第三十一話 雲散霧消の果て
吹き荒れる風と先が見えない重い霧の中を、レイは宙を舞うよう自在に駆け落ちる。
同時に、崖下へと消えたマナの気配を探った。
──あれか。
すぐに意識を失った彼女が無抵抗に落ちていく様が眼下に映る。
──助けに向かった奴が気を失ってどうする。
苛立つような感情が、じわりと湧いた。
マナへと向けて速度を上げた刹那、先に崩れ落ちていた岩の破片が、突風に煽られて跳ね上がってきた。
破片は左頬を切り裂くように掠め、その傷口からは生暖かいものが伝う。
普段なら容易に回避できたはず。
それなのに。
落ちていく彼女の姿に意識を奪われ、ほんの一瞬、反応が遅れたせいだ。
──焦っている? まさか、俺が?
レイは奥歯を噛みしめる。
そんなはずはない。
無理やり理由を探し、出した答えは一つ。
──心臓が惜しい。それだけだ。
舌打ちとともにさらに速度を上げたレイは、瞬時に落下するマナの身体へと追いついた。
空を切るように指先を軽く動かす。
すると霧の中に魔力の波紋が静かに広がり、淡い光がマナの身体を優しく包み込んだ。
その光は彼女の身体をふんわりと浮かび上がらせ、落下速度を徐々に緩めていく。
レイはその小柄な身体を腕に抱き止める。
無防備に、まるで眠っているかのようなマナの顔を見て、不思議と胸の中が落ち着きを取り戻した。
──まったく。実に面倒な主だ。
内心で悪態をつきながらも、その表情には安堵の色が浮かんでいる。
だがレイはそれを自覚するよりも前に、視線を霧の中へと向け直した。
──無事に帰す、という約束だからな。
短くため息をついて、先に落ちていった男の気配を追う。
視界の隅にアルトの影を捉えるも、マナと同じように気絶しており、その姿は霧の奥深くへと引きずり込まれるように小さくなっていく。
「せいぜい、小娘に感謝するんだな」
冷笑したレイは再び指先を動かし、アルトを包み込む魔術を展開する。
その力に守られた彼の身体は、浮遊するかのようにゆっくりと下降を始めた。
………………
………
…
レイは軽やかに山の麓へと降り立つ。
山頂のような風も霧もなく、田舎ののどかで爽やかな空気が漂っていた。
鳥のさえずりが響き渡り、木漏れ日が柔らかく地面を照らす。
マナを抱きかかえたまま、レイはアルトを木の幹にもたれかけるように地面に下ろし、魔術を解いた。
日の光に当てられたアルトは、少しずつ意識を取り戻し始めた。
閉じていた瞼に揺らめく光が差し込み、鮮やかな緑がぼんやりと見えてくる。
「……あれ、崖から落ちて、それから……」
朧げな記憶を辿るように呟き、アルトは薄く目を開けた。
身体が重く、節々が軋むように痛む。
そして地面から伝わる草の感触に、意識が次第にはっきりしてきた。
──そうだ……!
アルトは何かを思い出したかのように上半身を起こし、焦った声を上げる。
「透幻華は……⁉︎」
慌てて周囲を見回すも、そこにあるのは穏やかな山麓の風景。
──嘘だろ……?
あれほど必死に命懸けで挑んだはずなのに、手に入れたものは何もない。
絶望にも似た感情を抱いた。
そして、長髪の男が無言で歩き去っていく後ろ姿が視界に入る。
「……待て!」
アルトの張り上げた声に足を止めたレイは、気だるげに振り返った。
男の腕の中で眠っているマナを見て、焦燥がまた一気に込み上げる。
「マナに……何した⁉︎」
なんとかして重い身体を立ち上がらせた。
擦り傷が至ることろにあり、動くたびに刺すような痛みが走る。
アルトの問いに、レイはほとほと面倒くさそうにして口を開いた。
「お前を助けるために崖下に飛び込んだ。それで、気絶した。後は自分で考えろ」
それだけ言って、レイはまた前を向き歩き出す。
──マナが……崖下に……?
無愛想な声色に不快感を覚えつつも状況を整理し、そしてすぐに目の前の男が助けてくれたのだと理解した。
──マナを助けたのも、きっとこの男だ……。
その事実を受け入れた瞬間、湧き上がってきた感情は悔しさではなく、やるせなさだった。
──心配かけて、無茶させて……。俺は、まだまだだな。
無様な自分の姿が滑稽に思えて仕方がない。
母の忠告を聞かず山に登ったのも、結局は「あの男を見返してやりたい」「あいつより自分の方がすごいとマナに認めてもらいたい」という独りよがりな思いにすぎなかった。
そんな傲慢な気持ちで、レイと肩を並べられるわけがない。
マナにだって追いつけるはずもない。
二人を言い訳に使っていただけだった。
「いてて……」
無駄な力が抜けた途端、身体中の疲労と傷がじわじわと痛みを訴えてきた。
思わず中腰になり、身体をさすりながら苦笑いを浮かべる。
それでも心中は不思議とすっきりしていた。
今いる場所のように安らぎがあって、どこか吹っ切れたような感覚だ。
「……あーあ、母さんに怒られるだろうなあ」
ふうと大きく息を吐いたアルトは空を見上げ、微かに笑う。
澄み切った青空には、一筋の雲が風に流れていた。




