恋をする怖さ
瑠奈さんは心底迷惑そうにハンカチで念入りに服を拭いていた。
「せっかくいい感じだったのに、やっぱ高矢は高矢か」
「……すいませんでした」
もう怒ってはいないようで、呆れたように笑ってくれた。
でも怒ってはいなくても褒めてくれたのは帳消しにされていそうだった。
「はい。それじゃ改めて……今日の締め括りにいこうか?」
「う、うん……本当にするの?」
「もちろん」
瑠奈さんは力強く頷く。
昨日デートに誘われ、その時に勝手に決められた任務。
それは『デートの最後に僕が瑠奈さんに告白する』ということだった。
何故そんなことをしなくちゃいけないのかという反論は無意味だ。彼女の答えは明白で、『小説の恋愛パートの描写を磨くため』だからだ。
偽装恋人になるときに取り決めた約束の第二項。
恋をしていない人間に恋愛は書けない。ならば疑似でも恋愛をする。
少なくとも彼女はそれを信じてるし、真面目に取り組んでくれているようだった。
恋愛をするのであれば、当然そのはじまりというのは必要だ。
それを今、ここで、目を合わせながらしなくてはならない。
どうせ告白するのならば実際に絶賛片想い中の香寺菜々海さんにした方がいいに決まっている。
ただその場合フラれると小説の改稿にも悪影響を及ぼす恐れがあった。
書籍化作品は突如ヒロインが死に、愛もロマンもない殺伐とした世界へと書き換えてしまう恐れがある。
まあもちろん、そんな書き変えを鳳凰出版の宇佐美さんは決して許してくれないだろうけど。
そんなリスクを負うくらいならば瑠奈さんとの疑似恋愛で済ませておくというのも、確かに一つの案ではある。って本当にそうなのか?
「ほら、早く」
僕が迷う暇もなく、瑠奈さんは急かしてくる。まだ日も明るい公園には僕たちの他にも沢山の人がいた。
大声張り上げて告白するわけじゃないから周りの人には気付かれないだろうが、やはり往来の人の視線は気になってしまう。
しかし暗くなるまでまだかなりある。覚悟を決めるしかなさそうだ。
「あ、あの……瑠奈さん」
自分の声があまりにも震え上擦っているのに驚いた。
「ん、なに?」
一方瑠奈さんは先ほどまで日常会話をしていた同級生といった感じで自然に応じる。既に演技が始まっているのだろう。
「それは、その……あの……」
「ねえ暇だしカラオケでも行こうか?」
「え? あ、うん。行く?」
告白する度胸がない僕は問題を先送りしたい一心で提案に従おうとした。
瑠奈さんと一緒に立ち上がろうとしてぺちんと後頭部を叩かれる。
「痛っ……」
「違う! 告白するんでしょ! 流されないでよ!」
「ごめん」
「ちゃんとしてっ! もう二度と言わないからね? 演技が始まったら最後でやりきるの。わかった?」
「……はい」
「はい。仕切り直し」と言いながら瑠奈さんは腰を下ろす。
「じ、つは……僕、瑠奈さんのことが……」
言葉に詰まっても言い切るまで瑠奈さんは黙って待っていた。向けてくる視線は「頑張れっ!」と言ってくれてるようだった。
「その、好きです……僕と、付き合って下さい……」
言ってしまった。恥ずかしさで体温が上昇していくのを感じる。
演技とはいえ、生まれて初めて女の子に告白をしてしまった。特に好きでもない人に。
「えー? なんで……急にそんなこと言われても」
笑いで誤魔化そうとしつつも動揺を隠し切れていない、瑠奈さんはそんな演技をする。
あまりにも演技上手なので、普段から告白されたらこんなリアクションをしているんじゃないかと勘繰ってしまう。
自分で言わせておいて「急に言われても」とはずいぶん面の皮の厚い話だが、そういうストーリーなので我慢する。
それにしてもこの次はなんて言えばいいだろうか?
台本なんてない。自分で考えるしかなかった。
「ごめん。驚かせちゃって」
「驚くよ、そりゃ……でもなんで? 私のどこが好きなわけ?」
「どこって……」
美味しくもないものを食べさせられてコメントを求められる食レポのリポーターの気持ちが少しだけ分かった気がした。
「それは……」
心拍数がどんどん激しくなり、変な汗をかいていく。
瑠奈さんの大きな猫目が僕を捉えて放さない。
笑うとき無遠慮に大きく開く口も、今は慎ましくキュッと結ばれていた。
好きになった理由なんてもちろん考えてきていない。「付き合って下さい」「はい」という流れで終わりだと思っていた。
ここで演技を止めれば最初からやり直しになるかもしれないので必死に考えた。
「僕の小説を読んでくれたとき、真剣にその感想を言ってくれたし……その感想が僕の言わんとしている内容を的確に捉えてくれてたのが嬉しかった」
出鱈目を並べても仕方ないので、僕は数少ない瑠奈さんの好感を持てるところを並べ始める。
「一生懸命絵を描いてるところも好きだし……嫉妬してるなんて飾らずにいうところも凄いなって思ったし、自分の信念を持ってるところとかも好きだな」
瑠奈さんは膝に置いた手に力を籠め、恥ずかしそうにズボンをキュッと掴んで少しだけ紅潮した顔を俯かせた。かなりの演技力だ。本当に恥じらってるように見えてしまう。
彼女の細かい演技に刺激され、僕の感情も徐々に昂ぶってしまう。
「一緒にいると面倒くさいなと思うことも多いけど、愉しいって思えることもあるし……ふざけてるのに時おり真面目になるところとか、たまに見せる優しさだとか……そういうのが好き、かな」
これだけ言えば大丈夫だろう。というかこれ以上はいくら絞っても出て来ない。
瑠奈さんは先程より更に赤くなった顔を上げて僕を射抜くように見詰める。顔が赤いのは息を止めるなどして作っているのだろうか?
大した女優魂だ。
しかしそれにしては表情が怖い。まるで怒っているかのようだった。
「顔は?」
「え?」
「私の見た目はどうなのって訊いてるのっ……」
「あ、ああ……あと顔も可愛くてすごく好き」
物凄い付け足し感でそう伝えると、瑠奈さんは不服そうに頷いた。
そして──
「うーん……ごめんなさい」
「ええーっ!?」
なんと断られてしまった。
フラれるという展開は予想していなかったので、思わずデカい声を上げてしまった。
それで周りの人の視線を一気に集めてしまい、恥ずかしさが倍増してしまう。
「って、嘘。いいよ。付き合ってあげる」
瑠奈さんはなにかの仕返しをしたみたいな顔で舌を出して笑った。
僕は不覚にも告白が受け入れられた歓びで身体がぞわっとしてしまう。全部嘘なのに。
「どう? 恋愛するっていう感触が摑めた?」
先ほどまでの乙女乙女した瑠奈さんは一瞬で霧散し、いつも通りの辛辣で手厳しい彼女に戻ってしまう。
「うん。ありがとう……確かに、ちょっとわかったかも」
悔しいが瑠奈さんの言う通り、恋をするという気持ちは少し理解できた。恋愛小説やラブコメ漫画を読んだ感情とはまったく違っていた。
恋とは明るく楽しくワクワクするだけだと思っていたが、実際は違っていた。
もちろん明るく楽しくワクワクするが、それ以上に不安で怖くて落ち着かない。
そんなこと、今の今までまるで知らなかった。知らずに恋愛感情を小説に書いていた。
桃を食べたことないのに「甘くて美味しい桃」と綴っていたようなものだ。
桃は実際には甘いだけじゃなく酸味もあるし、香りは爽やかだし、噛んだときの「たぷっ」とした歯ごたえも心地いい。何事も経験をしないと分からないと言うことがある。
瑠奈さんのお陰で、自分の小説に足りないものに気付かせてもらえた。
「なんかいい小説が書けそうな顔してるよ?」
「どんな顔だよ、それ。 でも僕もそう思う。今ならいい文章が書けそうかも」
「じゃあ忘れないうちに早く帰って書きなよ」
「え? でも?」
「いいから。今日のデートはここでおしまい。またね。バイバイ」
座ったままの姿勢で瑠奈さんは手を振った。
「ありがとうっ! じゃあ!」
書き直したいところがあった。それも一つや二つじゃない。
自分の内に灯ったその感性が消えてしまう前に書かなくては、と僕は慌てて走り出していた。
走る前から心臓が高鳴っていたけど、それでも走った。




