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彼女が我が家にやって来た

 その週末、パソコンに向かって作業をしていると来訪を伝えるチャイムが鳴った。今日は家に妹も母さんもいるので対応は任せて作業を続けると、妹の萌絵もえがドタドタと行儀の悪い足音を立てながら玄関に向かう音が聞こえた。

 世の中には香寺さんのようなお淑やかで上品な女の子もいるのに、どうしてこうも違うものなのだろう?


 足音を立ててややあってから、「えーっ!?」という悲鳴に近い妹の声が聞こえた。


「もうっ……」


 せっかくいいフレーズが浮かびかけていたのに、その声で消えてしまい舌打ちをしてしまう。


「おかーさんっ! 大変ッ!」


 妹がご近所さんに響き渡るほどのデカい声で騒いでいるのを聞いて、さすがに何かあったのかと立ち上がる。


「お兄ちゃんの彼女が来たっ!」


「えっ……?」


 さーっと血の気が引き、慌ててドアを開けて階段を駆け下りると、瑠奈さんが澄ました顔で玄関に立っていた。僕の顔を見ると「よっ!」と言って手を小さく胸元まで上げる。


「まあまあ。高矢の彼女?」


 母さんは水仕事で濡れた手をタオルで拭いながらやって来る。その目は好奇心で爛々と輝いていた。


「ちょっ、瑠奈さん、なにしに来たんだよっ!?」


 思わず咎めるように言ってしまう。連絡もなしにやって来るのは百歩譲っていいとして、なぜ彼女だと名乗るんだ。

 しかしなんの事情も知らない母さんは──


「こら、高矢。彼女になんてこと言うのっ!」

「すいません。突然お邪魔して」


 瑠奈さんはよそ行きの顔で会釈する。香寺さんのように気品はないものの、それなりに常識はある人のようには見えた。


「いいのよ。さあ上がってちょうだい」

「もうっ……瑠奈さん、こっち来て」


 リビングなんて行かれたら更に面倒なので手首を掴んで自室へと連れて行く。

 妹は唖然とした顔でその様子を見詰めていた。


「なんで彼女とか言うわけっ!?」


 部屋に入れてから軽く睨んでそう言った。


「だってコクられたからカノジョだし? それにしても優しそうなお母さんだね。妹ちゃんも可愛いし」


 勝手に歴史を歪めた瑠奈さんは、本棚を物色しながら惚けた感じでそう言った。


「僕は改稿作業で忙しいんだけど?」

「この本を抜くと裏にえっちな本やDVDが隠されてるっていう忍者屋敷的な仕掛けなんでしょ?」

「そんなわけないだろっ!」


 瑠奈さんは悪びれた様子もなく「つまんない」と言いながら、それでも一応数冊本を抜いて奥を確認してからクッションの上に座った。

 そして持っていたやけに大きくて薄い鞄からスケッチブックを取り出す。


「改稿作業してていいよ。私はデッサンしにきただけだから」

「デッサンって……そんなの家でしてよ」

「無理だよ。私は『小説書いてる高矢』を描きたいんだから」

「はあ? なにそれ? なんで?」


 相変わらず瑠奈さんの言動は理解できない。


「何かに打ち込んでる姿って被写体になるんだよね。ほら、小説書いて」

「僕に拒否権はないんだね」


 時間もないし、書いていいというなら小説の改稿を続けよう。そう思い立ち上がった時──


「お邪魔しまーす……」


 母さんがコーヒーとお菓子を持って部屋にやって来る。にやにやした顔が癪だった。

 萌絵もドアの影に隠れてじぃーっとこっちを見ている。「お兄ちゃんにあんな可愛い彼女が出来るわけない」という独り言がだだ漏れレベルで聞こえてきた。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございますっ」

「ゆっくりしていってね」


 母さんは僕のことなど見向きもせず、瑠奈さんに笑いかける。


「今日は高矢君が小説書いているところをデッサンしに来たんです」

「まあ。絵を描くの?」


 「まだまだ下手なんですけど」と言いながら瑠奈さんはスケッチブックを開いてみせる。そこには夏の公園で蝉取りをする子供たちが描かれていた。


「まあ素敵っ! 上手なのねぇ」


 母さんが感嘆の声をあげると萌絵も気になったのか部屋に入ってきて一緒にスケッチブックを覗き込む。


「こっちはお祭りを書いたものです」


 気をよくしたのか瑠奈さんはスケッチブックを捲り、絵を見せていく。

 瑠奈さんの描く絵はどこか懐かしい風景を切り取ったようなものが多く、一枚の絵なのに様々な物語を思い起こさせる力があった。


「へぇ……上手だね」


 感心した僕がそう呟くと、瑠奈さんは苦々しげに顔をしかめる。褒められたのに当てこすりの嫌味を言われたような表情だ。


「そうでもないよ……このくらい描ける人なんて掃いて捨てるほどいるし」


 瑠奈さんにしては珍しくネガティブな発言だ。


「人がどうとか、関係ないだろ? 瑠奈さんの絵はとても伸びやかで美しく、素敵だよ」

「そうかな……ありがとう」


 顔を赤くする瑠奈さんを見て、なにを勘違いしたのか母さんと妹は気を遣ったようにそそくさと退場していく。言い訳するのも面倒くさいからそのままにしておこう。


「瑠奈さんって変わった感じだから描いている絵ももっと変わったものかと思ってたよ」

「なにそれ? 割とひどいことをサラッと言うね?」


 笑いながら怒っているから気分は害していないのだろう。


「将来は画家になりたいとか?」

「画家っていうか、イラストレーターかな」

「え、そうなんだ? それはちょっと意外かも」

「そう? 昔からの夢なんだ。プロになれたら将来高矢の小説の表紙も描いてみたいな」

「えっ……う、うん」


 それは僕にとって「将来結婚しようね」といわれたくらい衝撃的な発言だった。

 しかしもちろん言った本人にはそんな深い意味などないようで「黙んないでよね!」と腕をぱちんと叩かれる。


「いや、僕がその頃まで小説を書いてるのかなって思って」

「えー? やめちゃうの?」

「やめはしないと思うけど……本になるようなものを書けるかは……」


 あやふやに誤魔化すと瑠奈さんは何か言いたそうな顔はしていたがその言葉は口に出さなかった。


 机のノートパソコンをテーブルに置いて小説を直し始めると、瑠奈さんは少し離れた位置に移動してスケッチブックを開いてデッサンを開始した。


 とはいっても絶えず筆を走らせるわけではなく、ほとんど僕を観察しているだけだ。絵を描くとは対象物を見極めるところから始まるものだと知りつつも、あまりにもじっと視られると気が散って仕方ない。


 猫のような可愛らしくも鋭い目は、窓辺の猫が外にいるスズメを狙うように光を放っていた。

 普段のふざけた顔とはまるで違う。スポーツをしている女子が試合中にだけ見せる真剣な表情。そんな感じだ。

 モデルなんてしたことがない僕は、どんな顔をしていればいいのか分からない。


「私のことは気にしなくていいから。普通に小説を書いてて」


 僕の戸惑いを見透かした瑠奈さんは、僕の顔ではなく全体を捉える視線のままそう告げてきた。


「気にしなくていいって言われても」


 瑠奈さんに視られていることを意識せず小説を書く。それは簡単そうでなかなか難しい注文だった。


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