
黒毛が地を這う虫けらを潰そうと両手を地面へと叩きつけた。轟音とともに再び地面がめくれ上がる。だが、老兵はその一撃よりも早く、再び黒毛の懐へと潜り込んでいた。
はじけ飛ぶ石礫を最小の動きで躱しつつ、今度は双剣をまっすぐ突き立てた。鋭く研いだ年季入りの業物がするりと魔獣を貫く。鋼のような剛毛を掻き分け、丈夫な皮を貫き、分厚い脂肪と硬い肉を切り裂いて、骨を避けながら、心の臓腑へと届く。
かと思われた刹那。
黒毛は自ら身を捩りながら横へと飛び、老兵と距離を取った。
武人の殺意は寸でのところで届かず、二合目も深手には至らなかった。
「ほお……獣が己の致命を理解し、それを忌避しますか。」
老兵は心底関心したかのような態度でため息を漏らした。
小さな老兵を警戒してか、巨躯の黒毛が低く唸りながら様子を伺っている。
「知性とはまことに厄介ですな。……だがしかし、避けるということは死にたくないと思うこと。死にたくないと思うのは死を感じたということ。この老いぼれの刃が貴様に届くことの証左。」
とつとつと語りながら老兵はゆっくりと歩き、間合いを測る。
そして
「嬉しいですな。」
穏やかな笑顔で殺意を放った。
先程のような激しく粗い殺意ではない。
優しく、諭すような、未熟を叱咤するかのような丁寧な殺意。
なんでか知らんが、リアムとフィンが「ひっ」と小さく悲鳴を漏らした。
その未知なる殺意に、黒毛の体が一瞬硬直した。
老兵はそれを予測していたかのように、機を待ち望んでいたかのように疾走する。今までが全力では無いことを知らしめ最速の動きで間合いを詰める。
黒い風となった老兵は突進力をそのままに黒毛の身体を貫く。しかも勢いを止めずに剣を突き刺し、それを支点に進行方向をぐりんと捻じ曲げた。遠心力に引かれた剣が黒毛の皮膚と肉をひねるように切り裂く。
捻じ曲げた進行方向の先でもう片方の剣を突き刺し、更に腕力だけで行き先を捻じ曲げる、時折黒毛の腕や足を蹴り更に加速する。
巨大な黒毛の周りを小さな影がまとわりつくように飛び回り、影が通り抜けるとそこには小さいながらもしっかりとした傷ができる。黒毛は影を払おうと四肢を振り回して暴れるが、小さい影は捉えることが出来ずに巨体の周囲を這い回る。
まるで曲芸のような珍奇な剣技。
やっていることは絶技なのだが、もはや剣術ではない。
ていうかなんなんだ、あの執事。
身軽にもほどがある。
見てくれは70に手が届きそうな老人なんだけど。
一方的に攻撃しているような絶対的優位性、素人目に見れば老兵の方が圧倒的に優勢に見えただろう。
しかしそうではなかった。
一向に羽虫が捉えられない苛立ちと、小さい傷に怒り狂った黒毛は刻まれながら再び吠えた。
突如、周囲のマナが歓喜に打ち震える。
そよ風が肌を撫ぜたと思った次の瞬間、風が吹き荒れ土埃が舞う。黒毛の周りに球形の真空波刃が乱れ飛び、鋭い風切り音が全周へと響き渡る。
「ぬうっ?!」
黒い影は吹き荒れる嵐をもろに体に受け、弾き飛ばされて空中へと放り出されてしまった。
「なっ!『嵐斥の繭籠』だと?!」
戦いを見守っていたフィンが叫ぶ。
―風の魔術における中級攻撃魔法『一陣の刃』の応用魔術であり、攻防一体の特殊魔法。術者を中心に真空波刃を球形に発生させて、全周囲を攻撃、あるいは守る高度な魔術行使。
陸上生物の魔獣が風や土、木のマナの適性を持っている事は珍しくない。
しかし行使する魔法は人族が体系化した魔術のような洗練されたものではなく、雑多に暴風や瓦礫を放つだけのような初等魔術に類するものだ。
威力と効力を高めた中級魔術、しかもそれを応用した高等魔術の行使。
そんな技を魔獣が使えば多くの者は驚くに決まっている。
だが私はこの現象をしっている。
環境適応種は「学ぶ」のだ。
自然を師に、あるいは敵を師に。
自らの内に渦巻く負のマナを本能で感じ取り、それに近しい現象を理解し、咀嚼したうえで用途を見出すのだ。
脅威の肉体的成長と驚愕の学習行動、本能による最適解ともいえる活用術。
それが魔獣の真の恐ろしさ。
老兵は油断などしていなかった、だが想定外だったのだろう。
魔獣がマナを行使するだけに留まらず、応用魔術を使うなど夢にも思わなかったのだ。
想定外の攻撃を受け、吹き飛ばされてしまった老兵だったが。
かれは空中で身体をひねり体勢を取り戻し、地面へとふわりと降り立った。
リアムとフィンからほっとした息が漏れる。
真空の刃をもろに食らった彼の黒い胸部の革鎧がぱっくりと裂け、服も斬られている。しかし防具のおかげか、彼の幸運か。見えている肌から流れる血は僅か、軽傷で済んだようだ。
裂けた鎧と自分の傷を見て、老兵は顔をしかめる。
「……リアムの術を盗んだ上に、最適化して私に使うのか。獣の分際で実に不愉快な事をする。」
老兵はそのように吐き捨てる。
だが言動とは裏腹に、何やらひどく愉しそうな口元をしている。
ていうか、何やら口調が今までと違くない?
「よかろう。では私も手札を見せてやろう。真似できるものなら、してみせるがいい。」
いうや否や、再び彼は黒き風となった。
戦闘シーンて書くのムズい
がっ、頑張る




