HIRUKO 過去編 其の壱 禊ぎの海
神編に行く前に、ヒルコの母親の話です。
黒塗りの高級車の後部座席に座っていた男は、書類から目を上げると窓の外に視線を送った。
朝日は、もうすでにかなり高くまで昇ってきている。
視線を下にずらすと、道路のすぐ横、見渡す限り続く砂浜に打ち寄せる波が幾本もの白い線を描く。
岸近くの海は砂が透けて見えるほどの淡いブルー。それは沖に行くほどに徐々にその濃さを増していく。
何か気になる事でもあったのか、男は運転手に車を止めるよう指示をした。
車のウインドウを下げ、少しの間目をこらす。そして慌てた様子で車のドアを勢いよく開け、海を目がけて走り出した。
砂浜をつっききり、そのまま波しぶきに足をとられながら、ザブザブと海に入っていく。
しなやかに男の身体に添うように、寸分の狂いもなく仕立て上げられたオーダーメイドのスーツと革靴が、海の中では反対に身体の動きを拘束する。男はよろけながらも何かに向かって進んで行った。
少し遅れて、車の運転手も追いかけてきた。
「タカアキ様!」
タカアキ様と呼ばれた男は、海の中から暴れる何かを引き上げた。
「おい!早まるな!」
引き上げたそれは、少女といっても良いぐらいの年若い女。真っ白な着物に長い黒髪が張り付き、手には紐に通した金色に光る小さな銅鐸を持っていた。
「何をするのです!」女は、苦しげにゴホゴホと塩水を吐き出して抗議の声を上げた。
「だから、早まるなと言っているだろうが!」男は抵抗する女を後から抱き上げようとした。
「無礼者!!!」女の肘が男のみぞおちに入る。男は女に覆い被さるような姿勢で海の中に消えていった。
遅れて海に入ってきた運転手が慌てて男を引き上げる。男はゴホゴホと咳き込みつつ辺りを見回した。
「どこに行った?」
程なく、少し離れた海中に漂っている女の姿を見つけたタカアキは、必死の形相で波をかき分けながら近づくと運転手と共に女を砂浜まで運んだ。
女はかなり水を飲んだのか、意識もなくその呼吸も感じられない。
「おい!馬鹿もの!死ぬんじゃない!!!」タカアキは必死で胸を押し、人工呼吸を繰り返した。
「おい、お前のウェアラブル端末は生きてるか?オレのは塩水に浸かって応答しなくなってるんだ」タカアキは人工呼吸の合間に運転手に向かって尋ねた。
「ダメですタカアキ様。私のも、どこにも連絡できません」
「ここから一番近いのは、今日祈祷を頼んでいる社だ!お前、そこまで車で行って応援を頼んでこい!それまで、オレがここで救命措置をするから」
運転手は、慌てた様子で砂に足をとられつつも車に向かって走っていった。
運転手が車で走り去ってしばらく後、マウス・トゥ・マウスで息を吹き込んでいたタカアキの目と、パチリと開いた女の目があった。
「何をする!この無礼者めが!!!」女の平手打ちがタカアキの頬を打つ。驚くタカアキが起き上がると、今度はすかさず容赦ない突きがタカアキの腹に入った。
腹を押さえ苦しむタカアキ。
「助けた・・・のに・・・この仕打ち・・・は・・・ないんじゃないかな・・・お嬢さん」
「何を言う!私の意識がない事をいいことに、みだらな事をしようとする不埒者が!!!」
「いや、だから自分は君を助けようと・・・大体、何があったのかは知らないけど、海に入って死ぬ事はないんじゃないかな。見たところ、君はまだまだ若いんだし、人生いくらでもやり直しはきくんだよ」
女は一瞬戸惑った顔をした。そして次の瞬間、おかしそうにクスリと笑った。
「私あちらの社の巫女ですのよ。祈祷をする前に、海で禊ぎをしていただけですわ」
ほど近い山の麓の社に視線を送る。
今度は、タカアキが戸惑った顔をした。そして次の瞬間、全てを悟りバツの悪そうな顔をした。
「もしかして・・・・・・君が、今日、我が社のプロジェクト祈祷をしてくれる中つ国一の霊能力者と崇められている、タマイシ・シズメさん・・・・・・かな・・・・・・」
「ええ、そうですわ」
「え~と、じゃあ自分は、君を助けようとして、反対に・・・・・・」
「ええ、神を降ろすのではなく、反対に私が神の国に行くところでしたわ」
一瞬の思案の顔の後、ガバッとタカアキは砂浜に手をついて土下座した。
「私の早とちりで、本当にすまないことをしたっ!謝ってどうにかなる事ではないが、本当に申し訳ないっ!いや!そんな事より、君は溺れてしばらく息もなかった状態だったのだから、一刻も早く医者に診てもらわなければ!!すぐに、我がTOUYAコンツェルンの医療部の最高位の医者を呼び寄せるから!じっとしていてくれたまえ」
「あっ!しまった!塩水のせいで端末がダメになっているんだった!」早口でまくし立てながら、慌てふためくタカアキを見て、シズメはおかしそうに笑った。
「お医者様など結構ですわ。今は少し、鼻と口の中が塩辛いぐらいで、もう全く問題ありませんもの。
大体、巫女たる者、他の者にその体を触れさせる事など、許されませんから・・・・・・」そう言ったシズメはハッとした顔でタカアキを見た。
二人の視線がお互いを捉える。
恥ずかしげに視線をそらせたシズメの、頬だけでなく全身がぽっぽと桃色に染まっていった。
そんなシズメの様子を見て、40歳を超えたタカアキも、まるで少年のようにもじもじと立ちすくんだ。
「あの・・・・・・」言葉を発したタカアキを振り切るように、
「私、もう行きませんと・・・・・・」
立ち上がり、慌てて駆け出そうとしたシズメは、溺れた時の後遺症の為か、はたまた砂に足を取られたのか、それとも上気して頭に血が上った為なのか、よろりとバランスを崩し前のめりに倒れそうになった。
慌ててタカアキがシズメの身体を受け止める。今や、シズメの顔は恥ずかしさのあまり真っ赤になっていた。
「わ、悪い・・・・・・これは、不可抗力で・・・・・・」
恥じらいで顔を覆い、身体を硬くするシズメに、既婚者でもあり、普段から、女遊びもそこそここなし、女の扱いには慣れているタカアキも勝手の違いに、人形の様にギクシャクとしたぎこちない動きで応じた。
お互いの心臓の高まる音が聞こえる程、波で濡れた衣服から互いの温もりが感じられる程。
多分、それほど長い時ではなかったのであろうか。それでも、二人には永遠にも、一瞬にも感じられる時が過ぎ、砂浜の向こうにタカアキの黒塗りの車と、その他数台の車が止まった。
「タカアキ様ぁ~!!!」
「シズメ様ぁ~!!!」車を降り、二人を呼ぶ声が聞こえる。
シズメは、小さく息を吸うと、何事もなかったかのように毅然とした態度で立ち上がった。
「私が話をしますから、溺れた事はなかった事に」
「大丈夫でございますか。シズメ様」
「今日は、少し波が荒くて、この方々が禊ぎをする私を溺れたと勘違いなさったみたいですわね」
シズメは駆け寄ってきた者達と、にこやかに話しながら、タカアキと運転手に軽く会釈をした。
「この方々は私を助けようと、海に入りましたからびしょ濡れになりましたの。着替えを用意して差し上げて。私はもう一度禊ぎをしてから社に戻りますから、皆さんは先に戻って、今日の祈祷の準備を続けてくださいな」
そう言うとシズメは皆に背を向けた。
タカアキが黙って運転手に目配せすると、運転手は言わず語らずの呈で帽子を目深にかぶり直して黙って歩き、車のドアを開ける。
タカアキは後部座席に座ると、黙って海を眺めた。
シズメが海を前に立っているのが見えた。
その指がそっと唇に触れているのは、タカアキの所からは見える事もなかった。




