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仮初めの恋人契約終了の日

 瑠奈さんは明らかに家について語りたくなさそうだったから、僕も触れるのをやめた。

 それにしても今日の瑠奈さんは話をはぐらかすのが下手すぎる。普段ならもっと上手に誤魔化すのに。

 それくらい自分が『良家のお嬢様』だと思われたくないのだろう。


 そして三郷家は内部も外観に負けない立派なものだった。

 廊下も階段も深い色のウォールナット材を使っており、黒光りするほど磨かれている。壁に掛けられた絵画はイギリスにある世界一美しい村として有名なコッツウォルズの早朝を描いたものだろう。その素朴な美しさが木の温もりを感じる重厚で上質な玄関の雰囲気に溶け込んでいた。


 花を生ける壷も、靴を履くために座るエントランスチェアも、敷かれたマットも成金趣味的なものではなく、どこか木訥とした落ち着きのあるものなのも好感が持てる。

 瑠奈さんのセンスがいいのも、きっとご両親の感性が影響しているのだろう。


「お邪魔します」

「誰もいないっていったでしょ?」

「家に言ったんだよ」

「なにそれ? キモい」


 今の『キモい』は『変わってるね』の意味だろう。瑠奈さんと関わりだして数カ月。僕もなんとなく瑠奈さんの思考回路は理解できるようになっていた。


 ぽんぽんっと無造作に出されたスリッパはふかふかで、驚くくらい足に馴染んだ。

 これが本物のスリッパならば、僕の家の玄関に置いてあるアレはなんなのだろうと思ってしまう。


 僕を待たずにさっさと階段を駆け上っていく瑠奈さんは、やはり猫のようだ。

 ただ今まで野良猫だと思っていたその子は、実は両親がチャンピオンの血統書付きノルウェージャンフォレストキャットだった。


 二階にある瑠奈さんの部屋に入ると、そこだけこの家のイギリスの片田舎のお屋敷という雰囲気とは違っていた。

 壁にはアニメ風だったり、現代アート風だったりのポスターが貼られている。

 ベッドの上には不気味な深海生物をディフォルメした人形が転がっていた。

 書棚には大型書店でもあまり見たことないようなアート系の雑誌ばかりが詰め込んであり、その隣にはお気に入りの服を吊していると思われるクローゼットがあった。


 整頓されているのにものが溢れているからか、どこか散らかっているようにも見えてしまう。


「なにキョロキョロしてるの? あ、分かった! 私の脱ぎ散らかした下着とか探してるんでしょ?」

「そんなわけないでしょ」

「残念でした。私は整理整頓するタイプだからそういうだらしないものはないの」


 彼女は笑いながらクッションの上に座る。僕もその向かいに腰を下ろした。


「そうじゃなくて……なんか、瑠奈さんらしい部屋だなぁって。ちょっと嬉しくなったから」

「そうかな? まー、好きなもの集めてたらこうなっちゃったから私らしいのか」


 そう言いながら瑠奈さんは机の上に乗っていたキャンバスを裏向きで手に取る。

 顔からは笑みが消え、引き締まった表情に変わっていた。


「じゃあ私が仮初めの彼女として、()()()私から高矢にプレゼントです」

「わざわざそんなものを用意してくれてたんだね……」


 そう。今日が最後の日だった。

 僕たちの仮想恋人関係は、校了となった今日で終わりにすることとなった。


『改稿作業が終わったのだから、疑似恋愛は必要なくなるね』


 今日、最終稿を発送するときに、突然瑠奈さんがそう告げてきた。

 恋愛部分の大幅改稿を言い渡され、途方に暮れていた僕を助けるために、瑠奈さんは疑似恋愛を体験してくれていただけだ。

 改稿作業が終われば、当然その関係も終わりとなる。

 そんな当たり前のことを、僕は考えていなかった。

 なんとなくこのまま、大学生になってもこの関係でいられるようなつもりでいた。


 でも瑠奈さんはきっちりと線引きを以前から考えていたのだろう。こうして僕に最後のプレゼントなんてものまで用意していたのだから。

 相変わらずしっかりしてるなと思いつつ、冷静すぎる瑠奈さんに少し寂しくなる。

 結局恋人関係を愉しんでいたのは僕だけだったようだ。そう思うとちょっと恥ずかしい。


「これが瑠奈ちゃんからの最後のプレゼントでーす!」


 瑠奈さんはそんな僕の心の内などまるで知らない様子で、やけに明るくそう言ってキャンバスをくるっとひっくり返す。


「これはっ……」


 そこに描かれていたのは、僕だった。


「前に高矢の家に行って小説書いているところをデッサンしたでしょ? アレの完成作だよ」


 どこか思い詰めたような表情の鋭い横顔。その背景に描かれていたのは──


「僕の小説の世界が背景に描かれているんだ……」


 絵の具を厚く重ねた筆使いで、城や街やその背後に広がる深緑の森が僕の後ろに描かれている。

 手前に描かれた少しアニメ風な僕の横顔と、絵画調の背景が違和感なく融合して一つの世界として纏まっていた。


「ありがとう……」


 嬉しすぎて熱いものがこみ上げてくる。目頭が熱くなり、せっかくの絵が滲んで見えてしまう。


「ちょっと高矢。濡らさないでよね、せっかく苦労して書いたんだから」


 瑠奈さんは笑いながら僕にハンカチを握らせてくれる。

「ごめん……」と謝りながら笑って目を拭う。


「二割増しでかっこよく書いてあげたんだから感謝してよね」

「うん。二割じゃ効かないくらいにカッコいいよ」


 そこに描かれた僕は鋭くて、自信に漲っていて、凛々しくて、申し訳ないほどに美化されていた。


「小説書いているときの高矢ってこんな感じだよ。普段とは別人」

「そうなんだ?」


 僕も絵を描いているときの瑠奈さんを描写して読ませたくなる。

 静かに興奮した眼球が一点を見詰める鋭さとか、景色の中に愛らしいなにかを見つけたときに緩む口許とか、踊るように滑らかな指先とか、それを文字で切り取って読ませてみたい。


「改稿作業、本当によく頑張ったよね、高矢。えらい」


 頭を撫でられ、全身が擽ったくなる。


「瑠奈さんのお陰だよ。壊滅的だった恋愛シーンが飛躍的によくなったって編集さんにも褒められたし」

「私なんてなんにもしてないよ。全部高矢の実力」


 毛並みを整えるように僕の髪を撫でてくれる瑠奈さんの手が、するりと滑り落ちて僕の頬に添えられた。

 いつも意地悪で無神経で自分勝手なのに、最後に限って優しいとか、勘弁して欲しい。


 三秒間だけ真顔だった瑠奈さんは、次の瞬間いつものおちゃらけ顔に変わって、両手で僕の頬をぱんっと挟んだ。


「高矢って男なのに肌柔らかいし綺麗だよねー」


 そう言いながらむにーっと引っ張って伸ばしてくる。


「ちょっ、やめてよっ」


 やっぱり瑠奈さんはいつものこのふざけた感じが一番だ。

 抗いながらそんなことを思うと、頬よりも胸の奥が痛んできた。


「沢山売れるといいねー」

 「それはまあ、結果だから」と答えたが、ほっぺたを伸ばされながらだから上手く発声できなかった。


「ヒットしたら高いプレゼント買ってもらおうっと!」


 そう言いながらようやく頬を離してくれた。


「なんでそうなるんだよ。も、もう彼女でもなくなるんだし……」


 何かを期待しつつ遠回しにそう呟いたが、瑠奈さんは聞こえてないかのように「なにがいいかなー?」と夢見心地の思案顔だ。


「ヒットというより、僕の場合はまずは続刊が目標だよ」

「そうだね。二巻は一巻の売れ行き次第なの?」

「うん。編集さんにはそう言われている」

「そっかぁー。なかなか厳しいんだね」


 瑠奈さんの言う通り、確かに厳しい。

 もし一巻の売り上げが振るわないときは、残念ながら僕の夢の書籍化挑戦はそこで終了となる。


「続刊するかどうかっていつ決まるわけ?」

「一応発売から一ヶ月以内とはいわれてるけど……」

「一ヶ月っ!? やけに早いんだね」


 瑠奈さんは驚いたようにもともと大きな目をさらに大きく見開いた。

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