HIRUKO ウラ篇 其の弐 ねじれ
初めての記憶は、母さんの子守歌。
そして、闇に巣くう者達の姿・・・
「天照る東の果て
深山幽谷 神木そびえ
霞湧きて 草蒼く
黄金の雨 地を潤す
神の雷 宙より至り
大地引き裂き 海を割る
民の嘆き 空に届くや
生玉 死反玉 足玉 道返玉
一二三四五六七八九十百千万 瓊音
布瑠部 由良由良止 布瑠部
天磐船来たりて
忘却の地に 我ら運ばん」
母さんの子守歌が遠くから聞こえる。
風の動きにあわせカーテンが揺れ、赤ん坊だった僕の手の上で光が踊った。
その温かな光を掴もうと僕は手を伸ばした。
そうやって、天に向かって伸ばした手の影に。
規則正しく並ぶベットの桟から伸びる影に。
温かで柔らかな布団の間の影にさえ、そいつらは潜んでいた。
光が差せば影ができる。
その光が強ければ強いほど、闇の色も深くなった。
その何かは闇の中を這い回る。
そして隙あらば此方へ来ようと、ネズミのようにキイキイと鳴き、鈍く光る目玉で僕の事を睨んだ。
僕は泣いた。
母さんが僕を抱き上げて、温かなおっぱいを含ませてくれるまでずっと。
母さんがやって来るとそいつらは慌てて闇の中へ潜り込んでいった。
母さんが子守歌を唄いながら、僕にお乳を与えている間、そいつらは息をひそめて闇の中にじっと隠れていた。
それを見た僕は安心して、再び柔らかなまどろみの中に落ちていく。
そんな日々が繰り返された。
両親は、配給所の仕事をしてた。朝食を近所に配る事から始まる配給所の朝は早い。
目が覚めたとき、隣のベットに両親がいたことはなかった。そういえば、病気で寝込んでる姿も一度も見たことがない。
僕はよく熱を出しては寝込んでたけど。
六歳になって初等学校に入学しても、季節の変わり目や、急な雨に打たれてずぶ濡れになった時なんかお決まりのように熱が出た。
大雪ではしゃいで遊んだ翌日なんか確実。
そういえばヴォルフと初めて出会った時も熱が出た。それでもフラフラしながら餌を運んだ。じゃないと、あいつが死んじゃうかもしれないと思ったし、子供なりに必死だった。
小さい頃から病弱で、今と同じくやせっぽちのチビで。
イエティのハルがやって来るまでは、病気の時に一人で寝ているのが本当に心細かった。
天井のシミが、お化けの顔のように見えて凄く怖かった。
でも、いつの間にか闇の中に潜むものは見えなくなってた。
小さい時は、天井のシミが『顔みたい』じゃなく本物の顔になって僕に向かって迫ってきてたから。
何時からだったかな?ジュニアスクールに入学した頃はまだ見えてたから・・・・・・
九歳の時にハルが来た時には、もう見えなくなってた。
ホント、何時からだったんだろう?はっきり思い出せないな。
でもまだ、そいつらが見えてた時。
特に僕が物心ついてからは、あいつらどんどん大胆になってきて、平気で闇から這い出しては僕の髪を引っ張ったり、体にまとわりついてつねってきたり。足をすくわれて転んだりなんて事はしょっちゅう。
でも、ある日を境にピタリといなくなった。
どうしてなのかはよく解らない。それでもすごくホッとした。あいつら段々エスカレートしてきて本当に怖かったんだ。
あの頃は幸せだった。何の心配もなかった。
毎日学校へ行って、帰ってきては友達と遊んでた。虐められてもいなかったし、友達もたくさんいた。
その時僕が住んでいた地区は、今いるここらとは違って隣近所や人間同士の暖かさが残っている地域だった。
ここらみたいに無気力・無表情じゃなくって、みんなもっと明るくて生き生きしてたような気がする。もっとも子供時代の記憶だから美化してるだけかも知れないけど・・・・・・
でも、ただひとつ嫌だったのは、月に一度、配給所に検査員の来る日。
色んな決まり事を守ってるかチェックするために、役所から検査員が来るんだ。
何でかわからないけど、検査員がやって来た日は父さんも母さんもやけにピリピリしてた。大体あの人達、何時もいきなり来るんだ。忙しかろうが何だろうがお構いなしに。
それに僕、役人の人が声を荒げて父さんや母さんを怒鳴りつけてる姿を何度も見たことがある。
役人の人が何を怒っていたのかは知らない。
だけど、父さんも母さんも怒られるような事なんて何もしてないよ。
配給所の中は、何時でも掃除が行き届いていてピカピカだったし、父さんや母さんの作る食事は、配っている近所の人達にも美味しいって好評だった。
他所では、配られた材料を横流しして自分達の懐に収める奴もいるみたいだけど、父さん達はそんな事絶対しない。その事は絶対に誓える。
大体、そんな事してる人達は見るからに羽振りよさげだったしね。子供の目にもそれはハッキリ解った。
でも、そんな人達が罰せられることなんてない。賄賂を出せば役人達はうるさい事言わないんだ。
父さん達はそんな事ができない人達だったもの。だから怒られていたのかな?でも、何で怒られていたのかは本当に解らない。
あの頃、父さんは忙しい仕事の合間の時間をみつけて、キャッチボールをしてくれた。
そして僕は、お腹がへると仕事場へ行って、母さんにおやつをねだった。
今思い出すと、母さんの作ってくれたおやつ、どれもすごく美味しかった。
もう一度、食べたいな・・・・・・叶わない夢だけど・・・・・・
大きな鍋や釜、壁にはめ込まれた巨大な竈。夏なんて調理場の中は、とんでもない暑さになって二人共汗びっしょりになって一生懸命働いてた。
それでも、母さんは、そんな忙しい仕事の合間に、地区の人達と野菜畑の世話を欠かさなかった。
みんなで話し合って、D9地区共同の野菜畑を作ってたんだ。
小さいながらも四季折々の色んな野菜が採れて、僕の家の食卓にも並んでた。新鮮な野菜はとっても味が濃くって美味しいんだ。工場で作られる合成食材とは比べものにならないよ。
母さんもいつもそう言ってて、合成じゃない食糧をなるべく手に入れてようとしてた。
そして僕たちの地区では、ニワトリも近所の人達と一緒に共同で飼ってた。
だから、貴重品の卵を僕らは食べることができたんだ。あの卵も美味しかったな。黄身がプルンと盛り上ってて、全然生臭くないし薬臭くもないんだ。
こんな話してると、お腹へっちゃうね。
でも、僕が十歳の時・・・・・・あの幸せな時間は、ガラスのように砕け散った。
あの日、父さんと母さんは、いつもみたいに各家庭に配給する食事を車に積み込んでいた。
学校から帰ってきた僕は、車に乗り込もうとする母におやつをねだった。
「テーブルの上に蒸かし芋があるから食べなさい」そう言って笑った母さんの顔。
父さんは、「遊ぶのもいいけど宿題忘れるなよ」そう言いつつ、自分もかつてそうだったんだという共犯者の笑顔を浮かべて車のキーを回した。
次の瞬間、目の前の光景は飴のように引き延ばされた。
鼓膜を貫き、脳に突き刺さる破壊音。
二人の笑顔が、一瞬で僕の目の前から消えた。
突然、後から突っ込んできたトラックによって、両親の車は見るも無惨な形へと変化した。
両親の肉体は、ぺちゃんこに潰された車と判別がつかないほど密着し、ぐちゃぐちゃの肉片と化した。
辺りに漂う、血とオイルの匂い・・・・・・
どのぐらい時が過ぎたのか・・・・・・
その現実に気付いた僕は絶叫し、両の手を血だらけにして、車と二人の肉片とを引きはがそうとした・・・・・・
事故に気づいたハルが、半狂乱になって暴れる僕を止めるまでずっと・・・・・・
烏の羽色をしたパワードスーツを着こんだジャンダルム達が、いつの間にか集まっていた。彼らは、黒煙を上げて燃え始めたトラックを見つめ静かに立ってた。
そんな中で、僕はハルに抱きしめられたまま泣きじゃくってた。
それから、裁判が始まるまでの間、ハルと一緒に近所の人達の世話になった。
みんな、自分達の生活でもカツカツなのにすごく親切にしてくれた。
それでも、夜になると悪夢が現れた。
目の前で、為す術もなく父さんと母さんが潰される。リピートされるその光景に、自分の無力さを嫌と言うほど知らされた。
汗びっしょりで飛び起きた。その度にハルは心配そうに僕を見つめ、優しく抱きしめて一緒に寝てくれた。
二人を轢き殺した犯人からは薬物反応がでた。
何故、トラックの対物障害回避システムが作動しなかったのか。
その理由も、はっきりとは解明されなかった。
両親の命を奪ったその罪は信じられないほど軽かった。
死刑にしても足りないと思っていた犯人は、たった十五年ほどの罪にしか処されなかった。
信じられなかった・・・・・・
喉の奥から熱い固まりがこみ上がってきた。獣のような声が漏れ出た。
目の前が真っ赤に染まり、脳の中がスパークしたように閃光が走った。
裁判所でその判決を聞いた直後の事は覚えていない。
次に覚えているのは、薄暗い部屋の長椅子の上。
頭が重くて、誰かにもの凄い力で締め付けられているみたいに痛かった。
喉に何かが詰まったようで、息をするのもやっとだった。起き上がろうとしたけど、鉛が体に巻きついているみたいに重かった。
どうも、判決を聞いた直後に気を失ったらしい。
目の前にいた、ジャンダルムの第七部隊隊長だと名乗った人がそう説明してくれた。部屋の中には甘苦い香りが漂ってた。
「お前は孤児院に行くことになった」隊長は淡々とそう告げた。
僕は声を出そうとした。
でも、声は出てこなかった。
僕は声もなく泣いた。
目の前にいた二人を助けられなかった罪の意識に・・・・・・
そして、自分だけが生きている後ろめたさに・・・・・・
声を失ったのはその罰だと思った・・・・・・
唯一の救いは、判決が下されたと同時に犯人が心臓麻痺によって死んだと聞かされたこと・・・・・・
「坊主、神はちゃんと裁きをしてくれたんだ・・・・・・」
可哀想に思ったのか、そう言って、隊長は僕の頭をくしゃくしゃとなでた。
でも、電撃に触れたように慌ててその手を引っ込めた。
そして、不思議そうに僕の顔を見た。
それから、急に外に出て行った。
でも僕は、神の裁きなんていらないって思ったよ。犯人が死んだからと言って、父さんと母さんが戻ってくることなんてないんだから・・・・・・
それからは、悪夢のようだった。
一度も家に帰ることなく、役人の手によって手続きがされて孤児院へと放り込まれた。
近所の人達にも、ハルにも会うことすらできなかった。
役人に、家もハルも他人のものとなった。もう君の家ではない。事務的にそう告げられた。
その後連れて行かれた孤児院で、僕はおざなりの身体検査を受けた。
その医者は、言葉を発する事ができなくなった僕に、身体的な病理現象は見られない。精神的なものでしょう。さらりとそう言った。
いつか、時が解決するでしょう、と。
孤児院の環境は最悪だった。
衛生状態も酷く、食べるものもろくろく無い。寝る所は堅い床の上に、薄っぺらな布一枚を渡された。
誰もが飢えていて、弱い者から取り上げては自分の腹の足しにしてた。新参者でしゃべることもできないヒョロヒョロの僕なんて真っ先に狙われた。
入った初日から、水しか飲めない状態が三日間続いた。
そして、あっけなく僕はぶっ倒れた。
両親が亡くなった心労。環境の激変。
そして、同じ孤児達の陰険ないじめに、絶え間ない餓え。
重ねて、日中課せられる神への奉仕と呼ばれたきつい肉体労働がとどめを刺す。
あっという間に僕はぺしゃんこに潰された。
目が覚めると、そこは院長室だった。
初めて来た時に、一度だけ通されたことがある。
そこには、優美な曲線を描く家具が上品に配置され、柱時計のような形のディスクオルゴールがゆっくりと回りながら、柔らかな音を響かせていた。
そして、明るい光が差し込む窓を背に重厚な机が置かれていて、院長先生が座っていた。
院長先生は黒いゆったりとしたローブのような服を身にまとっていた。グレーの目が細められ、低いバリトンの声が優しく響いた。
「ようこそ子羊の園へ」
とても穏やかで優しそうで。その時は、この部屋の外があんな地獄の世界だなんて思ってもみなかった。
目覚めたばかりのぼんやりとした頭で辺りを見回すと、深いボルドー色をしたカーテンが閉められていて部屋の中は薄暗かった。
すべすべした光沢のある布張りのカウチソファーで横になっていた僕は、ゆっくりと起き上がった。
「哀れな子羊には、この施設は地獄以外の何者でもなかろう」
バリトンの声が響いた。
薄暗い部屋の奥、暖炉の前の背を向けている椅子の所からその声はした。
「人は醜い・・・・・・
例え子供の世界でも・・・・・・
この施設に来た最初の頃、私も崇高な理想に燃えていた。可哀想な迷える子羊たちを救う手助けをするのだと心底思っていた。
しかし、長年この仕事をして私が悟ったことが一つある。
人は優しい者、善なる者からから死んでいく・・・
それを嫌と言うほど見てきた。
配給の食糧など限られている。
全てを平等に分ければ、皆が餓えて死ぬ。
だから人を蹴落とし、抜け目なく立ち回れる強者だけが生き残る。
弱き者の骸を踏み台にして・・・・・・
こんな仕事をしているとね、人間どもの醜さ、馬鹿さ加減がほとほと嫌になるんだよ・・・・・・
そして、疲れ切った私には癒やしが必要だ。
そう思わないかね?」
院長先生はゆっくりと立ち上がった。今度は真っ白なローブを身にまとっていた。慈愛に満ちた微笑みがその顔に浮かぶ。そして、真っ白な鳥が羽を広げるようにその手が大きく広げられた。
「汚れない魂を持つ生け贄が、我が手によって天の神へと捧げられる。
私は、君のような弱き者を救うためにこの世に使わされたんだよ」
僕の目の前に歩み寄る院長先生の顔には、変わらず優しい微笑みが浮かんでいた。
ずっしりとした大きな手が僕の肩にかかる。
「わかるかい?野良犬どもはこの地獄で好きなだけのたうち回ればいい。
しかし、君のような哀れな羊は、遠からず奴らに食い殺される運命だ。
でもどうせ死ぬのなら、私がこの手で神の御許に送ってやるのが幸いというものじゃないか。
そうは思わないか?」
意味がわからなかった。
院長先生の手が、僕の首へとさし上げられた。そして、その手にグッと力が入った。
「可愛い君には真っ白なお墓を作ってあげるよ。
そして、他の哀れな子羊たちと同じように、毎日花を捧げ、悲しみの涙を注いであげよう。
嬉しいかい?
嬉しいだろう・・・
そんな、悲しそうな顔をするものじゃないよ。
可哀想な君がどうなろうと、詮索する者など誰もいない。
私が、ここの神なのだから・・・・・・」
遠くなる意識の中、院長先生の顔が醜く歪んだ。
歪みつつ、口の端が引きつれたように上がっていく。
「ああ!私の手の中で命の火が消えていく・・・・・・
生殺を握る神のみぞが知りえるこの快楽・・・・・・
神よ!感謝します!」
目の前にある院長の顔が、吐き気を催すほどおぞましかった。
闇に潜む者達の醜い顔を久しぶりに見た気がした。この顔を最後に見ながら死ぬのは嫌だと思った。
でも、お腹がすいて、身も心もボロボロで、抗う力のひとかけらも残ってなかった。
もう死ぬんだ・・・・・・
意識が遠くなっていった。
「てめえは、神なんかじゃねえ・・・・・・
ただの、醜い快楽殺人者だ・・・・・・」
途切れそうになった意識の端で声が聞こえた。
首にかかっていた圧力がふっと軽くなった。
そのままドサリと床に転がり落ちる。咳き込んでむせかえった。
何も食べていないのに、急激に胃液が上がってきてその場に吐いた。
妙な雰囲気を感じた。
見上げると、院長はその場に仁王立ちになっていた。口を大きく開けて白目をむいて。
いきなり院長の首の後ろから大量の血が噴き出した。美しいダマスク柄の壁紙に醜いシミが拡がっていく。院長は、そのままゆっくりと仰向きに倒れていった。
すくんで動けなかった。目を見開き、震えながら腰が抜けたように僕はへたり込んでいた。
バシンッと大きな音がして、窓が開いた。
重たいカーテンが翻る。
真っ暗な夜空には、まん丸の月が出ていた。
信じられないほど大きく、銀色に光っていた。
その月の光が僕を照らした。
ハッと我に返った僕は、慌てて窓を乗り越えると庭に出た。
強い風が吹いてきた。
僕の前の草を分けるように進んで行く。それを追うようによろめきつつ走った。
目の前には優雅な曲線を描きながらも、固く閉じられた鉄格子の門と、それに続くガラス片の植え込まれた高い塀。
堅く幾重にも鎖の巻き付けられた錠前が、ここから何人も出ることを拒むかのようにガッチリとガードする。
しかしその鎖は風が吹き通るのと同時に、いとも易々と引きちぎられた。そして門は、外に向かって大きく開いた。
その後はめちゃめちゃに走った。
走って走って街の外れの所までやって来ると一息ついた。
そこはスラム街との境にある市場の入り口だった。露天の脇に積み重なる樽の中に潜り込むと、疲れ切っていた僕は眠りに落ちた。
目が覚めると、地味な服装の人の良さそうなおばさんが樽を覗き込んでた。
丸々太ってって、その腕は美味しそうな白パンみたいに見えた。
お腹がグウッと鳴った。
「おやまあ、坊ちゃんどうしたんだい?」
僕は、今までの状況を地面に書こうとした。口のきけないことを察したおばさんは、何処からか紙とペンを持ってきてくれた。
おばさんは大げさな身振りで同情してくれた。そこで僕は、恐る恐るD9地区に送ってもらえないか頼んでみた。
おばさんは、にこにこ笑って「かまわないよ」って言ってくれた。そして、お腹がへっているだろうから家でご飯を食べていったらって言ってくれた。
おばさんの家は、すごく豪華なお屋敷だった。地味なおばさんと、この豪華なお屋敷が妙に釣り合わない感じがして変な感じだった。
庭には薔薇の花が咲き乱れてて、僕と同じぐらいの少女が東屋の下で遊んでいるのが遠目に見えた。
おばさんの家でご飯を食べたら急激に眠くなってきた。
どうしても抗えない。変だと思った次の瞬間にはもう何も解らなくなった。
次に目が覚めたとき、僕は汚い檻の中だった。孤児院よりもっと汚い。
汚物の匂いで目がチカチカした。
悪夢を見てるみたいだった。
目を覚ます度にどんどん状況は悪くなっているんだから・・・・・・
檻の外では胸や腕に入れ墨を入れた男達が、酒を飲み、女を侍らしカードをしながら騒いでいた。
辺りにタバコの煙が充満してて、変な匂いが漂っていた。
「おやおや、坊ちゃんお目覚めかい?」僕に気づいた片目の潰れた男がにやにやしながら声を掛けてきた。
「可哀想にな。よりにもよって人買いのジョカに見つかるなんてよ」男はひゃっひゃと下品に笑った。
「あいつもさ、昔は売り飛ばされてきた哀れな境遇だったのによ。のし上がって今じゃここらのシマ一帯を取り仕切る女帝だよ。坊ちゃん。お前もそれを目指してみるかい?」
「何言ってんだよ。あいつの頃は、まだロボトミー手術が確立してなかったから、人間としての意思が残ってたけどよ。今じゃもう無理だろうが」女を侍らしてカードを繰っていた男が、床に痰を吐き捨てながら面白くなさげに言う。
片目の潰れた男は、意地悪く目を光らせながら笑った。
「そうだよな。でも、大丈夫だぜ。ロボトミー手術を受けちまえば、もう悲しいとか辛いとか一切感じなくなるからよ。
それでも、せいぜい、良いご主人に買われることを祈るこったな。少しでも長生きできるようにさ・・・・・・
中にはよ、オレ達から見たってぞっとするようなご趣味のヤツもいるからよ・・・・・・」
まさに悪夢のようだった。涙が溢れてきた。
「おやおや、可愛い顔が台無しじゃねーかよ。泣かすんじゃねーよ」
「でもよ、コイツの泣き顔って、えらくそそる光景じゃねーか」酒瓶を煽りながら檻に近づいてきた、痘痕だらけで前歯の抜けた男が舌なめずりするように言った。
「また、悪い趣味が出やがって。商品に手を出してみろ。ジョカにこっぴどくやられるぜ」
「かまうことねえよ、わかりゃしねえさ。どうせ手術を受けちまえば、木偶の坊みたいになっちまうし。大体、コイツ口がきけねえんだろ。益々好都合じゃねえかよ」
男は下卑た笑い声を上げ、鍵を開け中に入ってこようとした。
「坊ちゃん。どうせ長い命じゃねえんだ。生きている間にせいぜい楽しもうぜ」
僕は恐怖で後ろの湿った壁に貼りついた。
いきなりガチャンと窓の割れる音がした。シュウシュウと煙が部屋中に充満した。
刺激臭が鼻と目と口に突き刺さった。涙と涎と咳がいっぺんに出てきた。
男達は叫び声を上げ、外に出ようと戸口に殺到した。何本もの赤いレーザが、煙に当たって交差した。
小さく乾いた音がパンパンと響く。うめき声や罵倒の声がして、しばらくすると静かになった。
僕は、咳き込みながらも口をふさぎ、涙を流しながらその場にうずくまっていた。
煙の中から、ガスマスクをつけたジャンダルムの隊員が現れた。
「隊長、目標確保しました。これより速やかに退去します」男は通信機で誰かと話しているみたいだった。
トラックの中で、僕は中和剤を打ってもらってやっと涙と激痛から解放された。
僕は、再びジャンダルムに保護されたんだ。
それからは、遠い親戚を転々した。
今は、奨学金を手に入れて、叔父の家に身を寄せさせてもらっている。
でも、心に大きな虚無感を抱え、言葉も失い、人付き合いが苦手になってしまった僕にとって、叔父の家も学校も、安らげる場所なんかじゃなかった。
そして、叔父達にとっても、しゃべることも出来ず、厄介者でしかない僕は迷惑以外の何物でも無いみたいだし。
でも僕、あんな叔父さんがいるのなんて全然知らなかった。いきなり役所で今日からここに行きなさいって言われて。
伯父さん達もすごくよそよそしいしね。
本当に、寂しくて心細かった。
でも、今は違う。
ヒルコ達がいるもの。
おかしいって?
何が?
本当だ・・・・・・
僕、普通に話せてるよね。
あれ、変だね。
どうしてだろう?
何でかな・・・・・・




