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ルノワールの木かげ

 打合せが終わったとき、ようやく時計を見て予定より一時間もオーバーしてしまっていたことに気付いて焦った。


「すいません。こんなにお時間を取らせてしまって」

「いえいえ。御影さんのお陰で私もこの作品のよりよい見せ方をを色々と気付けました」


 片付けながらも待たせてしまっている瑠奈さんを思い、気が急いていた。

 しかしその時、これだけは確認しておかなくてはということを思い出した。


「あ、そういえばお訊きしたいんですけど」

「なんでしょう?」

「その……書籍化のこと……親友の一人にだけ、教えたいんですけど……駄目でしょうか?」


 無理を承知でお願いすると、宇佐美さんは少し驚いた顔をしてから微笑んだ。


「本当に誰にも内緒にして下さってたんですね。ありがとうございます。編集者としていいですよとは言いづらいですけど、絶対に内緒にして下さる親友さんくらいなら、まあ……」


 曖昧に言葉を濁したが、思いの外あっさりと見逃してくれた。


 「ありがとうございます」とお礼を述べてから席を立つ。


「では次回は十二月半ばということで」

「はい。失礼します」

「それまでにタイトルの件もよろしくお願いします」

「了解しました。何かいい案があるか考えておきます」


 書籍化にあたりタイトルを変更することになっていた。あまり大幅には変えず、しかし人の気を惹く題名を考えなくてはならない。


 鳳凰出版を出た僕は大急ぎで待ち合わせ場所へと向かう。

 地下鉄の出口を上がってすぐにあるコンビニで待ち合わせだが、一時間も遅刻してしまったのでそこにいるとは思えなかった。


 大遅刻で申し訳ない気持ちなのに走る足取りは軽い。それはきっと打合せが上手くいった喜びだけではない。それを分かち合える人がいるというのが嬉しかった。

 書籍化作業で不安やプレッシャーを感じているが、支えてくれる人がいるというのは本当に心強いものだ。


 コンビニの前に着くと瑠奈さんはガラス張りのイートインコーナーの向こうに座り、僕を見ると労うような笑みを浮かべて小さく手を振った。

 それは何気なくて、それでいて美しい青春の一場面を切り取ったような光景だった。

 

「ごめん。遅くなって」


 少し息を切らしたまま待たせてしまったことを謝ると、瑠奈さんは「ん?」と首を傾げて僕の顔を凝視した。


「え? なにっ?」

「……なんか高矢、格好良くなってない?」

「……は?」


 予想したどんな言葉とも違う第一声に愚を衝かれ、言葉を返せなかった。


「『男子三日会わざるば刮目かつもくして見よ』っていうけど、たった三時間で刮目しなきゃいけなくなるとは思わなかったよ」

「ずいぶん渋い言葉知ってるんだね」


 僕が変わったという話より、そっちの方が驚いてしまう。


「打合せでガンガンにダメ出しされていじけて帰ってくると思ってたのに意外」

「ご期待に添えなくて残念だよ」


 嫌味に皮肉で返すと、瑠奈さんは満面の笑みに変わった。


「ううん。ご期待には添ってるから大丈夫」


 そういって瑠奈さんは僕の隣に立ち、ごく自然に、本物の恋人のように手を握ってきた。


「さあ、早く行こう。遅くなると閉まっちゃうから」

「うん」


 手を繫いで歩いたのは駅の改札までだったけど、その短い時間が僕にはとても濃厚で長いものに感じられた。

 上野までは地下鉄と山手線を乗り継いで二十分もかからなかった。道中瑠奈さんの買い物のことや僕の打合せのこと、そして与市だけには書籍化のことを話すのを黙認されたことなどを話していたら、あっという間に上野の公園口改札を抜けていた。


 目的地である国立西洋美術館は上野動物園の手前にあるため、行き交う人は子供を連れた家族が目立つ。

 父親に肩車された男の子や兄弟で追いかけっこをする子供を見て、幼い頃に両親に連れられて動物園に行った記憶が蘇る。


 国立西洋美術館では現在スペインの有名な美術館の特別展を開催しているらしく、そのポスターが目につく。黒く艶光りするロダンの彫刻が置かれた前庭を抜け、瑠奈さんは常設展のチケットを購入した。


「あれ? 特別展じゃないの?」

「うん。ベラスケスも興味あるけど今日は常設展だけでいいの」


 ベラスケスが誰なのか、絵画に明るくない僕には分からなかったが、恐らくポスターに描かれていた絵の作者なのだろう。

 来場者のほとんどが特別展へと向かう中、僕は瑠奈さんと共に常設展へと向かった。


 彫刻が多く展示された吹き抜けを通り過ぎるとルネサンス期の絵が飾られたところに出る。

 その一つひとつが色鮮やかで目を惹く。

 瑠奈さんは口許に笑みを浮かべ、目許には鋭さがあるという独特な表情で絵画を鑑賞していた。時おり足を止めて僕に説明してくれることはあったが、基本的には歩きながら先へと進んでいく。


「下世話な話だけどここの絵って一枚数億円、数十億円するものばかりなんだよ。もちろん中にはそれ以上の価値があるものもあるし」

「へぇ……凄いね」

「それにこんな絵を見る為にイタリアのウフィッツィ美術館やらパリのルーブル、オルセーに行こうと思ったら何十万円もかかちゃう。それがたった数百円で観られるんだから破格の安さだよね」

「なるほど。そう思うと破格の値段だね」


 そんな考え方などしたことがなかったが、言われてみればそうなのかもしれない。

 しかし瑠奈さんはそんなことを言う割にはあまり立ち止まらず、それこそ数百円の価値しかないように先へ先へと進んでいってしまう。

 展示されている絵は先に行くにつれて年代が新しくなるようで、ルネサンスの次はバロック期となり、そこで自動ドアを抜けて次のゾーンへと進んでいく。


「こっちにお目当ての絵があるんだよ」

「お目当て?」


 瑠奈さんは公園が近くなった散歩中の犬のように、僕の腕を掴んで急かす。


「おおっ……」


 目の前に広がる景色を見て、思わず小声で息を漏らすように呟いてしまった。

 そこはいわゆる印象派の画家達の絵が展示されているゾーンだった。

 ルノワールやモネ、ドガなどの絵が壁一面に掛けられている。

 それまで写実的に進化してきた展示作品が、そこで一気に色彩に溢れる。


「ほら、この作品」


 瑠奈さんはその中でも一際色鮮やかな作品の前に立つ。

 その絵を見て二秒間、なにが描かれているのか分からなかった。失礼な言い方をすれば、瑠奈さんが普段羽織っている白衣のように、ただ絵の具が散らかっているようにしか見えなかった。

 しかし──


「あ……」


 絵を見て三秒後、そのキャンバス内から突如はっきりと木々に囲まれた田舎の小径が浮かび上がってきた。

 左右には背の高い木が青々と葉を生い茂らせ、陽を遮って木陰を作っている。小径は緩やかに曲がりながら画面奥へと続いており、そちらには木が生えていないために陽が照てらして空が見えている構図の油彩画だった。


 それは騙し絵と同じで、一度見えてしまえばなぜ先程まで見えなかったのか分からなくなるほど鮮明に存在を主張していた。


「なんか……すごい……」

「でしょ? 私が一番好きな絵なの」


 瑠奈さんは自分が褒められたかのようにはにかんで、得意気で、嬉しそうだった。


 近付いて見るとまるで点描のように絵の具が点々と塗られており、風景画には見えない。

 絵の具を塗る筆使いを目の当たりにすると確かにルノワールがこれを描いたのだという、時空を越えた迫力のようなものを感じてしまう。


「すごいよね。ここに描かれてる木の幹はまだ残ってるかもしれないけど、葉や草は絶対になくなってる。それなのに百年以上の時を経た今でもまるで生きているかのよう……」


 魅入られたように瑠奈さんは呟く。僕は黙って頷いた。


 しばらく二人で惚けたようにそこに立ち尽くして眺めていた。

 やがて瑠奈さんが部屋の中央に置かれたソファーに座り、僕もその隣に腰掛けてその絵を眺めた。


「この絵のタイトルは『木かげ』っていうの。私が一番好きな絵で、私の尊敬する点Pさんの好きな絵でもあるんだ」

「点Pさんって僕の小説のイラストを担当してくれるイラストレーターさんの?」

「そう。前にSNSで写真をアップして一番好きな絵だって言ってた」

「そうなんだ」


 だから僕のイラストレーターさんが点Pさんだと分かったときに、この絵のある国立西洋美術館に行きたいと言ったのだろう。


 僕たちはそれからも長い時間そのルノワールの『木かげ』を眺めていた。

 座ったまま、立ち上がって近付いて、逆に遠く離れて、あるいは斜めの角度からも、飽きずに絵を眺め続けた。

 不思議なもので、その絵はいくら見ていても飽きることがない。見るたびに新しい発見と新鮮な驚きを与えてくれる。



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