白牛酪(一)
その姫君、生まれて間もなく目が見えなくなり、世界を知らない。
目が見えぬかわりに耳がよく、世界を知らずとも、世界を救った男の名と、屋敷の存在を知っていた。
「あなたは、いらない子なんですって」
側に立つ侍女が囁く。
この侍女のことはよく知らない。今日はじめて聞く声だ。
「存じておりますわ。わたくしの侍女たちがよくお話してました」
「なぜ? あなたは紛れもなく、実の子なのに」
「お姫様とは、貴族の娘のことではないんですって。王子さまと結婚するから、お姫様なんですって。目が見えない私は、お嫁にいけないでしょう。お嫁にいかずにずっとお家にいたら、お姫様じゃないわ。お姫様じゃない娘なんて、お家の名前を汚すだけ」
「そう、だから。いらないのねーー」
次の瞬間、喉に突き刺さる激痛と、氷のような冷たさが姫君の総身に襲いかかった。
息のできぬ苦しみと、こみ上がる血の味は水を飲んですぐに忘れた。
飲んだ水は、喉に突き刺さる剣の切っ先を伝い、外へ流れるのを感じた。
水は口だけでなく耳からも入り込み、目玉に突き刺さった。
信かまぼろしか。
川の水はとても青いのだと知った。
――でも、いたい。さむくて、こわい。こわいこわいこわい。
色を知る喜びはあっさりと恐怖に打ち負かされた。
姫君は声をあわつぶにして願った。
「ああ、陰陽師様、どうかーー」
どうかあたたかな処へ、お導きください。
*
「ああ……、アレク隊長。なんて美しいの」
「姫巫女さまのご兄弟ですもの、とうぜんでしょう」
「それにしても……」
火灯し頃。薄暗くなった城下町で、乙女の嘆声がそこここで溢れる。
路地を曲がれば、
「隊長さん、今日こそ呑んでいきません」
「そんな狭っくるしいとこやめて、こっちにおいでよ」
「なんだって?」
仲良く向かい合って建つ酒場の女将が言い争いを始める。
ふたりの女将は蜜をたっぷりたくわえた花のような美女だ。いつもならば、今日も働き蜂が吸い込まれていくねえ、などと言われている通りであるが今や、衣裳を汚し御髪を乱し、見るに耐えない取っ組み合い。
「隊長さんはまったく隅に置けない男だねぇ」
「一杯くらい付き合ってやったらどうだい」
「右か? 左か?」
「よし、右に賭けるぜ」
氷の美男子ことアレクは調子のいい町民の声をすり抜け、軒裏へと入っていった。
「あっ、待てくださいよ」
ひと足遅れ町民たちは後を追ったが、その行き止まりにアレクの姿はなかった。
もとより殺風景な屋敷ではあるが、冬ほど寂しい季節はない。短い門口には雑草ひとつなく、つくばいの底は凍り、宵闇の空へ伸びる木枝は墨が飛び散ったようだ。
木枯らしが降りてくる。
アレクは暖を求め、早々と座敷へ上がった。
「なに用か。どれ、手土産をみせなさい」
炭が爆ぜる音と、陰陽師の凛とした声が重なる。
「用はだな」
「待て。土産が先だ」
「だろうな」
今日のアレクは陰陽師の差し向かいを選び、やおらに腰を据えた。仰々しく紐を解く。
腰にぶら下げてきた今日の土産は白く太ったひょうたんのようだ。
陰陽師は宵闇に浮くその塊に目を輝かせた。
「それは白牛酪か」
アレクはさらしで締め付けた胸を張った。陰陽師はチーズに弱い。これを持ってそのへんを彷徨いていれば九分九厘、日暮れと共に屋敷へ誘われる。
ブランシールではごく一般的な食べ物だが、陰陽師が居た世界では一部の天下人のみ食すことが許される高級品であった。
「しかし、はじめて見る形だ。美味いのか」
「美味い。火で炙れば格別だ」
「炙る、だと」
心なしか陰陽師の腰が浮いている。
アレクは澄ました顔をしながら、心の中では両拳を挙げて歓喜を表した。
「さっそくいただいてよいか」
「なに用かは訊かんのか」
炙るにはまだ炭火が弱い。
「為ん方ない。訊こう」
陰陽師は炭を足しながら、ようやくアレクの声に耳を傾けた。
「ここより上流の川べりでな、冬だというのに水難事故が続いているという。それも子どもばかり」
「子どもか」
ちらり、門口へ目をやれば、坊主が疎ましそうにこちらをみている。
「なんだ」
「いや。それで?」
「それが貴族の娘なんだ。お姫さまがドレス姿で冬に川遊びをすると思うか?」
城よりやや上流は川砂利が白く、水が瑠璃色に美しく輝く。古くより貴族の避暑地として栄えている。
犠牲になった子どものなかに貴族が居るという報せが入り、こたびの王の詔に結びついた。
「報せたのは私の兄の友人だ。手紙を送り合う仲の姫君が居たのだが、ある日を境に返事がこなくなってな」
「子どもと、手紙を送り合う仲だと。お前の兄の友人が」
「そうだ。姪だった」
「姪であろうと、子どもと手紙を送り合う仲とは」
「しつこいな。話によるとその姫君は目が不自由であったらしい。実の家族に冷たくされ、かわいそうに思ったのだろう」
「不憫に思い、時が来たら娶ろうと」
「そうだ」
「やはり、そうか。目が不自由でも、美しい姫君であったのだろうな」
「ああ、そうだ!」
「納得した。それで、なにゆえ私を頼る」
「川は城へ繋がっているから、必ず死体があがるはずなのだが、ひとりも流れ着いていないのだ。不審に思った兄の友人が調べたところ、川底へ子どもを引きずりこもうとする、魔物を見た人間がいるらしい」
「魔物、ねえ。魔物が骨までしゃぶり尽くしてしまったと」
「深淵は魔物の巣窟だった。魔王の力が消えて三年、残っていてもおかしくはない」
美しい川を渡れば、そこは深淵。
この世で最も危険で美しい場所。
そう謳われていた土地は魔王の消えた今こそ最も人気高く、川沿いから順に屋敷で埋め続けている。
「向こう岸は深淵だというのに屋敷を建てるとは、この世界の貴族とやらは随分と命知らずだな」
「向こう岸が深淵だからこそ、護衛兵つきの貴族だけが別荘を持てるのだよ」
「馬鹿馬鹿しい」
陰陽師は嘲笑をまじえ、そう吐き捨てた。
地位だの身分だの、どの世界の人間も愚かしい行いに人生を無駄にする。その犠牲となるのは、いつも罪なきものばかりだ。
「馬鹿馬鹿しいかは、その目で見てから判断を願う」
アレクの言葉に耳を疑った。
「たわぶれごとはよせ。お前は絡新婦をひとりで滅したではないか。私が足を運ぶ件ではなかろう」
「そうか。邪魔をしたな」
チーズを腰紐に結び直す。
「まあ待て」
陰陽師は串を握りしめ、つい膝を立てた。
「行こう」
「お前な」
先ほどまで眉根を寄せていた男が呆れたものだ。
アレクは今一度チーズを紐からほどくと、串に刺してやった。
炭火は腰の高さまで上っている。
翳せばたちまち、
ちりり、と胸を焦がすような音がした。
チーズは色づき始めると同時に、だらしなく首を傾げた。
陰陽師が「食べごろか」と、アレクに目をやる。アレクの「今だ」という頷きをしかと見届け、串を颯と口へ運ぶが、
「おい、約束だぞ」
容赦のない寸止めに油がはた、と滴る。
あまりに念を押すものだから一寸躊躇ったが、何ゆえこだわるのかなどと尋ねている間に火に溶けた脂が冷え固まってしまう。美食にかけて、ことのほか五月蝿い陰陽師は串を食むことを選んだ。
「必ずや」
「よし」
火傷を伴う湯気を躊躇わず、底に舌を這わす。
「むぅ」
チーズは陰陽師を唸らせた。
食むと伸びるのはチーズの醍醐味であるが、陰陽師はそれを知らない。唇に食んだチーズは口を離れても千切れることなく、どんどん伸びる。陰陽師は腕を目一杯伸ばさねばならなくなった。伸びたぶんを手繰るように咀嚼を繰り返せば、たちのぼる乳の甘い香り。
串が再び唇に触れるときには、至福の笑みを浮かべていた。
「この粘り気、また焦げたところがなんとも」
火に溶けたチーズはなめらかな舌触りだけでなく、芳醇な脂の甘みを堪能できる。たまに口のなかに広がる焦げはまるで香辛料のように存在を強調する。
「甘美。実に甘美である」
最後に串についた食べ残しを歯でこそぎ取ると、その余韻を酒で流し込みながら、陰陽師はアレクの細腰を端目から確認した。
あと三度は楽しめそうだ。
肴に合わせ酒を選び直すと、囲炉裏の灰に焼べた。
今宵の陰陽師はよく動く。
「出立は明日だ、共に行くか」
「いや、お前が着くころに合わせて向かおう」
「よし、ではこれで失礼する」
「なんと、呑んで行かんのか」
言下に、チーズの紐を手繰る。
呆れたアレクは腰から紐をはずすと、陰陽師に総てくれてやった。
どうやら本当に呑んでいかぬようだ。
陰陽師は首を傾げた。
わざわざ自分の腰を上げさせる譯を訊きたかったのだが。
「まあ、よい」
明日にはわかるだろう。
門を潜るアレクの姿を見届けると、陰陽師は嬉しそうに肴を串に刺し、ひとり長い夜を明かした。
*
アレクは馬に乗っていた。
かつて戦場を共に駆け抜けた愛馬、その名をディーバという。名前の通り、主人と揃いの濁りひとつない白毛は見惚れてしまうほど輝かしい。その眉目も人間が振り返るほどの妖艶さを放っているが、
「もう少しだ、耐えなさい」
今日に限ってギョッとするほど三白眼を血走らせていた。
汗血馬と謳われたディーバは今、耳を後ろに倒し憤怒している。
「子どもひとりの相乗り、なにがそんなに不満なのか」
アレクが顎を引くと、そこにはお月さんのようなまんまる坊主がある。よくよく見るとうっすら短い毛が立っていて、それが岩苔のようで可笑しい。
「御主さま、あんまりこすらないでくださいよ。はげてしまいますよ」
「御利益がありそうでな、つい」
前にはコボシが乗っている。
うっとうしい、抱きつくなとどんなに虐げようと、ちまちまついてくるその姿は愛くるしい。
城で特定の小法師を従えることは禁じられているが、外ならば構わないだろう。そう思い申し願いをしたところ、侍女の代わりに連れていく許しを得た。
言うなれば、舎人のようなものだ。
この王国のこの時代、一寸変わった称が流行っていた。
「ああそうか、舎人が馬を牽かず乗っているから怒っているのだな」
「おいらは、舎人じゃありません。もっと役に立つものです」
「コボもそう、躍起になるな」
「コボシ、です!」
「ほうら、着いた」
川岸の枝に赤い手拭いが結ばれている。絡新婦の件を彷彿とさせるが、アレクと待ち合わせるために陰陽師が施した。
流れてくる手拭いがないか、ついつい川底を覗き込んでしまう。
「よいのか、愛馬が溺れているぞ」
聞き慣れた陰陽師の声が背中に響く。
「なんだって……!?」
顔を上げれば目の前でディーバが沈んでいく。この寸の間に何があったのか、瞬き一度でその美体は水のなか
今や前足の蹄がわずかに浮くだけだ。
「手伝え……!」
叫びながら飛び込んだ先で、アレクは意識を失った。
鳴き声ひとつ、いや水しぶきすら感じられなかった。




