その肆 善の裏は悪 悪の裏は善
放課後、夕焼けが赤黒く空を染めていた。
プールサイド脇を一人帰るイソラの肩に手が置かれた。
「イソラ。ちょっと顔貸してもらおうか」
振り向いたイソラの目にノアとケイ・リーの笑顔が映った。
ヒルコにもらった鈴を鳴らす暇もなく口に丸めた布が押し込まれ、その上に素早く粘着テープが貼られた。
手足にもテープがグルグルと巻かれ、そのまま軽々と担がれる。
ジタバタと体をくねらせるイソラにかまうことなく、ノア達はプールの建物へと消えていった。
古めかしい古民家。黒電話がけたたましく鳴った。
「はい、タマイシです」
「は~いヒルコちゃん。古典的な台詞だけど、イソラは預かってる。助け出したければ学校のプールまでおいでよね」楽しげなアンドリューの声が受話器の向こうから響く。
「イソラがどうなろうと、私には関係ない・・・」ヒルコは無愛想に答えた。
「そっか~そん時はイソラ一人が俺達と楽しく遊ぶことになるけどね。俺達は、別にそれでもかまわないけど、イソラにとってはさ・・・辛いことになるんじゃないかな?じゃ、また後ほど」電話はそのままぷつりと切れた。
思案顔でしばしの間、受話器を耳に当てたままヒルコはその場に立っていた。
「ど~した。眉間の間に皺が寄ってるぞ」廊下の向こうから風呂上がりのハクが、髪からしずくを滴らし、鼻唄を口ずさみながらやって来た。
「イソラの馬鹿者がクラスメイトの馬鹿者に拉致された・・・」
「お前ね、自分の半身を馬鹿者扱いかよ。でもさ、今どきのお子様はやることがえげつないな。拉致監禁かよ」
「あんな弱い奴を自分だと思いたくもないが、放っておいて傷つけられるのも自分がやられるようで腹が立つしな。
でもちょうど良かった。お前、私を乗せて学校までひとっ走りしてくれ」
「嫌だね!綺麗なお姉ちゃんは乗っけても、お前みたいなションベン臭いガキなんて狙い下げだぜ。
せっかくシャンプー、リンスにコンディショナーまでしたのによ。ほら見ろ、この輝き!」
銀に輝く髪をかき上げるハクを無視して、ヒルコは言葉を続けた。
「長距離を走るのは足に響くから嫌なのを知ってるだろうが。ジジイのしごきなら歯を食いしばっても耐えるが、あいつらごときの対応など省エネですませたい」
「半身を迎えるつもりか?」
「いや・・・まだ、正直迷っている。
一つに戻って、私でいられるのか、はたまたアイツになるのか、もしくは・・・
だから、今はまだアイツを迎える心づもりなどさらさらない」
「おや、珍しく気弱になってるんじゃね~か!迷える子猫ちゃんか?
迷ってるなら、この俺様も一緒にいてやろうか?」
ハクは面白そうに、鋭い犬歯を見せ、にやついて見せた。
「いや、誰かにお前の事を見られても面倒だしな。
ジジイのかけた隠れ身の呪もどうも万全ではなさそうだ。奴らに私が此処に来ていることは筒抜けかもしれん。
現にイソラには盗聴器が仕込まれていた。あいつらがイソラの事を何処まで知っているのか、はたまた全くの別件なのかは知らんが・・・
とりあえず、今日は奴を助け出すだけにするから、お前は私を送った後は帰っていいぞ。
人間相手などそんなに手間な事態ではないしな」
「ちぇっ、つまんね~の。体がなまっちまうぜ」
ハクは、両の手を左右に伸ばし背骨をパキポキといわせた。
そして、その身をふるりっと振ると白銀に輝く白狐の姿へと変じて見せた。
真っ白な毛並みに、胸元から右前足に向かって赤い文様がとぐろを巻く。
ヒルコの首の後ろを軽く咥えると軽々と背中へと放り投げる。
ヒルコを乗せ、ハクは闇の色の迫る空へと駆け昇った。
「お前、状況を舐めすぎてる事があっから、気をつけろよ。
高ビーな態度も大概にしやがれだぜ。ジジイにもよく言われてるだろうが」
学校の塀を跳び越え、ヒルコを降ろしたハクはそう言い残すとくるりとその身をひるがえし夜の闇へと消えていった。
ヒルコは暗くなった運動場を横切り、プールへとやって来た。
プールの奥の観客席にアンドリューとマナが寄り添い、クスクスと笑いながら座っているのが見えた。
「あら~イソラ君。君を助け出すために白馬に乗った王子様がいらっしゃったよ。感動のご対面~」
粘着テープで縛られ、床に転がされていたイソラが引き起こされた。
アンドリューは口を覆っていた粘着テープを勢いよく剥がし、ニヤリと笑うと思いっきり腹を殴った。 イソラはげふげふと咳き込み、体をくの字に曲げて再び床に崩れ落ちる。
ヒルコはギリッと唇を噛んだ。滲み出た血を指先につけ床に印を書き記す。
「この地におわします地主神、我が前に出で我を助けたまえ・・・
ひいふうみいよいつむななやここのたり・・・」
唱えながら印を切る。地面が小さくカタカタとゆれ始めた。
「出でよ螭龍!」
召喚に答え、プールの水面を割り何かがアンドリュー達目がけ一直線に走った。
濡れた灰色の背びれだけが水面からにゅっと突き出ている。
それは堅い床面に当たってもなんら躊躇することもなく、水面を進むがごとく突き進んでいった。
慌ててよけたアンドリューとマナが、ついさっきまで立っていた場所の椅子が、砂煙と共に一直線にバキバキと派手な音を立てて割れていく。
それは二人を通り越すとくるりと方向転換して、再びアンドリューに迫ってきた。
「うわっやべっ!」アンドリューはイソラもマナもそっちのけで慌てて逃げ出した。
「置いてくなんてありぃ?」マナのあきれた様な叫びがその背中に投げつけられた。
ヒルコの背後のシャワー室の影から、ノアとケイ・リーが、ヒルコを押さえつけようと飛び出して来た。
しかし、とても女とは思えない力に易々とはね飛ばされ、壁へと叩きつけられた。
ヒルコの注意が二人にそれた隙に、ヒルコの背後からユーリィがそっと忍び寄ってきた。
ヒルコの髪をつかみ引きずり上げる。足元の印が踏みにじられた。
ユーリィの手首からヒルコの髪の毛がヘビのように這い上がった。首へと巻き付き、電撃が流れる。白目を剥き、ユーリィの体が大きく反り返った。
少し息の乱れたヒルコに向かい、シャワー室の影に隠れていたジオがナイフを振りかざし迫る。ナイフの切っ先がギリギリ髪に触れ、青い火花を散らしながら黒髪が空中に舞った。
ジオに気を取られていたヒルコの背後に、いつの間にかアンドリューが立っていた。
「THE END・・・」
彼の手袋をはめた左手がガッチリとヒルコの髪をつかみ、右手のアーミーナイフが髪の一部をザックリと切り取った。
ナイフがヒルコの髪を薙ぎ払った瞬間、青い電撃が走り、アンドリューは壁へと勢いよくはね飛ばされた。
しかし、髪を切られたヒルコの体もその反対側へと飛び、暗いプールへと落ちていく。
大きな水しぶきが上がった。
遠くに雷鳴の音。
泡だけが水面にあがってヒルコの姿は何処にも見えない。
喉を押さえ、咳き込みながらユーリィはヨロヨロと立ち上がった。
「落ちたぜ!」
「水が濁ってるし、藻も生えてて何にも見えね~よ」
五人はプールを覗き込んだ。
滝のような雨が降ってきた。
「水しぶきで余計に見えないぜ」
「アンドリュー、これってやばいよ!逃げようよ」マナがイソラを引きずるようにして近づいてきた。
「イソラ!おいお前!助けに行けよ!」
アンドリューは、イソラを縛っていた粘着テープをナイフで切り、前に押しやった。
イソラは、大きく目を見開き、信じられないといった顔つきでふらふらと前に歩を進めた。
震える唇が動く。
最初、声にならなかったその声はだんだんと大きくなり、最後には血を吐くような絶叫と変わった。
「ヒルコォッッー!!!」
イソラはそのままプールへと飛び込んだ。腐ったような緑の水。一度水面に顔を出し、ゲホゲホと咳き込む。しかし、そんな事にかまうことなく再び潜った。
何度目かに潜った時、揺らめく藻の間からぼんやりと光るものが見えた。
濁った水を通し、何処からか腹に響くような低い重低音が響いてくる。その光に向かって水をかき分け近づいていくと、淡い光に包まれプールの底に沈んでいるヒルコの姿が見えた。
胸の上で小さな銅鐸を握りしめ、それが低い音で響いている。その目は固く閉じられピクリとも動かない。
「ヒルコ!ヒルコォ!」イソラは狂ったようにヒルコの名を呼び水の上に引き上げると、プールサイドへとその体を引っ張っていった。
ノア達が青い顔をして手を貸した。
イソラは、プールサイドでヒルコの肩をつかみ、名前を呼びながらその体を激しく揺すった。
それでも動かず、ぐったりしたままのヒルコの胸を押し人工呼吸を繰り返す。
恐る恐るアンドリュー達近づいてきた。
激しい雨はいつの間にか止んでいた・・・・・・
ヒルコの手が力なくだらりと開き、握っていた銅鐸が転がり落ちた。
低い音で鳴り続けていた銅鐸の音が床に転がると同時に耳をふさがなければならないほどの大音響となった。
アンドリュー達は耳をふさぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「お前らが・・・お前らが・・・ヒルコを殺した・・・」
動かないヒルコを抱きしめ、うつむいて嗚咽していたイソラの口が裂けはじめた。
その口からは、うめきともうなり声ともつかない声が漏れる。
その顔がぞわぞわと前面に伸びはじめ、大きく裂けつつある口からは牙が覗いた。
鋭い牙を伝って、粘りをもったよだれが流れ落ちる。
そして、次第にイソラの体を真っ黒な毛が覆いはじめた。
みるみるうちに獣の姿と変化していく。
アンドリュー達は恐怖の目でそれを見つめた。
半人半獣の姿となったイソラが四つん這いになり雄叫びを上げると、その響きでプールサイドのコンクリートに亀裂が広がり砂塵が巻き起こった。
砂煙が舞う中、四つん這いのままアンドリュー達を見るイソラの目が燃えるように赤く輝いた。
「ヒィルコは・・・死ぃんだぁ・・・・・・貴ぃ様らぁも、死ねぇっ!」
酔っ払ったような拙いセリフ。
再び、夜空を切り裂くような咆哮と共に、一瞬のうちに風を巻き、真っ黒な狼の姿へと変ったイソラの姿がそこにあった。
薄暗い学校の校門の前で、キョロキョロしながらダイキは立っていた。
そこに自転車に乗ったサラスヴァティが通りかかった。
遠くで小さく雷鳴
「ダイキ!ちょっと~あんた何やってんのお~?」
「いや、なんか変な胸騒ぎがしてさ。何だか誰かに呼ばれてるみたいな・・・」
「えっ?あんたも?実は私も。今、琵琶のお稽古の帰りなんだけど、ちょっと遠回りしてここ来ちゃった」
「えっ?琵琶?何それ?」
「楽器よ楽器。いにしえの弦楽器。裁判官目指してるけど、普段は民族楽器弾きで事件が起こったら弁護士ってのも良いかも?裁判官より弁護士の方が自由に動けるしね」
「お前はアホか!そんなドラマみたいな弁護士いるかよ」
「いいじゃない。人生はよりドラマチックな方が面白いわよ。今のご時世、弁護士だけじゃ食べていけないかもしれないし、普段は琵琶やシタール、ヴィーダを見事に弾きこなし、困っている人が現れたら探偵として見事に事件を解決、裁判になれば正義の弁護士として大活躍ってね」サラスヴァティは片目をつぶって見せた。
滝のような雨が降ってきた。
「うわっ!びしょ濡れになっちゃう!じゃあねダイキ!また明日」
急いで自転車を走らせようと、ペダルに足をかけたサラスヴァティだったが急に動きを止めた。
「なんか聞こえない?」
「聞こえる・・・何の音だ?」
「わかんないけど、私達を呼んでる・・・」
「行こうぜ!」
「えっ?この門。どうやって乗り越えるつもりよ?」
学校の周りにそびえ立つ塀と、ガッチリと閉じられた金属の重厚な門。
ダイキの目が妖しい光をおびた。
「なんか、出来そうな気がしてきやがったぜ・・・叩けよ。されば開かれん!ってな!」
「エッ?何?あんた目がぶっ飛んでる。何それ、ヤバイって!」
「うおぉぉりゃぁぁ~!!」
ダイキはピッタリと閉じられた門の中央に無理矢理手をねじ込んだ。そして、そのままゆっくりと門を開き始めた。
「えっ、うそっ!絶対あり得ないし・・・」サラスヴァティの声が激しい雨音に吸い込まれていった。
肉塊が飛び散り、血まみれになったプールサイドでダイキとサラスヴァティは立ちすくんでいた。
ヒルコだけがその惨状の中で、傷ひとつ無く横たわっている。
あの激しい雨も止み、夜空を勢いよく流れ去ってゆく黒雲の隙間から、血のように赤黒く染まった月が時折顔をのぞかせその光景を照らす。
ヒルコのぐっしょりと濡れた体に制服が貼りつき、艶やかな黑髪が、蒼白を通り越して砥石のように変色した肌に乱れかかる。
「ヒルコ!」
サラスヴァティーは、ヒルコの口元に頬を寄せて息の有無を確かめた。
「い、息をしてないっ!」
二人の背後から、グルグルと低く腹に響く犬のようなうなり声がした。
「嫌な予感しかしね~し?」二人は顔を見合わせた。
「せ~ので振り返る?」
振り返った二人の目に、巨大な漆黒の狼が牙をむきジリジリと迫ってくる姿が映った。むき出しになったその牙には、血の跡がまざまざと残る。
「コイツら殺ったのって、絶対にこの犬っころだよな」ダイキが周囲の肉塊を指さす。
「証拠十分で犯人確定。助けてジャンダルムさん!ってど~すんのよ!この状況!」
「これって!絶体絶命ってやつじゃね?」
「あんた!腕っ節だけが取り柄なんでしょ!ど~にかしなさいよ!そうそう!さっきの門を開けた馬鹿力。この為に神がお与えになったのよ!」
「お前ッ本当は神なんか信じてねーだろうが!それにお前こそ、頭脳担当だろっ!なにか策はないのかよっ!」
頭上から、銅鐸の音が二人の鼓膜も破れよとばかりに鳴り響いた。あまりの大音響に耳を抑え、その場にうずくまる。
衝撃波であちこちの地面に亀裂が入り、水が吹き出してきた。
二人の周囲に水の壁ができ、竜巻のように渦を巻き始めた。
突然、目の前に目も眩む光と共に大音響で雷が落ちてきた。光の中で二人の洋服がちぎれ跳び、黒い帯となって再び体に巻き付いた。
ゴジック風の神と見紛うばかりのその姿。
「ワオッ!そのきわどいコスチュームけっこう好み!」
目尻を下げるダイキとは対照的に、サラスヴァティの眉尻が上がった。ダイキの腹にサラスヴァティの蹴りが綺麗に入った。ダイキはうめき声を上げ再び地面に崩れ落ちた。
目の前の地面が割れ、砂が吹き出し、天沼矛と十束剣がせり出してきた。
「神の助けっ!」
サラスヴァティに天沼矛を投げ渡す。
「何なのっ!この無茶ぶりっ!こんなの使ったことないし!」
「泣き言を言うなって!ふんどし締め直して行くぜ!」
「えっ?あんたふんどし派なの?」
「当たり前だろ!男なら褌一本で勝負だぜ!」
「やめてよ!映像が頭に浮かんじゃったじゃないっ」
真剣に嫌そうな顔をするサラスヴァティを無視して、ダイキはペロリと唇をなめた。十束剣をぐっと握り直す。
「うぅおおりゃっっっ!!!」雄叫びを上げ、ダイキは狼に向かって一直線に走り出した。
繰り出される一撃をさけ、機敏に跳びすさる狼を右に左に追いかける。
その人間離れしたスピードに、サラスヴァティは目で追うのもやっとの有り様でただ矛を抱え立ちすくんでいた。
狼はシャワー室の壁を蹴ってくるりと一回転すると、ダイキの背後に着地し右肩へと食らいついた。
直ぐさま右肩を下にして、狼ごと地面にたたきつける。ギャンッと叫び声を上げ、狼は素早くダイキから離れた。
そして次に狙いを変え、サラスヴァティの正面へと跳躍した。
「きゃ~!やっぱ無理!アタシ肉体労働系じゃないのっ!」
襲いかかる狼の爪と牙を、横にした矛の柄で何とか防ぐ。
追いすがったダイキが、後から袈裟懸けに切りつけた。剣は狼を切り裂き、床を真っ二つに割るほどの勢いで地面へとめり込んだ。
光輝き、高温を発していた剣は地中の水を一瞬で蒸発させ、周囲にもうもうと水蒸気がたちこめた。
体の半分に達するほどの深手を負い、背中から腰に向かって斜めに傷を負った狼は力なく跳躍し、ヒルコの横によろけつつ着地した。
大きく裂けた狼の皮がベロリと剝けた。
その中から、赤黒く血にまみれた物体がぬめりと這い出てきた。
月がその物体を照らす。
「イソラ!」
イソラはその震える手を精一杯に伸ばし、ヒルコの上へと倒れ伏した。
二人がふと我に返ると、頭上に銅鐸が浮かんで低く鳴っていた。
イソラの姿が変化しはじめた。磁性流体に磁石を近づけたようにトゲトゲしく、そして流れ落ちるように動いてヒルコを取り込みはじめた。
真っ黒に変色した双方の体が、ねじりあう飴細工のように混じり合っていく。
「なんで、イソラがオレ達を襲うんだよ?」
「わかんないけど、イソラとヒルコが混じり合っていく・・・」
二人はねじりあい、もつれ合いながら空中へと昇っていった。
その中心から強い光が発せられ、眩い光の中から人の姿が現れた。
その顔はヒルコのようでもありイソラのようでもあり、全くの別人のようにも見えた。
顔や体には、赤い丹で渦巻き模様が描かれ、髪を下げみずらに結い、色とりどりの糸と管ガラス、玉でもって全身を美しく飾っていた。
体の周りには、細く薄い比礼が幾重にも空中にたなびき、そよぐ風と共に、えも言われぬ良い香りが辺り一帯に立ちこめた。
その体から生えた4本の腕には、剣と弓を持ち、頬に手を当て、膝に手を置き、まるで半跏思惟像のようなポーズで、目を閉じて空中にユラユラと浮いていた。
「ヒルコ!イソラ!」
その人物はけだるげに目を開けた。
「我はヒルコ神なり」
「何だよ!オレの言っているのは、ただのヒルコとイソラのことだ!てめえなんかじゃねえっ!二人はどこ行っちまったんだよ!」
「お前の言う二人は我の事なり。我、今世に生まれ出んとす。
大いなる力の妨げあり。我が身は二つに割れ、別々の器となる。
二つの器崩れる時、我また一つになり現れん」
「じゃ、じゃあ、これって二人が混じりあって・・・?」サラスヴァティは、混乱しつつも理解しようと努めた。
「違う!お前はヒルコでもイソラでもない!二人はお前なんかじゃね~よ!二人を返せよっ!」ダイキはヒルコ神の言葉を単純明快にすっぱりと切り捨てた。
「何故?我は今、大いに安らかだ。なのに、また不条理な苦しみの中に我を返せと?」
「苦しみ?」
「そうだ、我は苦しんでいた。ヒルコは神の魂を持ちながら、有限の肉体に幽閉され、愚かしい人の世の中で生きねばならなかった。
やっとの想いで己が半身を見いだしたが、その半身はあまりに優しく、臆病で、脆弱だった」
「じゃあ、今さっき、狼の姿で暴れ回っていたイソラは何なの?」
「イソラは臆病者故、己を傷つけられるままに放置してきた。しかし、大切にされぬ自我は限界を越えた時、自他の区別なく破壊への衝動へと変化する・・・
そして優しさは正義の名の下に、粛正の狂気へと変わるのだ。
現にイソラは三年前も、両親を殺めた者の心の臓を己が手で握りつぶしておる。
誰よりも優しい心を持つ者でも、復讐の誘惑には逆らえぬ。人間の持つ優しさなどその程度のものだ・・・・・・
しかし人を殺めた痛みは、復讐を果たした満足感と同じく、いやそれ以上におのれ自身を深く傷つける。他を傷つけることは、己を傷つけることに他ならぬ・・・
すべては自分なのだ・・・
イソラはその時、おのれの言葉と力を封印する事でなんとか精神のバランスを保ったが、またもや再び殺戮の鬼と化した。
そのような自分に絶望し、殺される事でおのが犯した罪の贖罪を求め、そしてその望みは叶えられた・・・
人は、あまりに愚かだ・・・」
「じゃあ、この惨劇は・・・」
「イソラが、ヒルコを殺したアンドリュー達に復讐を果たしたのだ」
「でも、罪を犯した人間が罰を受けるのは当然のむくいよ!」サラスヴァティの悲痛な叫びが谺した。
「お前には人が裁ける、と?」ヒルコ神は穏やかな笑みを浮かべたまま小首をかしげた。
「だって、だって、あんたに何がわかるのよ!アナーヒトは・・・私の双子の妹は、何も悪い事なんてしてなかった!すごく心の優しい子だった!
あの子が心を病んで死んでいったのは、アンドリュー達、あいつらのせいよ!
でも、法律的には罪にはならないって!あいつらには何の罰も与えられなかった。あいつらは、妹の事なんて忘れて笑いながら生きてる・・・
妹の心が弱すぎたなんて言った奴もいる!ただのゲームだったんだよって!でも私は一生忘れない!あいつらを追い詰めてその一生をめちゃめちゃにしてやる!そう思って生きてきた。
あいつらが死んだのは当然よ!イソラのした事は正しいわ!
何が神様よ!神がいるならなぜ悪を裁いてくれないのよ!」
「善と悪。光と闇。汚濁と清澄。すべては同じなのだ。相手の悪はお前の中の悪でもある」
「何言ってるの!そんなのわかんないわ!何が神様よ!」
サラスヴァティは泣きながらヒルコ神に向かって矛を投げつけた。
ヒルコ神は微笑みを浮かべながら、その身を優雅にねじってそれを避けた。
「サラスヴァティ・・・お前・・・」
「わからぬのか・・」ヒルコ神は少し悲しげな表情を見せた。
ダイキは、不敵な笑いを浮かべて剣を持ち上げた。
「上から見下ろすばっかの神様には・・・」手のひらにプッと唾を吐く。
「人の心なんて、どうせわっかんね~だろ~よっ!」
しっかりと剣を握り直すと、ダイキは問答無用とばかりにヒルコ神に斬りかかった。
「愚かな・・・私を倒したとて、何になる?」
「そんなの、やってみなくちゃわからね~!オレ馬鹿だしっ!とにかくお前がいたら二人は帰ってこない!そ~ゆう事だろっ!」
ヒルコ神は、軽く身をかわしながら微笑みを浮かべてダイキを見下ろした。
ダイキは、雄叫びを上げながら疾風怒濤のごとく攻撃し続けた。しかし、ヒルコ神はその攻撃など無いものごとく、踊るように剣を打ち払う。最後には小馬鹿にするようにダイキの鼻の前で弓の弦を弾いてみせた。
「痛って~!」弦で強く払われ、顔に赤く筋のつけられたダイキは、息を切らし剣にもたれかかると鼻の頭を撫でた。
「ちっくしょ~!馬鹿にしやがって!神様と名乗るだけあって、一筋縄ではいかねーな」
サラスヴァティは涙に濡れた目でヒルコ神を見上げた。ヒルコ神はかすり傷ひとつ負うこと無く、燦然と輝きながら微笑んだ。
「二人を返して・・・・・・」涙が頬を伝う。
「イソラッ~!ヒルコッ~!帰ってきやがれ~!」血を吐くようなダイキの絶叫が辺りに響きわたった。
突然金縛りにあったようにヒルコ神の体が硬直した。
ヒルコ神の体にまとわりつく、半透明で下半身はヘビの姿をしたヒルコとイソラ。
「お、お前達・・・何を・・・・・・」
「ラッキ~!いっただき~!」ダイキは剣を振りかぶった。
「不完全な生き物め・・・」
迫ってくるダイキの剣を見ながら、ヒルコ神は少しだけ微笑んだ。
光輝く剣をその身に受け、ヒルコ神の体は真っ二つに裂けた。それと同時に、頭上の銅鐸も大音響で裂け、四方に向かって砕けて飛び散っていった。
全てのものから光が満ちあふれ、何も見えなくなった。
腕で目を覆うダイキとサラスヴァティ。
※
※
※
放課後、夕焼けが赤黒く空を染めていた。
プールサイド脇を一人帰るイソラの肩に手が置かれた。
「イソラ。ちょっと顔貸してもらおうか」
振り向いたイソラの目にノアとケイ・リーの笑顔が映った。
叫ぶ暇もなく口に布が押し込まれ、その上に素早く粘着テープが貼られた。手足にもテープがグルグルと巻かれ、そのまま軽々と担がれる。
ジタバタと体をくねらせるイソラをケイ・リーが担ぐ。
「良い子はお家に帰る時間だぜ・・・・・・」
背後から声がした。
二人がギクリとしながら振り返ると、そこにはジャンダルムのようなパワードスーツを着込み、頭をカッチリと覆うヘルメットのシールドを少し上げ、くわえタバコでこちらを見ている警備員の姿があった。
朝夕の校門の開け閉めをしていたり、下校時間に校内を見回ったりしている姿を時々見かける事がある。しかし、今まで話をしたことなどないし、二人にとっては自分達の家にいる奴卑と同じく、使用人レベルの存在としか写っていなかった。
「ただ一緒に遊んでるだけだから、うるさいこと言うなって」
「それに、校内でタバコ吸ってるなんて校長にチクられたら、アンタの方が困るんじゃないの?」二人はヘラヘラと笑って見せた。
ヘルメットのシールドがピッと指で跳ね上げられた。
「もう一度だけ言う。良い子はお家に帰る時間だぜ」
緑と金の混じった瞳が鈍く光る。
「オッサン。人見て物を言おうって常識を知らないわけ?子供だって知ってるぜ。生徒の中にも触れてはいけない階級ってっもんが・・・・・・」
そう言いかけたノアの目の前に、少し離れた位置にいたはずの警備員が立っていた。
「お前こそ誰に向かってモノ言ってやがんだ?」
そのままノアは片手で喉元をつかまれ、高く差し上げられた。
ノアは声も出せず、ジタバタと手足を動かした。
「い~ち、にい,3,4,5・・・はい、落ちた」
警備員は手を開くと、頸動脈を止められ気を失ったノアをそのまま滑り落とした。
今度は、イソラを肩に担いだままのケイ・リーの方に向き直る。
タバコを指に挟み、その顔にふうっと煙を吐きかけた。
「どうする?お父様に言いつけに行くか?それとも、お友達のアンドリューに泣き付くか?」
「お前、たかが警備員のくせにこんな事して・・・」後ずさりしつつ、精一杯の虚勢を張ってみせる。
「つくづく頭悪い奴だな!そんなもん、オレには指先一本たりとて触れられないんだよ!奴らに言ってみな!どっちが消されるか?世の中にはな、自分が思ってるのとはまた別な階級制度があんだよ!虎の威を借る腐れ狐が!」
ケイ・リーは心底怯えた目になった。イソラを放り出して、そのまま一目散に後も見ずに逃げ出した。
警備員は、再びシールドを少し下げた。
地面に放り出されて、ぐねぐねと動くイソラに近づく。腰のナイフを慣れた手つきで取り出し、素早く手足のテープを切った。ナイフが手の中でクルクルと回され、危なげない手つきでホルダーの中にピタリと収められた。
そしてイソラの手を取ると、グイッと引き起こしつつ反対の手で口に貼られたテープを勢いよく引きはがした。
「痛った~!」
プッと唾液にまみれた布を吐き出し、叫んだイソラの目に涙が浮かんだ。
「助けてやった第一声がそれかよ・・・」
「ご、ごめんなさい。ありがとうございます。助かりました」イソラは慌ててぺこりと頭を下げた。
「本当は、生徒同士の争いに手を出しちゃいけないんだけどよ・・・まあ、始末書書いときゃ何とかなるか・・・
でもよ、お前もやられてばっかじゃなくって、少しは強くなれよ。見てるこっちが情けなくなるわ」
警備員はくしゃくしゃととイソラの頭をなでた。
そして、ふうっとタバコの煙を吐いた。その甘苦い香りがイソラの遠い記憶をかき立てた。
「オジサン・・・」一瞬の沈黙が続いた。
「お兄さん・・・」
「えっ?」
「お兄さん・・・そんなにオレ年食ってないわ」
「ご、ごめんなさい。もしかして、お兄さん、昔ジャンダルムの隊長をしてなかった?」
「何でだよ」
「昔、裁判所で僕のこと慰めてくれた衛兵の人がいて・・・」
「知らね~な。お前、いっつも誰かに助けられてんじゃねーよ。さっきも言っただろ強くなれって」
「ご、ごめんなさい」イソラは再び涙目になった。
「それに、僕のせいで始末書なんて、それだけじゃなくてアンドリューの父親が何か手を回してきたら・・・お兄さんが・・・」
「だからお前、その奴隷根性どうにかしろよ。そんなんだから漬け込まれんだぞ。
オレはオレで、自分に噛み付く奴が出てきたら、噛み返すだけの根性は持ち合わせてるからな。
まあ、今日は暗くなってきたし、家まで送ってやるよ」
警備員はくるりと背中を見せると、さっさと歩き出した。イソラは慌ててその背中を追った。
門まで来ると、半分開いた門の外でダイキとサラスヴァティが自転車を止めて話し込んでいた。
「お~イソラじゃね~か。何やってんだよこんな時間に」ダイキは大きく手を振った。
「ダイキとサラスヴァティこそどうしたの?」
「いや、たまたま偶然此処で鉢合わせしてよ。聞いてくれよコイツ琵琶なんて習ってんだってよ」
「うるさいって言ってるでしょ。今から行くんだから邪魔しないでよ。イソラは?補習でもしてたの?」
「ううん。ノアとケイ・リーに捕まりそうになった所を警備員の人に助けてもらって、今送ってもらう所」
「警備員?」不思議そうな顔をする二人の顔にイソラが周りを見渡すと、さっきまでいた警備員の姿は影も形も見えなくなっていた。
「もしかして、友達と会ったから遠慮していなくなっちゃったのかもね」
不安げにキョロキョロと見回すイソラにサラスヴァティは声を掛けた。
「でも、危ないから今日はダイキに送ってもらうといいわ」
「えっ。オレ?予定無い前提?」
「友達でしょ。そんくらいするの当たり前じゃない」
「くっそ~!イソラおい!ヒルコの使ったタオルよこしやがれ!それと交換でボディガードしてやっから」
「変態・・・・・・」サラスヴァティとイソラの声が重なった。
朝の学校の自転車置き場。
自転車を止めようとするイソラの肩に手が掛かった。
「昨日は邪魔が入ったけど、今日はそうはいかないぜ」アンドリューが高圧的に言った。
うつむいたままイソラが小さな声を出した。
「やめてください・・・」
「およっ、イソラ君が何か言ってるよ!何々~?聞こえないよ~何だって~?」
「やめてください!」
イソラは、まっすぐアンドリュー達の目を見据えながら、今度ははっきりと言った。
「へ~痛い目見なくちゃわかんないみたいだよね~」アンドリューは口を歪め、明らかに面白がりながら呟いた。
自転車置き場の裏に連れて行かれ、イソラは殴られた。
弱いながらも必死で反撃パンチを試みようとするが、ヘロヘロの拳は当たる気配もなかった。
無様に抗うイソラを面白がり、アンドリュー達ははやし立てた。
「弱いくせに、逆らうんじゃね~よ!」
そう言いつつ、完全に舐めきってイソラの前に立ったアンドリューの股ぐらを、イソラは最後の力を振り絞って蹴り上げた。アンドリューは声もなく崩れ落ち悶絶した。
自転車置き場の向こうからダイキがもの凄い勢いで走ってきた。そのままの勢いでユーリィとジオの頭をガシッとつかみ、双方を勢いよくぶつける。
「弱い者いじめはいけないね~」
「窮鼠、猫を噛むとのことわざもあるしな・・・」
少し離れた場所でケイ・リーの腕をねじり上げているのはヒルコだった。
「ヒルコォ・・・ダイキィ・・・」かすむ目をしばたかせてイソラは肩で大きく息をした。
泣くのをぐっとこらえる。ヒルコはそんなイソラに黙って近づきギュッと抱きしめた。
「えっ?おいっイソラ!何、ヒルコもイソラを甘やかしてんだよぉっ!」
その光景を見たダイキは、慌ててイソラを乱暴に引きはがした。
「先生、こっちです!イソラ君が殴られてますっ!」
そこへサラスヴァティが、先生を引き連れて走ってきた。
「ダイキっ!お前が主犯かっ?」口を開くなり先生はそう叫んだ。
「えっ!ちげ~し!オレ仲間、助けてたんスけど!」
「日頃の行い・・・」
首根っこをダイキにつかまれたまま、ぼそっとイソラは呟いた。
「ちょっと~ひで~んじゃねイソラ!笑ってないで二人も何とか言えよ~!」
顔を見合わせて、三人は明るく笑った。
イソラは、まぶしそうに空を見上げた。空の色が抜けるように青い。
高い空の片隅に、ヒルコ神の比礼のような薄い雲が風に吹かれ飛んでいくのが見えた。




