点P(秒速400km)
それは秋も深まるある日のことだった。
僕は間もなく第二稿を上げなくてはいけなくて、でも瑠奈さんは気まぐれで僕の家に遊びに来てしまっていて、母と妹は相変わらず生温かな目でそれを迎え入れていた日曜日。
瑠奈さんは勝手に来たくせに「それにしても暇だよねー」とか言いながら先ほどからスマホを弄っている。
小説の作業をしているから邪魔はしてこないが、どこかに遊びに行きたそうなのは間違いない。
携帯が鳴り震えて、手に取ると鳳凰出版の宇佐美さんからのメールだった。
「メール?」
「うん。編集者さんから。日曜なのに急ぎなのかな?」
「なになにー? 『出版の件、違う人と勘違いしてました。なかったことにして下さい』とか?」
「やめてよ、縁起でもない」
からかう瑠奈さんに苦笑いを返し、内容を確認する。それはイラストレーターさんについての確認だった。
週末に伝え忘れたから個人的なスマホのアドレスでメールをくれたらしいが、「ありがとう」の後ろに「ございます」ではなくハートマークが入っていた。予測変換で出たのを間違って押してしまったのだろう。しっかりしてそうでうっかりしてる宇佐美さんらしいと思わずにやけてしまった。
イラストレーターさんはどうやら『点P(秒速400km)』という人らしい。およそ名前とは思えないペンネームだ。貼られていたリンクをクリックすると画像アップサイトへと飛んだ
「おおっ……凄い……」
そこにはやたらリアルなモンスターや幻想的風景のイラストや、可愛らしい女の子の絵などが多数並べられていた。
「どうしたの?」
瑠奈さんはスマホをイジリながらから気のない声で訊ねてくる。
「僕の小説の表紙や挿絵を描いてくれるイラストレーターさんの確認メールだったんだけど」
「へぇ。三月頃刊行予定なんでしょ? 意外と早い時期からそういうのって決めるんだね。絵師の予定抑えなきゃいけないからそんなもんなのかな」
さすがにイラストのことは気になるのか、スマホから顔を上げた。
「イラストレーターさんは点Pさんって人らしいんだけど──」
「て、点Pぃいー!? 秒速400キロのっ!?」
「わっ!?」
瑠奈さんは弾かれたポップコーンのような勢いで僕の隣に来て画面を覗き込む。
「うわっ!? マジっ!? マジなのっ!?」
頬がくっつくくらい顔を寄せてきて、奪い取るかのように僕の手ごと携帯を握ってくる。
「そんなに有名な人なの?」
「知らないのっ!? 超有名だしっ! 私が一番目標としてるイラストレーターさんだよ」
いつもニヒルでクールな瑠奈さんがここまでテンション上げているのだからかなりの人なんだろう。
確かに油彩画のような背景の塗りと、そこに描かれたアニメ風の人物は以前瑠奈さんが語っていた目標とする画風だった。
「すごいっ……すごいことだよ、これはっ……高矢、すごいよっ!」
「ちょっと落ち着いて。すごいしか言ってないから」
「点P先生の絵がつくなら、いよいよ傑作に仕上げないといけないね!」
近い距離のまま歓びと決意に満ちた眼差しで見詰められる。
綺麗に通った鼻筋と赤い唇が網膜に焼き付きそうだ。
変な話だけど、瑠奈さんをここまで熱くさせる点Pとやらに少しだけ嫉妬してしまった。
「当たり前だよ。表紙や挿絵が誰であろうが最高の作品に仕上げる」
「おー、頼もしい。その意気だね」
虚勢を張っただけだけど、口にすると少し現実味を帯びる気がした。
僕の頭にしかなかった物語が文字となり、沢山の人に読んで貰った。
そして今編集者さんが僕の小説をチェックし、イラストレーターさんが姿形を創り出そうとしてくれている。
沢山の人が関わり、僕の思い描いた物語が世界を広げていく。
今さらながらそのことが奇跡のように思えてきた。
「とにかく今はやれるだけやるしかない」
「うん。頑張って! 高矢はやっぱりすごいよ。同級生だけど尊敬しちゃう」
「まだまだこれからだよ。そうだなぁ……重版されたとき、凄いって言ってよ」
「えー? 重版された時キス? ドン引き……」
瑠奈さんは口許を手で覆いながら仰け反るように僕から離れる。
「そんなこと言ってないだろっ!」
「そうやって甘い言葉を囁いて弄んでおいて、ベストセラー作家になったら私のことを捨てるつもりなんでしょ?」
「人聞きの悪いこと言うなよっ」
「じゃあ責任取ってくれるの?」
「せ、責任って……そもそも弄ばれてるのは僕のような気がするんだけどっ!?」
「バレた?」と舌を出しながら笑う。黒髪の眼鏡少女になっても中身はやはり瑠奈さんのままだ。
「あー私も点P先生と会いたいなぁ」
瑠奈さんはスマホのディスプレイに映ったイラストを見ながらごろんと寝転がる。
無駄に晒した太ももが僕の下半身をイライラさせてくるので目を背けた。
「別に僕だって会うことはないと思うよ。イラストを担当して貰うだけで」
「そうなの? 顔合わせして打合せとかするんじゃないんだ?」
「場合にもよるんだろうけど、普通はそんなことないみたいだよ」
「なぁんだ。残念」
「残念もなにも……別に僕がその点Pさんと会ったって瑠奈さんには関係ないでしょ?」
「まあそうなんだけどさ。どんな人か教えて貰うだけでもいいじゃない。顔も年齢も、性別すら分からない人なんだから」
確かにそれは一理ある。僕も小説サイトで色んな人の作品を読むけれど、書籍化した人でさえ顔出しNGの人が多くてどんな人なのか分からない。
下世話な興味かもしれないけれど、夢のあるファンタジーを書いてる人やら繊細な文章で魅せる人がどんな顔立ちなのか、興味はあった。
「そうだ。高矢、今度はいつ東京に行って出版社で打ち合わせするの?」
「え? 来週だけど?」
「じゃあ私も一緒にいく!」
「はあ!? 駄目に決まってるだろっ」
遊びで行くわけじゃない。彼女を、それも偽物の彼女を連れて打合せなんて出来るはずがない。
無茶苦茶な人だけどそういうところはしっかりしてると思っていたから、ちょっと失望した。
「違うよ。打合せはもちろん行かないよ。一緒に東京に行きたいだけ」
「東京に? そんなに遠くないんだから行きたければ一人でいけばいいのに」
「なにその言い方? ヒドくない?」
「ごめん。でも僕なんかと行くより友達といった方が楽しいんじゃない?」
「ううん。高矢と行きたいの」
なんの魂胆があるのか知らないが、瑠奈さんは真っ直ぐ僕の目を見てそう言った。
でも悪ふざけしているときの顔とは違うので無碍にも出来ない。
「僕が打ち合わせしているあいだ暇でしょ?」
「その時間は適当に買いものでもしてるし」
「ふぅん……まあ、それでいいなら」
最近の僕は瑠奈さんにプライベートを侵害されてもあまり気にならなくなってしまっている。
それがいいことなのか、悪いことなのかは置いといて、女性と関わるのに免疫が出来たのだけは確かだろう。
そこだけは感謝すべきところだった。




