第三十話 霧の先で見たもの
朝の冷たさと木々の隙間から差し込む光でアルトはふと目を覚ます。
昨日の疲労がまだ全身に残っていた。
それでも昨晩の暗闇と違って、今は朝焼けに染まった空が広がっている。
その明るさが、どこか心を軽くしてくれるような気がした。
「よし、行くか……」
小さく息を吐き、眠気を振り払うように立ち上がる。
空は晴れているが、濃い霧が山を包み込んでいる光景は変わらない。
──山頂まであと少しだ。
そう自分に言い聞かせながら、昨日と同じように左の手のひらに水を集め、重い足を前に進めていく。
霧が一層濃くなり、冷たい風は肌を刺すようになってきた。
標高が上がっているとはっきりと感じられたが、夏とは思えない冷え込んだ空気に思わず身震いをしてしまう。
──くそっ、風まで強くなってきた。
短く息を吐き、空いている右手を横に振った。
吹き荒れる風を相殺しようと風魔法を放ったものの、その勢いをわずかに削ぐ程度だった。
それでも進めないほどではない。
風を押し返しつつ、水魔法も駆使しながら慎重に歩みを進める。
昨日の倍の速さで疲労が溜まっていくのを感じたが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
──ここまで来たんだ……絶対に、たどり着く!
重い足を引きずるように一歩、また一歩と岩場を登り続ける。
そして、霧の向こうから微かな光が差し込んでいるのに気づく。
それは山頂への希望を象徴するかのような微かな輝き。
──やった……! ついに……!
幾度となく足を滑らせながらも、ついに山頂へと辿り着いた。
風は穏やかで、霧もそれほど濃くはない。
険しい道のりからは考えられないほど静かな場所は、どこか神秘的な気配が漂っている。
そんな中、目の前に広がる光景に思わず息を呑む。
霧が風に流されわずかに開けた空間の先には、小さな花畑が広がっていた。
無数の真白な花が地面を覆い尽くすように咲き誇り、どれも透き通るような花弁を持っている。
朝の光を受けて、淡い輝きを放っているようだ。
──これが……透幻華。
疲労も痛みも忘れてその美しさに見入る。
震える手を伸ばし、そっと花に触れようとした瞬間。
「アルト!」
背後から名を呼ばれ、反射的に振り返る。
──マナ……⁉︎
驚きのあまり、瞬時に声が出なかった。
言葉が喉に引っかかったような感覚だ。
マナはどこか安堵の表情を浮かべて、こちらを真っ直ぐ見つめている。
その隣では、眉をわずかに下げたあの男が退屈そうに視線を彷徨わせていた。
二人の周囲には霧や風を弾く透明な結界が張られているようだった。
まるでそこだけ晴れ渡っているかのように、二人の姿が際立って見える。
その結界がマナの力ではないことは一目でわかった。
隣にいる男が放っているものだ。
──俺は、あんなに苦労してここまで登ってきたのに……。
足を引きずり満身創痍の体で必死に魔法を使って、山の環境に耐えながら山頂に来た。
それなのに、あの男はこんなにも涼しい顔をして余裕を見せている。
──まただ。
胸を焼かれるような悔しさが襲ってくる。
「どうしてこんな場所に⁉︎」
そう声を荒げたのはマナの方だった。
先程の安堵した表情から一変して、強張った顔をしている。
怒っているのかもしれない。
「……お前には関係ない」
つい吐き捨てるように言ってしまう。
透幻華を求めて、なんて素直に打ち明けられるはずがなかった。
「関係ないわけない!」
マナはさらに声を荒げる。
「みんなアルトが帰ってこないって心配してるよ! 私だって……すごく心配したんだから!」
彼女の声はわずかに震えていて、茶色い瞳は潤んでいるようにも見えた。
その必死な様子を目の当たりにし、胸が締め付けられるような気持ちになる。
自分がどれだけ周囲に心配をかけてしまったのか、マナの言葉が嫌でも実感させた。
しかし、それでも言葉にできない想いがアルトの喉を塞ぐ。
「理由は帰ってから聞くから! だから、早く一緒に帰ろう!」
「……一緒には帰らない。一人で帰る」
「何言ってるの⁉︎ どう見てもヘトヘトじゃない! 置いて帰れるわけないよ! レイの力を借りれば、すぐに帰れるから!」
その言葉に胸がちくりと痛んだ。
マナがどれだけあの男を信頼しているのか、それがはっきりと伝わってくる。
──あいつの力に頼るくらいなら、ここで倒れた方がマシだ。
奥歯を噛み締め、声を荒げないように努めながら低く答えた。
「だから……先に帰っていい。俺は、一人でも帰ってみせる」
「ダメ! 一緒に帰るの!」
平行線を辿るような言い合いを、レイはマナの後ろから眺めていた。
アルトの強情さと、マナの必死な説得。
どちらも感情がむき出しで、まともな会話だとは到底思えない。
──まるで子供の喧嘩だな。
小さくため息をつき、視線をわずかに逸らす。
霧の中で響く二人の声がやけに耳障りだった。
「阿保に付き合っていられるほど暇ではない。早く戻るぞ」
目的はただ一つ、この二人を麓まで連れ戻すことだけ。
早く生気をもらえれば、それでいい。
それ以外には、もう何の興味も湧かなかった。
レイの冷めた口調が耳に届くやいなや、アルトは眉間をきつく寄せ、抑えきれない苛立ちを露わにした。
その手は無意識に強く握り締められ、敵意とも取れる眼差しがレイに向けられている。
「俺は! こいつの力なんか借りなくても……!」
アルトがこちらから距離を取るように一歩後ろへ足を伸ばしたと同時に、足元の岩が不吉な音を立てながら崩れ出した。
そのまま崖下に引きずり込まれるようにアルトの体が傾き、目を見開いたままの彼の姿が霧に紛れながら消えていく。
それは一瞬の出来事だった。
だが、レイは微動だにしない。
──自業自得だな。
冷めた視線のまま特別な感情を抱くでもなく、その光景をただ眺めている。
だが次の瞬間、彼の顔がわずかに揺らぐ。
「アルト‼︎」
マナが叫びながら霧の中へと飛び出し、なんの躊躇もなく崖下へと飛び込んだのだ。
──あの阿呆が……!
そう思うよりも先に、身体が勝手にマナたちが消えた方へと動いていた。
お読みいただきありがとうございます
タイトルに『続』とついている話は次回更新時に結合します(話数が増えてしまうので)
よろしくお願いします




