姫巫女(三)
一寸先も見えぬ闇。
目を覚ましたアレクが唯一感じられるのは、手のひらから伝わるやわらかな感触だけだった。
辺りを警戒しながら身体を捩らせるが、痛みはない。
「落ち着け……、落ち着くんだ。すぐに慣れる」
はやまる鼓動を抑えるように、心に言い聞かせる。
暗闇は人を狂わせる。ダンジョンや洞穴で灯りを失い、経験している。仲間が居るならばともかく、ひとりではすぐにおかしくなってしまうことも知っている。
はぐれた部下は町へ戻ったあとも、子どもに戻ったままだ。
アレクはすぐさま立ち上がると、腰に手をやった。
「ああ、もう……!」
鞘に納まる剣はない。
足踏みすればドレスの裾が足にまとわりついてきた。
沓は脱げやすく、歩きづらい。
女とはいかに恐れ知らずかを思い知らされる。
「はやく、ここから抜け出さねば」
先ほどまで肌寒いほどであったのに、今は鍋で蒸されているように暑い。やわらかい床や壁から熱を発しはじめているようだ。
「はやく、ここからーー」
ーー出たところで、自分の居場所はないのに?
アレクは暗闇の中からはっきりと、グロリアの声を聞き取った。
目を背けたくなるほどの美しい顔が頭に浮かぶ。
「……くそ、もう表れたか」
暗闇への恐れがはやくも幻聴に変わったか。グロリアの声は耳元ではっきりと聞こえた。
ーーこのままじっとしていたほうが、楽に死ねるのに。
「確かに、そうだな」
奇跡的に出られたとして、果たして手を広げ迎えてくれる人間がいるだろうか。
グロリアの嘲笑が耳をつんざく。
「やめろ、聞きたくない」
いやだ。考えたくない。このまま目を瞑り、死の足音を聞いていたほうが、心穏やかでいられる。
誰にも知られず、遺体すらも拝まれることなく、安らかにーー。
「……なんだ?」
暗闇に屈服し、膝を折ろうとしたその時、首飾りの石が淡く光を灯した。
周りが見渡せるほどではない。
しかし自分を取り戻すには充分な明るさと、静けさを放っていた。まるで誰かに見透かされているような気がする。
感傷に浸る自分に恥ずかしさすら覚え始めた。
「ははっ、そうだ。この私がすぐに諦めるなんて、吐き気がするぞ」
グロリアの嘲笑はそこでぷつり、と途絶えた。
今は目前の国交のため戻るべきだろう。
それがどんなにささやかなものだろうと、ただの厄介払いであろうと関係ない。長年国に仕えたおのれの宿命をまっとうせねば。
待っているのがエドワルドかと思うとゾッとするが仕方ない。
愚直さこそが、アレクサンドラという人間そのものを表しているのだから。
「ふふ、可笑しなものだ」
ふっきれると、笑いが込み上げる。
それとともに頭のなかで、道のりがみえた気がした。
自分の指先がどこにあるかもわからない闇のなかだというのに、おかしな話だ。
ただその道のりはたいそう長い。
アレクは自分の手でドレスを引き裂くと、大股で歩を進めた。
どれほどの時が経っただろうか。
半日かもしれないし、丸一日かもしれない。
足の感覚はとうにない。
ドレスはすぐに破いたが、歩きづらい沓は脱がなかった。
ヒールはすぐに足を痛ませたが、それでも脱ぐなとおのれの本能に止められた。
おそらくこのやわらかな地は、素足では歩けない。
アレクは気づいていないが、沓のヒールはとっくに溶けて高さを失っていた。
荒い息遣いとぼたぼたと滴る汗が、身体の危険を訴える。
ここで歩みを止めれば二度と動けなくなるだろう。魔法石はまだ穏やかな光を湛えているが、いつまでもつかわからない。
またグロリアの嘲笑を聞くのは嫌だ。
しかしもう、喉の渇きに堪えられそうもない。
「ああ……、なにか飲みたい」
仕方なく、あの男に願ってみた。
「陰陽師。陰陽師さまよ」
憎たらしい顔がはっきりと頭に浮かぶが、願う際には屋敷を思い浮かべるものと聞く。
アレクは通い慣れたその屋敷を頭に描いた。
さて、その外観はどのようなものであったか。
気づけばいつも門のうち。
外へ意識を向けても、なにも思い出せない。
通い慣れた?
屋敷までの道のりをいつなんどき歩いたと言うのだ。
友だと思っていた男の、屋敷の方角すら知らないとは。
「はっ」
笑いたいが高い音を出せず、喉で詰まった。
「ああ……、願わくば」
酒を呑みたい。
囲炉裏の火を囲いながら、ぬるめの燗で。
アレクは一寸先も見えぬ闇のなか、その灯りを探した。
願いは叶った。
ほんの少しの風が肌を撫でたことで、外へ出られたのだと悟った。首を横へ倒せば、求めていた囲炉裏の灯り。
しかしまさか本当に、からからに乾いた喉にぬるめの燗を注がれるとは思はなんだ。口のなかに痛みが走り、悲鳴をあげた。
「ぎゃああ!」
「ほら、起きただろう」
「ひどい……! 御主さま! 御主さま!」
アレクが目を開けると、まばゆいばかりのつるつる頭、の下に泣きべそが映った。
「コボ……お前か」
「はい! あなたのコボシでございます。御主さま、よくぞご無事で……!」
アレクは心からほっとした。
待っていてくれるものが、ここに居たではないか。
囲炉裏の奥では陰陽師が炭を突きながら、「雄を屋敷にあげるのはいやだ……」などと、ぶつくさ言っている。
あまりにのどかな情景だ。
「私は、死んだのか」
「何を仰います、生きておりますよ……!」
「陰陽師が叶えるのは、死者の願いだけなのだろう。そう、言っていたではないか。私は確かに願ったぞ、酒が呑みたいと」
陰陽師がいつものように呆れる。
「なんと、死に際に酒を? 可笑しな奴だな、お前は」
そういえば可笑しい。
死者はとうに意識などないはずなのに、今まさに遠退いていくように感じる。
「ああ、酒を呑めたから、これから死ぬのかーー」
ばしゃり。
頭の上に水桶をひっくり返される。
「水だ、飲め。話はそれからだ」
「飲めるかーーーー!」
アレクは自分の怒号で意識を取り戻した。
アレクの回復力は並みではない。
湯呑み三杯の水を飲み干すと、何事もなかったかのように起き上がり、わらふだに落ち着いた。
闇のなかをずいぶんと歩いてきたのに、すぐに目が開けられたのは屋敷の暗さのおかげか。
また、夜目が効くようになったのか、今までみえなかった囲炉裏の奥が、不思議とみえるようになった。
囲炉裏の向こうには囲炉裏が、同じように並んでいる。ただ炭にくすぶる火が青い。
その火を、ふたりぶんの人影が囲っていた。
「あなたは……」
真向かいに座る老婆はうっすらと笑みを浮かべた。
いつだったろうか。何度か行き会っているように思う。
右手には、老婆と同じように腰を曲げた男が嗚咽とひとりごとを溢していた。
「一度腹に収めたものを出すとは、なんたる屈辱か」
老婆がよしよし、と皺だらけの手で背中をさする。
「まずは鍋であったまりなさい」
「まさか。こんな、人間の食すようなもの!」
男がそっぽを向く。
美味いのになぁ、とアレクは残念に思った。
手前の鍋から味噌と、かすかに獣臭がする。
鹿肉を食べないということは、男はやんごとなき地位のものかもしれない。
顔はよくみえないし、陰陽師と同じような白い着物を着ているが、こちらへ向けられた長い銀髪には艶がある。
しかしこの国で自分以外に銀髪の貴族がいただろうか、などとぼんやり眺めているうちに、陰陽師が男を説き伏せにかかった。
「おや、あなた様は人間の娘を丸のみできるほどの胃の腑をお持ちなのでしょう」
「この大陸で生まれた、それも純血の娘だけだ」
「鍋に入れた野菜も肉もすべて、この大陸で生まれたものですよ。さあ、どうぞ」
「むぅ」
鉢を差し出されると、否応にも味噌の香りが鼻をくすぐる。
腹ぺこの男は割りとあっさり受け取った。
「ほんとうに食べて大丈夫でしょうか」
男がそう尋ねたのは、老婆だ。
なんと老婆のほうが高位に立つのか。
アレクはまじまじと、老婆を見つめた。
魔女と言われれば、そうなのかもしれない。
老婆はしわがれた声で笑った。
「まさか水神よ、その図体で腹を壊したことがあるのか」
「ありませんが、しかし」
「まあ、喰え。喰えばわかる」
老婆に促され、汁を啜った男は以前のアレクのように目を瞠った。
「水神……?」
囲炉裏の向こうが不可解すぎて、なかなかアレクの箸が動かない。
陰陽師が友を気にかける。
「まる一日食べていないからな、お前は雑炊にするか」
「なあ。今、あの老婆は水神と言ったか」
「ああそうだ。お前を喰らった水神さまだ」
「喰らっ、た……!?」
「腹が減っていたらしい」
なるほど、鉢ではもどかしくなったのか囲炉裏の鍋を持ち上げ、かっこみ始めた。
「私はあのお方の腹のなかをさまよっていたのか」
「今日のお前は気味が悪いくらい、物分かりが良いな」
「道がそのようなやわらかさだった。それに、水神さまの身体はこの深淵の下に渦巻いているといわれている。そのくらいは歩いたぞ」
「馬鹿を言え。お前が歩いたのはほんの、食道あたりだ」
水神の身体は大陸に這うすべての水脈に収まっている。水脈は大地の迷路。
「よく迷わなかったな」
アレクは自分で自分に驚いた。
「そういえば、なんとなく道がわかった。お前のおかげか」
「お前の力だ。私は暗闇を照らしただけ」
水神の腹のなかまで陰陽師の力ーーいや、ウンディーネの力は届かない。今までのように屋敷へほい、と移動させることはできないのだ。
「私に、そんな力が」
「カワウソを従えるものには、千里眼の力が能えられる」
「カワウソ?」
「まだ言うなー!」
コボシが陰陽師の襟に噛み付く。
「このように、今はまだ幼いぶん、読めるのは道くらいだが、そのうち世界を見渡せるようになるだろう」
「コボが、カワウソ……そうか、カワウソか」
「御主さま、陰陽師の言葉に耳を傾けてはなりません」
「なぜだ。私はとても、嬉しいぞ」
アレクはまだドレスを身にまとっている気分なのか、王女らしくしなやかに、指を組んで喜んだ。
すっぽんのように襟から離れなかったコボシはだらしなく口を開けると、まんまる坊主を真っ赤にして奥に引っ込んだ。
「これが無意識なのだから、恐ろしい」
「そうだ、カムイは?」
陰陽師が溜め息をつく。
「やれやれ、お姫さまの育成好きは一生抜けそうにないな」
陰陽師は何もない庭を指差した。
土の上で黒いリボンのようなものが蠢いている。
「カムイ……? なぜそんな格好を」
「罰だ」
実のところアレクが力尽きようとしたとき、出口まであと少し、舌の上まで来ていた。
しかし、やはり惜しくなった水神はまた生唾と共に飲み込もうとした。カムイはそれを止めようと水神さまのみぞおちを、おのれの身体できつく縛ったのだった。
おかげでアレクはすぽん、と出てこられたが、激怒した水神はカムイを蝶々結びにして投げ飛ばした。
「なんて酷いことを……!」
「雄が蝶々結びにされるなど、とてつもない屈辱であろうが、命に別状はない」
「そうか。私のためにすまない」
しかし罰なら仕方ない。しばらくそうしておけと言われたので、アレクは鍋に意識を向けた。
腹が減ったのだ。
「なんてことだ」
囲炉裏の鍋が空っぽだ。
板間にはそこらじゅうに空の鉄鍋が転がっていた。
「水神さまがこれをぜんぶ、お食べに?」
「今は人に化けているが、本物の腹のは大陸ぶんあるからな。これでも足りるかどうか」
「大陸ぶんというなら、足りないだろう」
「いや……、これは、足りたぞ」
水神が最後の一杯の鉄鍋から顔をあげる。
「まさか、そんな。力が満ち足りていく」
「私が作ったんだ。当たり前じゃ」
老婆は水神の頭をお玉でぽこん、とはたいた。
「ウンディーネ様がお作りになられたのですか……! ありがたき幸せ」
「近寄るな、気持ち悪い」
ぽこぽこ、小気味いい音が鳴り響く。
アレクは独り言のように呟いた。
「ウンディーネ様だと? では、あの老婆は、彼女は水の精霊ーー」
「ご明察。四大精霊のひとり、水の精霊ウンディーネだ」
陰陽師が言う。
「今は腰の曲がった婆さまだがな」
「姫巫女の美貌はウンディーネ様から引き継がれると聞くが」
「お前に変な誤解をされては困るから、ここ数年あの姿にさせている」
「させている?」
気のせいか、お玉の音がどんどん大きくなっていく。
「いたい! いたい!」
「喰ったのならさっさと帰れ」
「そんな。ウンディーネ様もご一緒では。いたい!」
「私はこの屋敷に居る。腹が減っても生け贄なんぞを喰わず、ここへ来なさい」
「この屋敷に……? しかし」
「また美味いものを喰わせてやるから」
しっ、しっ、とお玉を振る。
水神は仕方なく重い腰を上げると、きちんと框から座敷を下りていった。
「それでは」
頭にいくつもたんこぶをこさえて。
「水神さまは礼儀正しい方なのだな」
「お前もちょっとは見習え。胡座が板につきすぎだ」
「今さら言われてもなぁ」
アレクがぎこちなく居住まいを正すと、膝元に茶碗がひとつ置かれた。
「御主さま、どうぞ」
水神に主人のぶんまで食べられないよう、コボシは奥に引っ込んで雑炊を仕込んでいたようだ。
茶碗のなかで味噌を吸った米が美味そうに光っている。
「しっかり食べておけ」
食べやすいよう、陰陽師が匙を渡してきた。それからにたりと、笑う。
「食べたら、城へ戻るぞ」
アレクは急に食欲が失せた。
陰陽師に訊きたいことがまだ山ほどあったのに。精霊のこと。水神さまのこと。なぜ自分が喰われたのか。酒を呑みながら、ゆっくりと。
またすぐに城へ戻るのかーー。
「はふ」
それでもひとくち食めば止まらず。
アレクは口から湯気を立てながら、あっという間に食べきった。




