第三十二話 触れてみないとわからないから
「ん……」
ゆっくり瞼を持ち上げると、見慣れた天井がぼんやりと視界に広がった。
布団の温もりがじんわりと身体に伝わってきて、ここが自分の部屋だと徐々に感じ始める。
「……マナ⁉︎」
横から名を呼ばれ、まだ意識が朦朧としたまま視線だけそちらに向けた。
「……伯母さん」
「よかった……! 気がついたのね!」
伯母は涙を浮かべているが、瞳の奥には安堵の色が見える。
その顔を見た途端、頭が急激に冴え渡り、これまでの出来事が鮮明によみがえってきた。
「……そうだ! 私、アルトを助けようとして崖から……!」
勢いよく上半身を起こし、両手で自分の身体を確かめる。
だが、痛みも怪我の痕もどこにも見当たらない。
何が起きたのか不思議に思っていると、伯母は軽く涙を拭いながら口を開いた。
「レイさんが、あなたとアルトくんを助けてくれたのよ」
「……レイが?」
伯母の背後にある影に目線を向ける。
そこには本棚にもたれ、腕を組んだまま俯ているレイの姿があった。
一度もこちらを見ようとせず、彼の表情は読み取れない。
「アルトくんから大体の事情は聞いたわ。崖から落ちたって聞いた時は心臓が縮まる思いだったけれど……さすがマナの騎士ね。怪我ひとつないんだもの」
伯母の声には、レイへの感謝も込められているようだった。
「じゃあ、アルトも無事なんだね」
胸を撫でおろし、改めて伯母の顔を見つめると、すぐに微笑んで頷いてくれた。
「擦り傷はあるみたいだけど、元気そうだったわ。今頃、リラさんにこっぴどく怒られているんじゃないかしら」
その一言に張り詰めていた緊張が和らいだ。
リラに怒られているアルトの姿が頭に浮かび、自然と頬が緩む。
──よかった、アルトも無事で。
胸に安心感が広がっていく。
そして、ふと罪悪感が湧き上がってきた。
約束を破ったことと、皆を心配させたことが、急に重くのしかかってきたのだ。
「伯母さん……心配かけてごめんなさい。麓までって約束だったのに……」
マナは視線を落とし、口元を引き締める。
クロエは少し考えるようにして彼女の手を取った。
「そうね。怒りたかった気持ちもあるけれど、アルトくんを助けるために一生懸命だったと思うと、なかなか怒れるものでもなくてね」
小さく息を吐いて苦笑いをするも、その顔には姪を大切に想う気持ちが強く現れている。
「でも、もうこんな心配かけさせないで。じゃないと、私の心臓がもたないから」
目尻にシワを寄せて笑っている伯母からは、怒りなど微塵も感じられなかった。
むしろ、深い愛情が込められていてる。
マナはそれをしっかりと感じ取ることができた。
「うん。ありがとう」
その一言が口をついて出た瞬間、自然と目から涙が溢れた。そしてそれは、驚くほどに止まらない。
泣くというよりは、ただ涙がこぼれ続けているだけのようだった。
「あれっ……どうして……」
マナは慌てて涙を拭う。
「きっと疲れているのよ。待ってて、紅茶を淹れてくるから」
クロエは優しくマナの頭を撫で、笑顔を浮かべながらリビングへと向かった。
部屋から出た伯母を見送ったマナの視線は、自ずと佇んでいるレイへと移る。
「……レイも、ごめんね」
謝ってみたものの、彼は微動だにしない。まるで声が届いていないかのようだった。
何も言わないその姿は、どこか突き放されたようにも感じられる。
部屋にじわじわと気まずさが広がる中、マナはレイの態度の理由を探るように考え、そして口を開いた。
「……怒ってる?」
涙を堪え、おずおずと上目をつかいながら問いかける。
すると、いつも以上に鋭い彼の視線がこちらに向けられ、息が詰まるような感覚に襲われた。
レイはしばらく黙っていたが、やがて大きなため息をつき、ふいと視線を逸らす。
「お前の阿呆さ加減には、ほとほと呆れるばかりだ。考えなしに行動して、どれだけ人に迷惑をかければ気が済むんだ」
彼の冷たい言葉が耳に突き刺さり、肩を縮める。
「そうだよね……。本当にごめんなさい」
ぽつりと謝罪の言葉を漏らしながら、布団をぎゅっと握り締めた。
申し訳なさで視線を落としつつも、その心の内には確かな感謝の気持ちがある。
だからこそ、次の言葉はしっかりと顔を上げて言った。
「でも、助けてくれてありがとう。私、レイに助けられてばっかりだね」
すると、レイは深く息を吐いて身体の向きを変えた。
彼の眉間がわずかに緩んでいるのが目に入る。
「お前は俺の主だ。勝手に死なれたら、俺が困る」
レイの視線は鋭いままだが、あまり冷たさは感じられない。
むしろ青い瞳の奥には、微かな温もりが宿っているように見えた。
「だから、もう無茶はするな」
無愛想に言った短い言葉の中に、彼なりの優しさが隠れているようだった。
そっけない態度の裏でどれだけ心配してくれていたのかが、ようやくわかった気がする。
「……うん。ごめんね、ありがとう」
胸にたまっていた不安や恐怖が、少しずつほぐれていく。
「……あのね。本当は、怖くて……」
口を開いた途端、また涙が溢れてきた。
「目の前が真っ白で……。アルトの姿も、何も見えなかったの。風の音しか聞こえなくて、何も掴めなくて、どこまで落ちるのかもわからない……。私、もう死んじゃうんじゃないかって……」
絞り出すように言った最後の言葉は、まるで喉に何かが詰まったように上手く口にできなかった。
マナは両手で顔を覆う。
先ほど伯母の前で見せた涙は無意識に溢れてきた涙で、自分が泣いていることにすら気づかないような、ただ流れ出たもの。
けれど今。
彼の前で流している涙は、確かに泣いていると自覚できるものだった。
堰を切ったように泣き出し、嗚咽が止まらないマナを前にしたレイは、その場に立ち尽くしていた。
これほどまでに弱さをさらけ出した彼女の姿を目にするのは、これが初めてだったからだ。
小さな身体に秘めている強い意志や気高さ、気丈に振る舞う姿勢を、今は感じられない。
ただの、か弱い少女そのもの。
──俺は、どうしたらいい?
女の泣く姿など、幾度となく見てきた。
だが、それらはすべて他人事に過ぎなかった。
怒り、悲しみ、痛み。
その涙は、ときには愉快にさえ思った。
しかし目の前で泣いている彼女は、それとはまるで違う。
気づいたら、そばまで近づいていた。
泣き続ける彼女に、レイは手を伸ばす。
迷いのある仕草だったが、それでもそっとマナの肩に触れた。
細い肩が小刻みに震えている。
指先から伝わってくる震えは、自分の胸にまで広がるようだった。
「泣きすぎだ。……落ち着け」
抑えた声で告げると、彼女はたどたどしく顔から両手を離し、涙で濡れた瞳をこちらに向けた。
茶色い瞳は少し驚いたように揺れている。
「レイ……」
呟いたような声にいつもの覇気を感じられなかったが、それでもどこか穏やかな響きがあった。
「……ここ、座って」
儚げな微笑みを浮かべたマナがベッドの端を軽く指で触れ、促すように言う。
レイは何の迷いもなく従った。
腰を下ろすとき、心の中で何も考えていない自分に気づく。
なぜだろうか。ただ自然と、動かずにはいられなかった。
「怪我までさせて、ごめんね」
マナはレイの左頬を包み込む。
彼女の手のひらが優しく触れた瞬間、心が少しだけ軽くなるような感覚がした。
じんわりとした温かさが頬を伝い、次第に傷が癒えていくのを感じる。
彼女は岩の破片で切った左頬に治癒魔法をかけていた。
悪魔の治療をするなんて、普通の人間ならば考えもしない。
だがマナにとって、それは当たり前のことだった。
彼女はどんな時でも他者のために行動する。
自分のことは二の次にして、ただひたすらに。
きっと今も、この瞬間だけは、自分が命の危機に瀕していたことも忘れているのだろう。
「もう治ったみたい」
マナが頬から手を離そうとするよりも前に、レイは小さな手のひらをすくい取った。
彼女の柔らかな手が、確かに自分の手の中にある。
この先も、この小さな手で多くの人を助けていくのだろうか。
そんな考えが頭をよぎる中、無意識のうちに彼女の手の甲に口づけを落としていた。
「……レイ⁉︎」
マナの驚いた声が耳に届いた瞬間、我に返った。
そして自分が何をしたのかを理解する。
慌てて手を離すも、マナは目を見開き少し困惑した様子でじっとこちらを見つめていた。
頬に涙の跡を残した彼女の顔が、ほんのりと赤く染まっている。
「あ、もしかして生気がほしかったとか……? 無事に帰ってきたらって約束だったもんね、驚いてごめん」
どこか申し訳なさそうにしながら、彼女はうっすらと笑う。
マナの笑顔が妙に弱々しく見えたレイは、わずかに眉をひそめた。
「……さっきから謝りすぎだ。それに、今のお前から生気をもらったって、美味くないに決まっている」
言い放つように、口をついて出ただけの言葉だった。
だが、その言葉を受けたマナの表情がふっと和らいだのを見て、ほんの少し戸惑いを覚えた。
彼女の力んでいた肩が落ち、何故か満ち足りたような笑みを浮かべているからだ。
──俺は、どうしたいんだ?
マナの何気ない仕草一つひとつに、レイの心は揺さぶられていた。
理由もわからず心がざわつき、言葉にできない違和感が胸を締め付ける。
何かが変わっていくような気がして、どうしていいかもわからない。
その感情を振り払うかのように、レイは言葉を絞り出した。
「だから、もう少し寝ていろ」
「……え?」
マナが大きくまばたきをしたと同時に、彼女の目の前で指先を軽く動かした。
催眠魔術の淡い光が目元を包み、徐々に瞼が閉じられていく。
「……レイ……ありがとう」
意識が薄れていく中で微かに呟いたマナの一言に、一瞬だが、また胸の奥がざわめいた。
レイは眠りに落ちた彼女を腕に抱え、丁寧にベッドに横たえる。
目を閉じたマナの顔は、安らぎに満ちていた。
気絶していた時の暗い表情とは違い、まるで夢の中で幸福を感じているかのようだ。
呑気さえ感じられる寝顔を見つめるうちに、ひとつの思いが込み上げてきた。
「……お前は、笑っているほうがいい」
ぼそりと呟き、彼女の顔にかかった髪を指先で払いのける。
そして導かれるように、額に唇を寄せた。
もう一度寝顔を見つめた時、静寂を破るように控えめなノック音が聞こえてきた。
「お待たせ、マナ。紅茶を淹れてきたわ。レイさんも一緒に……」
クロエはにこやかにドアを開け、部屋へと足を踏み入れる。
「……あら? レイさん?」
左右に部屋を見渡すが、レイの姿はすでにどこにも見当たらない。
クロエは少し首をかしげ、寝ているマナに視線を向けた。
彼女の寝顔を見たクロエの表情には、実の母親のような温かさが溢れている。
「マナったら、どんな夢を見ているのかしら」
マナの寝顔を見守り、ふふっと微笑む。
「きっと、幸せな夢を見ているんでしょうね」
音を立てないように、クロエはゆっくりとドアを閉めた。
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【お知らせ】
第21話〜第27話まで改稿しました
内容に変更はなく、二人のじれキュン濃度を増した程度です
余程がない限り、改稿はもうないと思います
よろしくお願いいたします




