決戦前夜
僕は瑠奈さんと小包の前で正座していた。
送り主は鳳凰出版で、品名は本。
つまりこの中には僕の刷り上がったばかりの見本誌が入っている。
「早く開けたら?」
瑠奈さんは待ちきれない様子で身体を前後に揺すりながらそう言ってきた。
「い、いや……瑠奈さんが開けて」
「はあ? なんでよ。高矢の本でしょ」
「そ、そうだけど……」
情けないことに僕は緊張のあまり、カッターを持つ手が震えてしまっていた。
その姿を見て瑠奈さんは笑いを噛み殺したような顔をしている。
「もう。仕方ないなぁ」
瑠奈さんはカッターを持つ僕の手を握り、結婚式のケーキ入刀のように一緒に梱包を解いてくれる。
段ボールの蓋を開けて中を覗くと、細かな縮れた紙の梱包材に包まれる格好で僕の本『異世界を救うのは荷が重すぎました』が六冊入っていた。
「おおーっ!」
瑠奈さんは目を丸くして歓声を上げる。
点Pさんが手懸けてくれた表紙絵やタイトルの入った書影は画面上では見ていたが、印刷されたものを見るとまた気持ちも違う。
光沢を持ったカバーの手触りはつるりと滑らかで、手に取ると四六判の重みを感じた。
パラパラパラッっと捲ると、真新しい紙とインクの香りがふわりとした風に乗り、挨拶をしてくるように鼻腔を擽った。
実際に完成した本を手に取って、そこに僕のペンネームが記されているのを見て、ようやく僕は本を出版したんだと実感した。
もの凄く感動した。けれどどこか冷静に受け止められる自分もいた。
爆発するような喜びではない。ゆっくりと染み出す、静かで重い喜びだった。
帯びに書かれた多少大袈裟な謳い文句、奥付に記載された出版社や印刷所の名前、小さく書かれた直前で決めた英語の副題。
今まで買った本では見なかったような細部をゆっくりと確認していく。
この本の著者は僕かもしれないけど、作ったのは僕一人じゃない。色んな人の力で創り上げたものだと改めて実感させられる。
「どうしたの? テンション低くない?」
瑠奈さんが心配そうに僕の顔を覗き込む。
「もしかして私の絵が奥の方で手前にウデラがデカデカと描かれているから凹んでるの?」
「そうじゃないけど」
瑠奈さんらしい発言に少しだけ笑った。
「本当に本になったんだなって思うと……なんか感慨深くて」
「うん。そうだよ。高矢の紡ぎ出した物語は、本になったんだよ」
瑠奈さんは僕の手をそっと握る。
なんとなく照れ臭くて、あの日以降キスはしていない。だから未だに手を触れられるだけで少し緊張してしまう。
「嬉しいし、責任重大だって思うし……でも正直それだけじゃない」
僕の中には思いも寄らなかった感情が芽生えていた。
瑠奈さんはただ黙って僕の言葉の続きを待ってくれていた。
「一生に一度。一冊でいいから本を出版したい。本気でそう思っていたのに……今は違うんだ」
「後悔してるってこと?」
「まさか。違うよ。今はもっともっと、沢山本を出したいって思ってしまっているんだ……」
胸に溢れたその想いは、本が完成したこの日だけでもしまっておくべき言葉だったのかもしれない。誕生したばかりの本に、今は感謝すべきなのかもしれない。
でも僕は瑠奈さんだけには偽らざる気持ちを伝えたかった。
僕の言葉を聞いた瑠奈さんは一瞬だけ目を見開きかけた。
「本が出来上がったその日にこんなこというなんて、欲深いと言うか、身の程知らずというか、なんだか失礼なのは分かってるけど──」
「いいじゃない。欲張りで」
自分の発言であたふたしてしまう僕を、瑠奈さんが静かに、だけど力強く鼓舞してくれた。
「高矢はもっともっと本を出せると思う。一生に一度の記念の一冊なんかじゃない。これからもっと活躍する。私もそう思う」
「ありがとう」
本音で話せたことも、それを受け止めてくれたことも嬉しかった。
「それに次のシリーズこそは私が担当イラストレーターになる予定だし」
瑠奈さんはわざとらしく胸を反らし腕を組んで僕を笑わせに来る。その思惑通り、僕は笑ってしまう。
「もしその頃既に別れていて恋人じゃなくてもイラスト描いてくれるの?」
ついそんなブラックジョークを言ってしまうと、瑠奈さんは割と本気で拗ねた顔をして僕を睨んだ。
「普通そういうこと言う? 付き合ったばっかなのに」
「じょ、冗談だよ……ごめん」
付き合い始めて一ヶ月経ち、瑠奈さんは意外と恋愛に関しては乙女的なところが強いということが分かった。付き合って一ヶ月の記念だとか、バレンタインにはやけに手の込んだ手作りチョコレートケーキをくれたこととか、ちょっとでも香寺さんと話をするとやきもちを焼くとか。
しかもそういう態度を取った後「ごめん、私って面倒くさい女って感じ?」と不安げに訊いてくるのも驚きだった。
確かに一般的に『面倒くさい女』と言われる類の行動だったけど、普段のシニカルな態度とのギャップが激しくて可愛く見えてしまった。結局僕も恋愛脳に陥ったということなんだろう。
「二巻を出すとしても来年以降なんでしょ?」
「そうだね。受験勉強に差障らないようにするためにね。でも既に書き溜めているものがあるから二巻くらいなら今年中に出せるよ。改稿も一回経験したから要領も掴めたし」
藤井さんは出版することで進学や就職に差障りがないかをいつも気にしている。
小説を書くことで一生生活していける人などほんの一握りだからなのだろう。
ライトノベルに限らず、一般文芸だってかなり有名な作品の作者でも兼業作家だと聞く。
そう考えるとこの国のエンターテイメントは結構な割合で本業の作家ではない人がけん引しているのだろう。
「発売日はお祝いだね」
「いいよ、そんなの。大袈裟だし」
「大袈裟なわけないでしょっ! こんなにめでたい時に祝わないでいつ祝うのよ」
うちの親も発売日が近づくにつれ浮足立ってきているのが分かる。
さすがに息子の小説の発売となると不安でいっぱいなのだろう。
「あ、そういえば」
「なに?」
「大したことじゃないんだけど、この間ちょっと話の流れで親と妹に『瑠奈さんと付き合うことになった』って説明しちゃったんだけど、まずかった?」
「えーっ!? マズくはないけれど……ちょっとハズいかも……どんなリアクションだった?」
「いや、それが……『は? とっくの前から付き合ってるでしょ?』って真顔で返されて……まぁ、そりゃそうだよね」
「あ、そっか……」
そもそも瑠奈さんが自分で「高矢君の彼女です」なんて自己紹介しておいて、今さら恥ずかしがるとか意味不明だ。
「それで発売日のお祝いパーティーには瑠奈さんも呼ぼうとか張り切っちゃってて……」
「えーっ! 行く行くっ! 絶対行くっ!」
瑠奈さんは鬱陶しいくらいに挙手をしてアピールしてくる。母さんは前から瑠奈さんのことを「素直でいい子」と言っていたが、こういうところを早々に見抜いていたと言うことなのだろうか? だとしたらなかなか鋭い観察眼だ。
発売記念パーティーは瑠奈さんだけじゃなく与市や毒舌繁子ちゃんも呼んでみようか?
与市は親友だし、繁子ちゃんは僕の小説を発掘してくれた恩人だ。
あの二人は顔を合わすと口論ばかりで油と水だ。しかし共にラノベ好きだからなのか、結局同じ意見だったりする。相性がいいのか悪いのかよく分からないコンビだ。
「与市と繁子ちゃんと、他にも誰か呼ぶの?」
瑠奈さんはスケジュール帳にメモを走らせながら訊いてくる。
「そうだなぁ……香寺さんとか?」
「絶対言うと思った! そういうとこだからね、高矢」
瑠奈さんは歯を見せて笑う。さすがに今のは読まれていたようで拗ねてはくれなかった。
ずっとこんな楽しい日々が続くと、僕は信じて疑わなかった。
その一週間後、僕の小説は発売された。
売り上げはランキングデータの最底辺を発売初日に掠めた程度で、あとは泡沫のように音もなく弾け、次々と新たにリリースされるタイトルの波にのまれて消えていった。




