美化と日頃の行い
日が傾く時間に美術館を出た僕たちは、遅くならないうちに帰るためにすぐに電車に乗った。
電車は運良く空いていたので僕たちは並んで座る。
「そういえば編集者さんに点Pさんのこと訊いてくれた?」
「あ、忘れてた」
「えー?」
点Pさんと会って打ち合わせできるのかとか、どんな人なのかとか、そんなことを宇佐美さんに訊いておく約束をしていたのだがすっかり忘れてしまっていた。
「ごめん。今度訊いておくよ」
「信じらんない。なんで忘れるかなぁ……」
割と本気で凹んでいるようで唇を尖らせて顔をしかめている。
電車は次第に混み出し、座っている僕たちもなんとなく圧迫感を感じて肩を密着させていた。
寄り添いあって座っているとどうも落ち着かず、身体が強張ってしまう。少しは慣れたとはいえ、やはり僕はまだまだ女の子と二人というシチュエーションには戸惑ってしまう。
しかし瑠奈さんの方はそうでもないらしく、あくびを漏らして眠そうに目をとろんとさせていた。人の気も知らないでいい気なもんだと思いながらも、何故だか微笑ましい気持ちになる。
「ごめん。ちょっと寝る……着いたら起こして」
「え? 本気で?」
「うん。本気」
よほど先程まで眠気を堪えていたのか、瑠奈さんは一分も経たないうちにすーすーと寝息を立て始めてしまう。
悪気がないことも、他意がないことも分かっている。だけど僕の肩に頭を乗せるというトラディショナルな『無自覚煽り』は勘弁して欲しかった。
髪の毛も体温も爽やかだけど甘い香りも、全部擽ったかった。
大きな川を渡り、僕たちの住む町が近付く。このまま僕も寝たふりをして乗り過ごしてしまおうかと、意味もなくそんなことを思った。
一度じっくりと寝顔を見てから「瑠奈さん。そろそろ起きないと」と呼び掛ける。
「んっ……」
寝起きの彼女は少し不機嫌そうな顔をして目を擦った。
JRも私鉄も交差しているこの駅の乗降者も多く、僕たちは流されるように降りていく。
「自然に手を繋ぐチャンスだよ、ほら」
「からかわないでよ」
そういうことを言わなければ瑠奈さんも悪い人ではない。でもこれが瑠奈さんらしさなんだろうけど。
もちろん僕たちは手を繋がずに電車を乗り換えた。朝のラッシュほどではないけれど混み合う車内の中で、僕たちはいつもよりは身体を寄せ合って立っていた。
既に景色は暗く、電車の窓には僕たちが映っていた。窓に映る瑠奈さんを見ていると、視線に気付いたのか瑠奈さんも窓に映る僕の顔を黙って見詰め返してくる。
反射した姿越しだと、不思議と見詰めあうのもそれほど恥ずかしくはなかった。
「そろそろ修学旅行だね」
視線はそのままで、瑠奈さんが語り掛けてきた。
「あー。グアムか。忘れてた」
「海外でも小説の仕事するの?」
「まさか。だいたいそんなところで書いてたらみんなにバレちゃうから」
「それもそっか……正体を明かせない正義の味方って感じ?」
「なに正義の味方って。むしろいかがわしい副業がバレたらヤバいOLさんって感じだよ」
言われてみれば修学旅行はもう目前だった。人生初の海外旅行だけど学校行事で行くから緊張も下調べもほとんどしていない。
「瑠奈さんはグアムに行ったことあるの?」
「グアムはない。サイパンならあるよ」
「へぇ。楽しかった?」
「楽しかったよ。でも学校のみんなと行くとなるともっと楽しいんだろうね」
こうして二人で出掛けることはあっても学校では未だに他人行儀に過ごしている。
旅先でもきっと一緒に歩くことはないだろう。
「夜中に私の部屋に夜這いしに来ないでよね?」
「僕がいつそんなキャラになったんだよ」
「えー? さっき寝てるときにキスしてきたくせに」
「してないから」
馬鹿馬鹿しすぎて鼻で笑ってしまった。
「なんか前みたいに顔赤くして恥ずかしがらないね。つまんない」
「まあね。何度も何度も瑠奈さんにからかわれているうちに免疫が出来たんだよ。ありがとう」
軽くあしらってやると瑠奈さんは視線を窓から直接僕に移して、上目遣いで睨んできた。瑠奈さんのショートヘア黒髪も大きなフレームの眼鏡姿も次第に馴染んできて違和感を感じなくなってきた。
「でも同じことを菜々海ちゃんにされたら顔真っ赤にするくせに」
「香寺さんはこんな風にからかってこないから」
「美化しすぎてるんじゃないの?」
「美化じゃなくて日頃の行いだと思うけど?」
そんな軽口のたたき合いをするのも楽しく感じてしまった。
きっとなにか嫌味を言ってくるに違いない。ちょっとそんな期待をして身構えてしまう僕がいた。
しかし瑠奈さんは機嫌を損ねたように再び窓へと向けてしまう。その視点は反射する僕には向けられておらず、その奥の流れる景色へと向けられていた。
「そっか……まあそうだよね。菜々海ちゃんはそんなことしないもんね」
そう言ったきり黙ってしまう。
怒らせちゃったのかなと思って反省しかけて気付いた。
(きっとこれも気まずい雰囲気にして僕を困らせる作戦に違いない。最近瑠奈さんのからかいに動じなくなってきたから、焦らせようと新手の作戦を仕掛けてきたのだろう)
その手には乗らないと僕も無言を貫いた。
しかし結局瑠奈さんは最寄り駅まで一言も発することはなかった。
「じゃあね」
最寄り駅に到着してドアが開くと彼女が呟く。
「うん。また明日」
瑠奈さんはそのまま降りて振り向かずに去って行く。
ドアが閉まる際に風が吹き込み、僕の髪を揺らして抜けた。
それは間もなくやって来る冬を思わせる、物悲しい冷たさを孕んだ風だった。
瑠奈さんは絶対振る。振り返って分かりやすく怒った顔をするだろう。
その時僕は「騙されたっ! 心配して損した」って顔をしてやろう。それで瑠奈さんも満足するはずだ。
そんなことを思いながら瑠奈さんの後ろ姿を見詰めていた。
電車が走り出し、彼女から遠離っていく。結局瑠奈さんが振り返ってくれることは、なかった。




