19 視覚0、嗅覚3、聴覚5、痛覚10
「あぉうっ――」
殴られたのか突かれたのか、胸に衝撃を感じると同時に床に転がされる晃。
拘束中なので受け身が取れず、結構な勢いでコンクリの硬さを味わうハメに。
三箇所ぐらいぶつけたが、急展開すぎてどこが痛むのかよくわからない。
「くぁあっ! なっ、なっ!?」
何か被せられたらしく、ガサついた感触が頭を包んでいる。
混乱した晃が、疑問の声を発しながら身を起こそうとすると、また胸骨の辺りに打撃が追加された。
「ぅがっ!」
蹴られた――いや、踏みつけられたようだ。
無防備に寝かされた状態から脱しようと、晃は藻掻いてみる。
十秒ほどデタラメに暴れるが、重石となった誰かの足は動かない。
焦りが募ってきたところで、胸に感じていた圧力がフッと消えた。
次の瞬間、鳩尾に途轍もない痛みが弾け、思わず呼吸が止まる。
「――っ! ――――っ!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥でグルグル回る。
何だこれは、何をされた――刺されたのか、轢かれたのか。
交通事故に巻き込まれた時に経験した、苦痛と困惑で思考が果てしなく散らかる状態に似ている――そんな気がしながら、晃は胃の中身を吐き出した。
「ぶぉおぇっ、ぱぅ……」
生温くて苦酸っぱい汁は、不幸中の幸いで少量だ。
しかし、ただでさえ耐え難い息苦しさだったのが、袋が濡れたことで呼吸困難レベルに悪化する。
「ぶふーっ、ぐぶー……ぶじゅるるっ、びゅぷー」
汚い呼吸音と濃い刺激臭の不快さが、辛うじて晃の意識を居残らせる。
とにかく息をさせてくれ――という心の底からの祈りが届いたのか、袋がズラされ顔の下半分が外気に触れた。
「ぷぁっ! はぅー、ぱぁー、ふぃー……何を……何が……」
「まだ、お前の番じゃない」
呼吸を整えつつ曖昧な疑問をぶつけると、意外にも返事があった。
袋のせいで聞き取りづらいが、この軽い調子の声はおそらくあの大男だ。
お前の番じゃない、とはどういう――そもそも何の順番なのか。
その言葉の意味を推測しようとする晃だが、何をどう想像してもゴール地点では自分が死体になっている。
「あんたら……いっ、一体、何なんだ」
「…………」
「ひっ、人殺しは、シャレになって、ないっ……だろ」
「…………」
「俺もっ……俺らも、やんのか?」
物理的にも精神的にもギリギリで、窒息寸前に陥っている。
それでも晃は、気力を振り絞って質問を投げていく。
黙っていると、不安と恐怖でオカシくなりかねない。
しかし大男からの応答は、言葉でも暴力でも返ってこない。
話しかけ続けて、五分くらい経ったか、十分近くが過ぎたか。
姿は見えないが、筋肉の詰まった巨体が放つ存在感は間近にあった。
ついでに、腋臭とムスクが混ざったような、東南アジアのカレーっぽいニオイも漂っている。
晃の思い込みかもしれないが、溺れる小動物や手足のもげた昆虫を眺める子供に似た、残酷な興味を含んだ視線が注がれている気配が消えない。
晃が何を言っても何を訊こうと、相手はガン無視を貫いていた。
何か一つミスがあれば――いや、何もなくとも相手の気分次第で死んでしまう。
猛スピードで胃潰瘍が生産されるような、拷問めいた時間。
とはいえ、無言になると次の段階に進みそうなイヤな予感が。
だから晃は、異常な緊張感に苛まれつつ、ひたすらに会話を試みる。
「あのさぁ、あんたは――ほぅあっ!? おぉおおおおぉおおぉっ?」
何十回目かわからない質問の途中、晃は唐突に腕を掴まれ引きずられる。
粗大ゴミでももうちょい丁寧だろ、と抗議したくなる雑な扱いだ。
「うっ、ちょっ――どこへっ、いん――ごっ、ぽっ」
晃の言葉はシカトされ、頭が、肩が、背中が、手足が、尻が、腰が、何度も何度も床や壁にぶつかった。
高校生男子を片手で軽々運ぶとは、やっぱりコイツの怪力は普通じゃない。
連続する打撲の痛みに呻きつつ、晃は大男の危険性を再認識させられる。
しばらく苦痛を堪えていると、重い扉を開け閉めした感じの音がして、強制移動が終了。
「おぅおぅ!? ぐっ――あだっ! いっとぁ……」
短い浮遊感があって、直後に右の腰と側頭部に痛みが走る。
どうやら、ブン投げられて床に落下したようだ。
身を起こそうとする晃だが、頭がフラつくし体がまともに動かない。
両手が縛られたままだから、何をするにも自由が利かなかった。
苦心して上体を起こすと、背中に漬物石を投げられたような重い一撃が。
「ぶぇっ――」
無警戒な状態で蹴られたせいで、また息ができなくなった。
吹っ飛ばされなかったから、これでも手加減されているのだろう。
数秒間の悶絶が収まった後、肺がおかしくなって派手に咳込んでいると、大男は「フヒッ」と嬉しげな笑いを漏らして離れていく。
ここにいるのは、笑いながら暴力を振るい、その光景を楽しめる人間。
それを再認識した晃は、どうにか周囲の状況を把握しようと耳を欹てる。
「ううぅ、うぅ……」
男が呻いているような声がする。
慶太か、玲次か、他の誰かか――視界が塞がれているのがもどかしい。
「ひぃ、ひいっ――えぐっ、ひっ、ふぐっ――」
泣きすぎて、ワケがわからなくなっている女性。
佳織か、優希か、それ以外か――嗚咽だけだと誰かわからない。
ニオイで何かわからないか、辺りを嗅ぎ回ってみる。
血とゲロと小便と、何だかわからない油っぽいもの。
これらは、自分のものも混ざっているかも。
無理矢理に頭を回転させている内に、晃は多少の冷静さを取り戻す。
体のアチコチが訴える痛みが邪魔するが、一応は思考できそうだ。
静かに深呼吸を繰り返し、変化が起こるのをひたすら待つ。
大きな物音も生じず、会話もなかった。
呻き声と鳴き声と溜息と――もう一つ、妙な音があるのに気付く。
「ふっ、ふっ、んっ、ふっ、ふっ、ふんっ、ふっ、くっ、ふっ、ふっ」
一定のリズムで繰り返される、短い呼吸音。
筋トレやランニングの最中に、自然と漏れる息に似ている。
しばらくその音を追っていると、リズムが乱れてきた。
「おぅっ、ふんっ、ふっ――ふっ、うっ、ふっふっ、ふっは、ふっふ」
小さい手拍子みたいなものと、猫が水を飲むような音が混ざった。
それらを総合すれば、何が行われているのかの想像はつく。
「ふっ、んっ、おぉふっ……うっ!」
男の低い唸り声に続いて、何かがドサッと床に投げ出される。
しばらくすると、甘ったるさが鼻につく刺激臭が漂ってきた。
サトウキビを焚き火に放り込んだような、独特のニオイ。
晃の嫌いな煙草だ――香りも好きになれないのだが、それ以上に愛好する連中に共通するしゃらくささが気に入らない。
完全に偏見だと自覚している晃だが、これまでの経験が苦手意識を強固にしていた。
慶太の元同級生だった、無駄に斜に構えて映画や漫画を分析し――といっても元ネタはネットだろうが、それを得意げに語るサブカル糞野郎。
中学時代ちょっと好きだった先輩から彼氏として紹介された、チャラくて口の悪いけど妙に金持ってるキノコ頭。
そんな面々を思い出していると、不意に頭に被せられた袋を脱がされる――




