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海の中の世界

 修学旅行三日目の朝はスコールから始まった。

 せっかく南の島に来たのに雨とはついてない。

 そう思いながらホテルのベランダから雨に煙るグアムの景色を眺めていた。南国のスコールというのは驚くくらい勢いが強い。ここから見ても地面で雨が跳ねるのが見て取れた。

 しかし湿った空気の香りや、ぼんやりと霞む景色も、それはそれなりの風情を感じて悪くなかった。


 激しく降る雨はすぐに勢いが衰えていく。この島ではどうやらこういうことはよくあるらしく、着替えが終わる頃にはすっかり雨は止んでしまっていた。


 僕はハーフパンツに昨日買ったアロハシャツを合わせて、与市と共にホテルのロビーへと向かう。

 今日の午前中は生徒たち自身で事前に選んだアクティビティーをして、午後は自由時間となっていた。


 ダイビングやウェイクボード、バナナボートにリバークルーズなどもあったが、僕と与市が選んだのは潜水艦だった。

 これなら疲れないし半日で終わるという、実に消極的で無気力な選択肢だ。

 ちなみに瑠奈さんはバナナボートを選んでいた。実施場所も遠いしやることも多いのでバナナボート組は既にホテルを出発している。

 明け方のまだ少し寝ぼけた瑠奈さんを見てみたかったので、少し残念だった。


 ロビーでメンバーが集まるのを待っているとチェックのワンピースに大きめのストローハットを被った香寺さんが友達と二人でやって来る。


「おはよう」


 恋人岬のことを思い出しながら恐る恐る挨拶をすると「おはようございます。弓岡君たちも潜水艦なんですね」となんの遺恨も感じさせない笑顔を見せてくれた。


 これまでの僕ならば相手が気にした様子をしていなければ敢えてそこに触れることはなかっただろう。

 しかし最近の僕はそんなうやむやな態度があまり好きではなかった。


「小説のこと、ごめんね」


 素直に謝ると香寺さんは一瞬だけ戸惑った顔をして「私の方こそ失礼しました」と頭を下げた。


「与市にももう小説のことは話してるんだ。瑠奈さんは、まあ、見つかっちゃったから話しただけなんだけど」

「そうなんですね」


 たったそれだけ伝えれば済むことだった。

 それが言えずに煩悶していた自分が不思議なくらい、簡単なことだった。

 さすがに書籍化のことまでは契約上話せないが、話せる時が来たらすぐに話そう。そう心に誓った。


 潜水艦を選んだ生徒はやはりあまり多くなかった。潜るといっても水深五〇メートル程度だし、やはりマリンスポーツの方が人気なのは当然だろう。

 総勢二十人程度を乗せてバスは発車した。


 潜水艦は市街地から離れた米軍基地の近くで行っている。

 僕たちの泊まる観光リゾート地であるタモン地区を抜け、裁判所や議事堂のあるグアム島の中心部ハガニン地区を越えて更に先へと進んでいく。

 景色はだんだん観光地ではなく田舎になっていき、バスがぐらぐらと揺れるほどアスファルトが剥がれた道を通ってようやく目的地へと着いた。


「うわぁ……なんかグアムというより野生の森みたい」


 リゾート地とはとても思えない原生林のようなところでバスを降りる。


「まるで冒険に来たみたいな景色ですね」


 香寺さんは案外こういうところが好きなのか、帽子を押さえながら顔を上げて周辺を見回す。

 華奢な腕も白い肌も綺麗なワンピースも冒険にはそぐわない。虫刺されや日焼けを気にして嫌がる女の子のように見えて、意外とこういうところが好きなようだ。


 ここから舟に乗り潜水艦のある洋上まで移動する。

 流れの緩やかな川を下っていくと次第に川幅が広がり、十分も進むと商業港が見えてきた。


 香寺さんは少し離れた前の方の席に座っている。

 少し開いた窓から吹き込んだ風が彼女の長い黒髪をせよがせていた。とても絵になる姿だったけど、以前のように胸は騒がなかった。


(今ごろ瑠奈さんはバナナボートに乗ってるのかな?)


 ふとそんなことが気になり、いるはずもない海原の方を見て目を細めた。


 どこが境目なのかも分からないまま、舟はいつの間にか川から海へと入り、波のない穏やかな湾内を進んでいた。

 行く先に見える陸地は米軍基地らしいが、想像していたような物々しい気配はない。

 基地といわれなければ穏やかな森林が広がる景色にしか見えなかった。

 そして目的の潜水艦はその基地の手前、湾の奥の方で待機していた。


「わぁ……なんか海に落ちそうで怖い」


 香寺さんは躊躇いながら舟を下りて潜水艦の上へと移動する。僕もそのすぐ後ろをついていく。


「風が強いね」

「ええ。帽子が飛ばされいように注意しないと」


 風にワンピースや髪がなびいて、細い香寺さんは今にも飛ばされそうだ。

 こんなに危うい場所に立っているのに与市はまるで平気なようで海の中を必死に覗き込んではしゃいでいる。


「きゃっ」

「おっと」


 少しぐらついた香寺さんを慌てて支えると、「すいません。ありがとうございます」と恥じたように頭を下げられた。

 肩しか触っていないのに与市は僕がラッキースケベを得たかのような顔でにやついてくる。

 こんな偶然のチャンスをもらったわりに、なぜか僕の心は穏やかなものだった。


 潜水艦の中は観光用のものだから当たり前なのだろうが、意外と広かった。壁際に一列に並べられた椅子一つひとつの前に、丸い窓が設けられている。

 僕は与市と香寺さんに挟まれる位置で椅子に座った。


「なんかドキドキしますね」

「ウミガメもいるといいよね」


 香寺さんは期待に満ちた顔で笑いかけてくる。潜水艦の中はブルーライトのみで、香寺さんの白い肌は神秘的にぼんやり光って見えた。


 ブゥゥゥゥンという音と共に潜水艦は海中へと潜りはじめる。

 すぐに珊瑚礁が現れ、魚がその間を泳いでいるのが見えた。

 絵に描いたような色かたちの珊瑚礁はまるで作り物に見えたが、当然作り物の方がこれらの本物を真似している。

 魚たちは潜水艦が頻繁にやって来るから慣れているのか、それともそもそも警戒心が薄いのか分からないが、逃げるはおろか潜水艦に近付いて来るものさえいた。


「きゃあっ! 可愛いっ!」


 寄ってきた魚に手を振る香寺さんの方は無邪気で、まるで毒気を感じさせない。瑠奈さんとは大違いなのだが、それがなんだか物足りなく感じてしまう。


 珊瑚礁は丸いものやら尖ったものなどが混在しており、複雑に入り組んだ森を形成していた。その中を様々な熱帯魚が泳いでいる。

 比較的小さな魚はカラフルなものが多く、大きなものは単色のものが多いような気がした。

 潜水艦の航路にはところどころ餌やり装置が設置されていた。潜水艦が近付くとそこから餌が供給されるようで、それを心得てる魚たちが群がって玉のような魚群を形成していた。


「わぁ! 見て見て! いっぱい集まってますよ!」


 香寺さんが興奮気味に言ってきた。きっとこの付近の魚たちは潜水艦を見たら餌の時間だと思っているのだろう。


「本当だ。色んな種類の魚が集まってるね」

「綺麗ですねー」

「そうだね」


 綺麗だし可愛い。その感想に間違いはない。

 幾何学的な模様をした色彩豊かな珊瑚の森の中を、鮮やかな熱帯魚が泳いだらほとんどの人がそう思うだろう。

 だから香寺さんの感想は間違っていない。


 でも僕はずっとこの景色を見て瑠奈さんならなんて言うのか、描くならどんな絵にするのか、とかそんなことばかりを考えてしまっていた。

 それはつまり瑠奈さんとこの景色を一緒に見たかったということだ。

 同じものを見て、どう思うのか、瑠奈さんと感動を語り合ってみたかった。

 後で瑠奈さんに見せてやろうと思い、僕はスマホのカメラレンズを円い窓の方へと向けてシャッターを切っていた。


 



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