第二十二話 変わらないもの
声を張り上げたあと、レイは満足げな笑みを浮かべながら、ひらりと空へ舞い上がった。
──次やったら説教してやるんだから!
頬を赤く染めたまま、マナは地を叩きつけるような足取りで、実家までのわずかな小道を登っていく。
ふと、もしかしたらさっきのは自分を一人にするための口実だったのではないかという考えがよぎった。
なんとも強引な、レイなりの思いやり。
──って、それはないか。生気のことしか考えてないような悪魔だもん。
苦笑いをしながら歩みを進めると、目の前にはいつも帰っていた家が佇んでいた。
玄関の前で立ち止まったマナだったが、そわそわと落ち着きがない。
扉を叩くのは半年ぶり。これほど長く家を離れたのは初めてだった。
普段なら何気なく開けていたはずの玄関が、よそよそしく感じてしまう。
マナは一度息を整えてから扉を叩き、躊躇うようにドアノブに手をかけた。
「ただいま……」
そっと扉を開け、ゆっくりと半身を家の中へと滑らせる。
少し古びた木の香りと、美味しそうな料理の匂いが漂う家の中。
野菜とハーブに溶け込んだ肉の香りが、またマナの腹を鳴らす。
──懐かしい……。
本当に帰ってきたのだと、自分の家が急に尊いものに思えた。
奥の方から近づく足音が、玄関に立つマナのすぐそばでぴたりと止まる。
一瞬の静寂。
そしてすぐに、聞き慣れた声が響いた。
「……マナ⁉︎」
「クロエ伯母さん!」
久々に見た伯母の姿に目頭が熱くなった。
白髪混じりの黒鳶色の髪を、首の後ろでゆるく束ねている。
それは伯母が家事をするときの髪型だった。
完成間近の風味豊かな料理の匂いからするに、キッチンから駆けつけてきたんだろう。
クロエはエプロンで拭いていた手を止め、心配そうにマナに近寄った。
「どうしたの? 急に帰ってくるなんて、何かあった?」
突然の帰宅に驚いてはいたものの、それを咎めたり非難したりはしない。
伯母の昔から変わっていない暖かくて優しい包容力に、マナはついに涙を流してしまう。
何かがいろいろありすぎて、話したいことが山ほどある。
でもそれよりももっと、今、言いたい言葉。
「……伯母さん! ただいま!」
思いきり駆け出して伯母の胸へと飛び込む。
伯母はそっと抱きしめて、「おかえり」と微笑んだ。
…………
………
…
夕食をすませて片付けまでのひと段落を終え、マナとクロエは向かい合いながらテーブルについた。
伯母が淹れてくれたハーブティーを片手に、マナはこれまでのことを、くだけた表情で軽快に話し始める。
伯母はうんうんと相槌を打ちながら話を聞いていた。
聞き上手な伯母の相槌は、話者の話術が長けていると錯覚してしまうほど絶妙である。
それはとても心地よく、話が止まらなくなってしまうほどのものだった。
「でね、形見のブルーダイヤモンドのこととかが書いてある書物がないかなって。それを調べに帰ってきたの」
「そうだったの。大変だったのね。でも、魔女を倒しただなんて、本当にすごいわ」
「倒したのは……正確には私じゃないんだけどね」
マナは頬を掻いて、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「でも、みんなを助けたのは事実なんでしょう。とても成長したのね。ドロシアも天国で喜んでいると思うわ」
伯母が言った「成長」は、きっと身体のことではない。
もう十五歳、半年そこらで身体が変化する歳でもないのだ。
成長したのは、心と聖女としての力。
レイと契約して、魔女の残痕を浄化して、妖精たちに会って。
ルインリース村にいたままでは、決して得ることがなかった経験だった。
──またレイのこと言いそびれちゃったな。明日はなんとか誤魔化して紹介しよう。
王宮でフェアラートに説明した時と同様、悪魔を召喚して契約まで交わしたなんて口が裂けても言えなかった。
大聖女だった妹を持つ伯母だ。
その子供が悪魔を連れているなんて知ったら、腰を抜かしてしまうかもしれない。
──レイが悪魔じゃなかったら……。
そう思った瞬間、はたと思考が止まった。
悪魔でなければ──、その続きはなんなのだろう。
しかし、あの人間離れした力があったから困難を乗り越えることができたのだ。
彼が悪魔じゃなかったら、今頃この国はリリィに乗っ取られていたかもしれない。
だから、今はそれでよかったと思うことにした。
気がつけば茜色だった空も暗くなっていて、すでに蝉の音も聞こえなくなっていた。
代わりに聞こえてくるのは夜の虫たちの合唱。
実家を出てから王宮を出発するまでのくだりだけで、もう四時間は話している。
就寝時間が近づいていた伯母も、シワのある手を口元に当て、隠すように欠伸をしていた。
この後にレティシアたちとの出会いが待っているのだが、それまで話しを始めたら朝を迎えてしまいそうだ。
「ずっと聞いててくれてありがとう。あとね、明日紹介したい人がいるんだけど、いいかな?」
マナが区切りをつけて明日の話題を持ち出したのは、眠そうな伯母を気遣うというよりも、自分自身もすでに瞼が重くなっていくのを数回ほど感じていたからだった。
「ええ、もちろんよ。マナのボーイフレンド?」
朗らかに笑う伯母に、「そんなのじゃないよ」と勢いよく手を振って否定する。
おやすみと挨拶をし、先に伯母が階段を登り寝室へと向かった。
──ボーイフレンドだなんて、とんでもない!
首を軽く振りリビングに残ったティーカップを片付け始めるも、心中は妙に落ち着かなかった。
片付けが終わり、マナも寝室へと向かう。
二十段ほどの階段は、一歩足を乗せる度にみしみしと軋む音がする。
家の隅にこじんまりとある階段は、王宮の無駄に広くて煌びやかで立派な階段とは雲泥の差だ。
音を立てないよう、ゆっくりと階段に足を乗せ、一段また一段と上へ登る。
それは寝ている伯母を起こさないようにする、懐かしい足運びだった。
階段を上りきると、正面左側に濃い木目のドアがすぐに目に入る。伯母の部屋だ。
一切の物音が聞こえないので、もう就寝しているのだろう。
そしてその奥には細く短い廊下が続き、その突き当たり、今度は右側に同じドアが付けられたもう一つの部屋がある。
そこがマナの部屋。
もともとは母の部屋だったのだが、マナが七歳になった時に「もう一人で寝れる」と伯母のベッドから離れ、そのままそこが自室となった。
家の玄関を開けた時のように、少し緊張しながらドアを押し開けた。
開けてすぐ左側の壁には沿うようにベッドが一つ。
右側も壁に沿うように机が置かれ、その隣には机と同じ大きさの本棚、そして古びたクローゼットがそれぞれ隙間なく配置されている。
家具は木造の家に合わせるかのように茶色で統一されており、部屋の中央にある窓にかけられたカーテンさえもベージュ色。
無駄な配色がない分、寝具の白色が一際目立つ部屋だ。
──全然埃がない。
机に鞄を置き、隅々まで見回す。
半年も部屋を空けていれば足跡が付くくらい埃が溜まっていてもおかしくない。
それがないのは、クロエが毎日掃除をしていてくれたからなんだろう。
マナは本棚に手をかけた。
書物の厚みや高さはばらばらになってるが、母の日記や雑記をはじめ、薬草の図鑑や癒しの魔法、それに火・水・風・土の四大元素魔法についての本など、それぞれが種類ごとにまとめて並べられている。
母が残していった書物はざっと二百冊。
マナはかざした手の上に額を乗せ、母の面影を感じ取るように目を閉じた。
──もう一回ちゃんと探せば、あの形見について何か書いてある本が見つかるはず。
絶対に見つけてみせると希望に満ちた目をしたマナはゆっくりと手を下ろし、ベッドに寝転んだ。
王宮の身体を包み込むようなふかふかのベッドも素晴らしかったが、狭くて背中を支えるような少し硬めのベッドは身体に馴染んでいて、それが心地よかった。
レティシアたちと出会い、空を飛んでここに来た。
夢でだって見れない出来事かもしれない。
今日一日を振り返っていたマナの意識は、自然と眠りの淵へと落ちていった。
空気の澄んだ月明かりの下、レイは屋根の上で片膝を立て座っていた。
密かにマナとクロエの会話を聞いていたレイは、小さなため息をつく。
──紹介とは、また面倒なことを。
あの小娘のことだ。行かないと言えば、また「命令」などと言うに決まっている。
そんなくだらない命令をされるくらいなら、はなから付いていったほうがマシだ。
空を見上げ、またため息をついた。
月の光が、地上を優しくほのかに照らしている夜だった。




