HIRUKO ウラ篇 其の拾壱 且坐喫茶
イソラは、荒涼とした大地に只一人横たわっていた。
不機嫌な猫が喉を鳴らすように、低くくぐもった地鳴りが辺り一帯に轟く。大地に触れた体が小刻みに振動した。
頭上では、紫に染められた空を引き裂いて、数限りない雷が閃光を繰り返していた。
それらは、怒り狂う神々が地上に向かって矢を放つかのように、イソラの周囲に次々と落下してきた。
その度に、空間を歪ませるような衝撃波が生まれては、耳をつんざく破裂音が縦横無尽に炸裂した。
ふと気がつくと、どこからともなく湧き出してきた赤黒い霧が、イソラの周囲を生暖かく覆い始めた。
その霧の中から、金属が擦れる無骨な音を立てながら現れたのは、馬鹿でかい図体の重戦車。それは、横たわるイソラにお構いなしにガラガラと前進してきた。
「わあっーっっ!!!」
すざまじい重量に腹を押し潰され、血反吐を吐きながらイソラはかっと目を見開いた。
「ハアッ、ハアッ・・・えっ・・・夢・・・だったんだ」
汗をびっしょりかき、最悪の気分で目覚めたイソラの視界に飛び込んできたのは、赤と黒のレースを毒々しくあしらった透け感たっぷりの小さな布切れ。
訳がわからず視線を横にずらすと、そこにはずっしりと重い褐色の太腿。それが、いきなり目の前に迫って来たかと思うと、もの凄い力でイソラの首を締め付けてきた。
「ゴフッ・・・」息の出来ない苦しさに精一杯の力で争う。
「ダイキィ・・・そんぐらいで音をあげてんじゃねぇよぉ。お前の取り柄は体力馬鹿なとこなんだぜ。だから、もっともっとオレを楽しませてくれよぉ・・・」ムニャムニャと寝言を呟きつつ、せっせとイソラに絞め技を掛けているのは、赤と黒のセクシーな下着姿のアマニレナス。
ぐっすりと眠りこんでいるくせに、唇には楽しげな笑みを浮かべ、締め付ける太腿に益々力を込めてきた。
「く、苦しいっ・・・アマニレナス・・・ぼ、僕。ダイキじゃないってばっ・・・人違い・・・」
もがこうとしても、思い通りにならない体の元凶に向かって視線を走らせると、高いびきで眠るダイキの頭が、腹の上にどっかりと鎮座していた。
頭が破裂しそうな苦しさの中、必死になって足掻いていると、部屋の板戸がからりと開けられた。締め切られ、蒸し暑さを覚えるほどだった部屋に、爽やかな木々の香りがさっと流れ込んでくる。
「お前達、朝っぱらから何をしている」
呆れたようにそう言い放ち、部屋に入ってきたのは巫女のような白衣と緋袴に身を包んだヒルコ。今、洗髪したばかりのようなしっとりと艶めいた黒髪が、いつものように五色の紐で結わえられる事もなく、無造作に肩から背中に向かって垂らされていた。
ヒルコは、アマニレナスの絞め技に四苦八苦しているイソラを見下ろすと「ダイキの彼女と乳繰り合うとは貴様も隅に置けぬな」と、腕組みをしてフフンと鼻を鳴らした。
「この状況の、何処をどう見たらイチャついて見える訳っっっ⁈」
イソラは、アマニレナスの絞め技から何とか逃れようと、四苦八苦しながら涙目で訴えたが、ヒルコは冷たい視線を送るばかりで手を貸そうとする気配もない。続いてハクが、お前ら、朝飯だぞ~と叫びつつ部屋に入ってきた。
その言葉に、素早く反応を示したのはアマニレナス。
パチッと目を開いたかと思うと、「わーぃ!飯だ!飯!!!腹がペコペコだぜっ!」そう言って、何事もなかったかのように失神寸前のイソラを解放した。そして引き締まった腹筋を使い、反動をつけてひょいっと起き上がった。
「おい、いつまで寝ているつもりだ。さっさと起きないか!」
ヒルコは、そんな騒動にもお構いなく、高いびきで眠り続けるダイキの頬を足の指を使って器用につねり上げた。
「痛って~なぁお袋ォ。もうちょい、もうちょっとだけ・・・寝かせてくれよぉ・・・」ダイキは、うるさげにヒルコの足を払いのけ目を閉じたままムニャムニャと呟いた。
そして、やっとの事で息をつき始めたイソラの身体を抱き枕のごとく抱え込み、再び大イビキをかき始めた。
「コイツの寝起き、物凄く悪いんだからな。起こそうとしたって時間の無駄無駄。このまま、しばらくの間ほっときな。腹が減ったら嫌でも起きてくるだろうしよ」そう言って、アマニレナスはしなやかな猫のように身体を伸ばした。
しかし、アマニレナスに続き、ダイキの馬鹿力で締め付けられているイソラはそれどころではない。
「ダイキ、苦しいっ・・・い、息が出来ないっ!!!」非力な力でジタバタと抗う。その、小さな雛の羽ばたきの様な動きに反応したのか、ダイキの目が薄ぼんやりと開いた。
「あぁ~ん?ヒルコォ?・・・」寝ぼけ眼のダイキにガシッと頬を挟まれる。
「おはようのチュ~はぁ?」そう言いながらタコのように唇を尖らせ、イソラの唇目がけて迫ってきた。
「や、やめてっ!!!僕のファーストキスがダイキとなんてっ、絶対嫌だっ!」イソラの顔からサッと血の気が引いた。涙目で顔を背けようと必死で抗う。
「お前、そっちの趣味はないだろうが・・・」そんな二人の無様すぎるやり取りを見て、呆れ顔のアマニレナスはダイキの後頭部に軽く回し蹴りをかました。
「ぐえ・・・」それをまともにくらい、半分意識を失ったダイキを、そのまま部屋の外にズルズルと引っ張っていく。
「ふぅっ~」 遠ざかるダイキ達を見送りながら、大きく安堵の息をついたイソラに、ハクが鋭い犬歯をみせながらにやついた。
「お前、その歳までチューもした事ないのかよ。可哀想にお子ちゃまでちゅか~」
「そ、そんなの。まだ本当に子供なんだから、別にいいじゃないか」イソラは、ムキになってそう返した。そして、頬が上気しているのを隠すように、前髪を引っ張りながらヒルコに向かって尋ねた。
「ヴォルフとイソメの容態はどうなってるの?」
「犬コロの方は、とんでもないスピードで組織が回復していっているぞ。いくらあやつが人狼で、もともとの再生能力が高い種とはいえ、限界をとっくに超えていると婆様も驚きを隠せない。
あれは、神々の施す不死の技・・・
いや、人々にはそう思わせているが多分そうではないだろう。大方、奴の細胞や血液の中に、何らかの科学的仕掛けがなされているというのが真相だろう。
しかし、娘の方はあれは只の人間だ。
最初は、物の怪の類いか、犬コロのように何らかの人工的処置を受けた者ではないかと疑っていたのだが。こちらの勝手な邪推でしかなかったようだ。
脳は確かに、ロボトミー手術によって己の意志を持てないように処置されているが、それ以外は全くの人間だ。何故、あのような尋常ならざる力が出せたのか、今のところは全くの謎だ。
しかし、あの大怪我を負った上に、汚濁の吐き出す毒にも長時間さらされたのだ。死の淵から無事に抜け出せるかどうか。一時たりとも予断を許さない状態だ。
婆様が、持てる術のすべてを使って治療にあたっているがな。正直、五分五分といった所か・・・」
「そんな・・・僕のせいだ・・・」イソラの目が曇った。
「まあ、落ち込んでてもしょうがねえだろうが。まずは朝飯、朝飯!腹が減っては。って言うだろ」ハクは、しょげるイソラを慰めるように声をかけた。
「コイツの作った飯はうまいぞ。毎日、野山を駆け回って新鮮な食材を集めているからな。
そうだイソラ。今日は日曜で学校もちょうど休みだ、猟にでも行くか?お前には良い修行になるだろう」
「猟って、こんな街の中で?」
昨夜、ヒルコに連れられてこの家に来た時、イソラの家からそう遠くない場所だったと記憶している。周辺にも同じような四角い家々が立ち並ぶ、どこにでもある普通の住宅街の中の一軒だった。
ジョカの屋敷から、一緒に連れ帰ったイエティのハルの背中に負ぶわれ、泣きじゃくりながらだったけど、それは確かな記憶だった。
ヒルコは、縁側に続く障子を大きく開けはなした。
「わぁっ」
そこに拡がるのは、碧の山並みが延々と連なる壮大な自然の風景。
「何、これ?!」今まで、見た事もない奥深い山の景色に感嘆の声が上がった。
「私を拾ったジジイの山だ。と、言うかジジイ自身か」
「⁇」
訳が解らず首をひねるイソラに「腹も減ったし、そこは飯食いながら説明しようぜ」待ちくたびれた様にハクが言った。
その言葉に頷きヒルコはイソラの背中を押した。
黒光りする板葺きの部屋の中央に、囲炉裏がきられ、自在鉤にかけられた鉄鍋が美味しそうな香りを湯気と共に立てていた。
鉄鍋の中身を、木のお玉でかき混ぜていたハルは、イソラの顔を見て嬉しげにフォッフォッと声を上げた。
「おはようハル」イソラは、両親が生きていた頃のように飛びつきハルの胸に顔を埋めた。
ハルの毛皮から立ちのぼる懐かしい匂い。一瞬、父と母の生きていた頃に戻った気がした。
しかし視線を上げると、そこは木と土と紙で作られた、今まで見たこともない古めかしい屋敷の一室。
目の前には緋袴姿のヒルコと、パンク服に着物を合わせた、多分狐の化身であろうハクが座る。
イソラは、ヒルコが自分の目の前に現れてからの、あまりの非現実な出来事の連続に、夢を見ているのではと頬を抓りたくなった。
「ダイキ達は?」
「イソメが危ないと婆様から聞いて、あわてイソメの兄者を呼びに行ったそうだ」
「そうなんだ・・・」
どうかイソメの意識が戻りますようにと、神に祈るような気持ちでイソラは両の手を組み、口元へと持って行った。
「神になぞ祈っても無駄だぞ。神は人の生き死にになぞ興味はないのだ」そんなイソラの願いを踏みにじるようにヒルコが冷たく言い放った。
「そんな・・・」一瞬、言葉を失いヒルコを見た。しかし、能面のように表情の動かないヒルコを見て、イソラは拗ねたように言葉を続けた。
「それで、此処はいったい何処なの?」
「此処は、ジジイの作り出した結界の中だ。お前の住む街に、此処に通じる出入り口を無理やりねじ込んでもらった。ジジイの力を持ってしても、神と名乗る彼奴らの作り出す結界を破るのは中々大変だったみたいだったがな」
「待って、まずジジイって誰なの?それに僕ヒルコの事も何にも知らない。ヒルコのお母さんが中つ国の巫女だったって事しか。それに僕自身が、何故、突然獣に変わってしまうのかも。ヴォルフの事だって。
ヒルコが現れてから、いきなり色んな事が立て続けにおこって、正直、何が何だかわからないよ」
ハルが、木のお椀に温かなスープを入れて差し出してくれた。それを一口飲むと、五臓六腑に染み渡るうまさが拡がった。
「何これ!すごく美味しい!」イソラは歓声を上げた。
「美味いだろ」その言葉を受け、ハクは得意そうに犬歯を見せた。
「これは雉だぜ。骨からもじっくりと出汁をとってるからな。だから、こんなにも澄み切った深い味わいがでてるんだぜ」
「キジ?」
「よくいる鳥だぜ、お前知らないのかよ」
「?」
「じゃあ、これ食い終わったら雉猟に行こうぜ」
「それでは、私は婆様と一緒にあの二人の介抱をしてくる。ハク、後は任せた」
そんな二人のやりとりを聞き、ヒルコはすっと立ち上がると、袴の衣擦れの音だけを残して部屋を出ていった。
「丸投げかよ・・・」
「どう言う事?」
「説明するのが面倒くさくなったんだろ。アイツ、基本的には野良だからな」
絶句するイソラに、「さっさと食ってキジ猟に行くぜ」ハクはそう言って、手に持った碗の中身をかき込んだ。
昼前になって、イソラが屋敷へと帰ってきた。
全身ずぶ濡れ。髪や服には、木の枝や蜘蛛の巣が絡まり、頬や手足には無数の引っかき傷がミミズ腫れになっていた。
「帰ったか」へなへなと上がり框に座り込み、そのまま横へと倒れ込んだイソラにヒルコは声をかけた。
「ただいま・・・」精も根も尽き果てたような声がイソラの喉から絞り出された。
「獲物は獲れたのか?」
「いや〜コイツ、筋金入りのヘタレだぜ。雉を追い込んでここぞって時に、僕には殺せないって泣き出しやがってよ」ハクはやれやれといった様子で肩をすくめた。
「無理だよ・・・あの雉、ハクに追い詰められて僕の胸の中に逃げ込んできたんだよ。心臓の音が、柔らかな羽を通して破裂しそうにバクバクいってるのがわかった。すごく怯えた目で・・・そんなの、いくら獲物だからって殺せないよ・・・」
「軟弱者め」
「そんな事言われたって僕には無理だよ。ハクが迫ってきたから、慌てて空に向かって放したら、オレンジの太陽みたいに、光輝きながら飛んで行ったんだ・・・ものすごくキレイだった」
「フン!貴様は、モノを食わずには生きられない種のくせに、己が手を汚すのは嫌だと?きれい事を言うな!」
「だって、あのコ達にだって命があるんだ!」イソラはムキになって食い下がった。
ヒルコは、底意地の悪そうな笑みを浮かべた。「普段、貴様が食べているモノはどうやって作られているのか知っているか?」
「知らない。工場で作ってるって習ったけど。それに、大昔ならともかく、今は人造肉を作る技術もあるんだからさ、わざわざ生き物の命を奪わなくってもいいと思うんだ」
「貴様らが、美味い美味いと言って食べている人造肉の元となるモノはな・・・」
「やめとけよ。コイツ、そうでなくてもチビなのによ。肉が食えなくなったらどーすんだよ」ハクは、ヒルコの言葉を遮った。ヒルコは、それを無視して言葉を続けた。
「そうは言っても、かつては同朋であった者の肉体を食いながら生きるのが幸せだと?」
「言っちまったよ・・・コイツ・・・知らぬが仏って言葉知らねぇのかよ」
「同朋?」
「今、貴様らが食っているのは、この社会で落伍者の印を押され、人知れずいなくなった者たちの肉体だ。無論、それだけでは足りるものではない。培養もされている。
しかし、元はヒトなのは変わらん。それに、培養は金も時間もかかる。手っ取り早く、一番安上がりなのは只の人間をバラしたモノだ。
お前達の社会はそれを選んだ」
イソラは口元を抑えた。胃液がせり上がってきた。
「吐くな!貴様の肉体は、もともと生きる為に何らかの命を犠牲にして己が命を支えるように作られたのだ。
今日、殺せないと泣いた雉しかり、魚しかり。例え、それが植物であろうと何であろうと、命であることに変わりはない。それらの生命を奪うことを誰かの手に任せておいて、己は清らかであると信じている。笑止千万だな」
イソラの喉から嗚咽が洩れた。
「メソメソと泣くな!全てを受け入れた上で生きてみろ!この偽善者が!!!」ヒルコの足が、イソラの腹を蹴り上げた。その一蹴りで、簡単に壁際までふっ飛ばされる。
イソラは、ゲフゲフと咳き込みながらその場に崩れ落ちた。
突然、屋敷の外で、何かを激しく叩きつけるような音が響いた。
「ハク、あの娘の兄者が到着したようだ」
ヒルコは、横たわるイソラをそのままに屋敷の外の門へと歩を進めた。




