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とても遅くなりました。

少しずつ更新していきます。



 旅立ちの日がもうすぐそこまで迫っていた。


 ルクレール公国への帰還――それは公爵としての帰国でありながらも、今回は決定的に意味が違った。私にとって、それは“エリス”としての人生を歩み出す、初めての旅だった。


 その隣に、リリィがいる。


 それだけで、世界の見え方は驚くほど変わっていた。


 まだ朝霧の残る庭先。露に濡れた芝の上を、慎重に歩くその小さな背中を、私は少し離れた位置から見つめていた。



「……この花、昨日よりも少し開いています」



 彼女はしゃがみこみ、一輪の白薔薇にそっと指を添えていた。朝の光に照らされたその横顔には、淡い陰と光が混じり、どこか夢の中のように美しかった。



「リリィは、本当によく見ているのね。……花の変化に、私よりもずっと敏い」



 声をかけると、彼女はふわっと肩を揺らし、こちらを振り返った。その瞳に浮かぶ小さな驚き、そしてすぐにほころぶ笑みが、胸を満たしていく。



「エリス……」



 名前を呼ばれただけで、心が甘くとろけるように温かくなる。


 つい最近まで“エリス様”と呼んでいたその唇が、今はやさしく、わたしの名前を音にする。


 このささやかな変化が、どれほど私を幸せにしてくれるか、本人はまだ知らないだろう。



「明日……出発しますね」



 リリィが薔薇に視線を戻したまま、ぽつりと呟いた。その声は、どこか風の音のように静かで、少しだけ震えていた。



「ええ。でも今回は一人ではないわ」



 わたしは、ゆっくりと彼女の隣にしゃがみこむ。そしてそっとその手を取った。



「……あなたも一緒に来てくれるのでしょう?」


「はい……もちろんです」



 リリィの指先はひどく冷たかったけれど、その答えには微塵の迷いもなかった。


 彼女の手を自分の手で包み込みながら、わたしは少し顔を寄せた。



「ルクレールでは、あなたを“恋人”として“婚約者”として迎えるわ」



 その一言に、リリィの頬がぱっと染まる。顔を赤らめてうつむいた彼女の姿が、どうしようもなく愛おしかった。



「そ、そんな……まるで……」


「まるで?」


「……お披露目みたいで……緊張してしまいます」



 私は思わず小さく笑ってしまう。けれどその胸の内にある震えは、冗談ではなかったと分かっていた。


 それでも伝えなければならない。



「お披露目なんて大げさなことはしないわ。ただ――大切な人を大切な場所へ連れて帰るだけ」



 そう告げると、リリィは小さく目を見開きそれからゆっくりと笑みを浮かべた。



「……そういう言い方をされると……なんだか、すごく嬉しくなります」



 その言葉に私の胸にもそっと熱が灯った。


 けれどその笑顔の奥には、やはりどこかにまだ“迷い”があった。


 気づかないふりなどできるはずがない。


 だから、私はそっと手を伸ばして、彼女の額に唇を触れさせた。



「……不安なら隠さなくていい。あなたが言葉にできない気持ちも全部受け止めたい」



 リリィは驚きに息を詰めるように肩を震わせた。けれど、逃げなかった。



「……本当に、全部……?」


「ええ。リリィの弱さも戸惑いも、後悔も、わたしに見せて。強くいなくていいのよ」



 その言葉に彼女の目が静かに潤んだ。けれどその瞳は、真っ直ぐに私を見つめていた。


 ――私たちは、ようやく“隣に立てる場所”にたどり着いた。


 ここから先は、手を離さずに進む。私の隣にいるのはもう他の誰でもない。


 リリィだけだ



◇ ◇ ◇



 旅立ちの朝は、静かで澄んだ空気に包まれていた。陽がまだ昇りきらない薄明の空に、ほんのりと橙の光がにじんでいる。


 中庭には早朝の霧が残り、草花の葉先に宿る露がきらきらと輝いていた。


 エリスは馬車の前に立ちながらリリィを待っていた。


 身なりはいつも通り端整に整えているはずなのに、今朝の彼女はどこか落ち着かない様子だった。


 小さく息を吸い、胸元に手を当てて自分の鼓動を確かめる。


 リリィと共に帰るルクレール。


 それはかつて誰のことも信じきれなかった自分が、“誰かと生きていく”と決めた場所へ帰るということだった。


 足音が響いた。


 振り返るとリリィがゆっくりと歩いてくる。


 薄い紺色の外套に身を包み、淡い銀の髪を後ろでゆるくまとめたその姿は、どこか旅人のようであり、けれどとても美しかった。


 彼女が来てくれた――その事実だけで、胸の奥が温かくなる。


「おはよう、リリィ」


「……おはようございます、エリス」


 朝の挨拶を交わすだけでふと胸が詰まる。


 彼女の声がこれからの日々の始まりを告げているようだった。



「……準備は、できた?」


「はい。……あとは、心の準備だけです」



 くすっと笑うリリィにエリスも微笑み返す。



「心の準備なら、私が横にいるから心配いらないわ。……全部一緒に進めばいい」



 エリスが手を差し出すとリリィは一瞬ためらい、けれどすぐにその手を取った。


 その瞬間ふたりの世界に朝日が差し込む。


 黄金に照らされたその手はもう離れない絆のように、指先から確かに繋がっていた。


 馬車の扉が静かに開きふたりは中に乗り込んだ。


 座席に並んで腰かけたリリィはそっと外を見つめる。


 けれどその横顔にはどこか安らぎが宿っていた。



「……この街、思ったより名残惜しいですね」


「ええ、わかるわ。……けれど後悔はしてないでしょう?」


「はい。……わたしはエリスと一緒に行きたいと思った。それだけで十分です」



 リリィの言葉はとても静かでそれでいて揺るぎない。


 エリスはそんな彼女の髪にそっと触れ、指先で頬にかかる一房を耳にかけた。



「ありがとう。リリィがいてくれるだけで、私はもう十分に幸せよ」



 馬車がゆっくりと走り出す。


 石畳を踏みしめる音が遠ざかっていき、屋敷が少しずつその後ろに消えていく。


 リリィは名残惜しそうに最後の一瞥をくれたあとエリスの肩にそっと身を寄せた。



「……少し眠ってもいいですか?」


「ええ。肩を貸すわ」



 リリィが小さく笑いそっとエリスの肩に額を預ける。


 その温もりと重みが心の奥に確かな安心感をもたらしてくれる。


 旅はまだ始まったばかり。


 けれど、その隣に彼女がいるというだけで、道の先にどんな未来が待っていてもエリスは恐れることがなかった。


 やがて馬車は森の中へ入り柔らかな木漏れ日が窓辺に踊る。


 エリスは静かにリリィの肩を抱きながらそっと目を閉じた。


 この温もりを永遠に守りたい。


 そう思いながら――ふたりの未来へと、馬車は静かに進んでいった。



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