HIRUKO ウラ篇 其の拾 汚濁
汚濁に胸を刺し貫かれたヴォルフの体が、がくりとその場に崩れ落ちた。
大きく開いた傷口からは、鮮血が噴き出す。
鋭利な先端でヴォルフを串刺しにし、硬質な黒い輝きを放っていた汚濁がその姿を変え始めた。鉄が融解していくようにドロドロと溶けだし、体内へと流れ込んでいく。
すると、それまで傷口から噴き出していた血液に代わって、粘度を持った真っ黒な液体が溢れ出してきた。灼熱の溶岩のごとく、沸き立ちながらヴォルフの身体を焼いていく。
肉の焼ける匂い。
「グゥオォォッッー!!!」生きながら焼かれる激痛に、ヴォルフの顔が歪んだ。
「ヴォルフ!!!」駆け寄ったイソラの手が、焼け爛れた傷口に向かって伸ばされた。
その手が触れるか触れないか、ブワリと傷口から吹き出してきた闇。それは一瞬で、辺り一帯を覆い尽くした。ねっとりと粘度を持ち、悪意を持って絡みついてくる闇は、イソラの体の自由を奪い、呼吸と共に肺の中にも侵入してきた。
そしてそれは、そこにいる者全てに焼けつくような痛みをもたらした。ゲホゲホと咳き込み、息を詰まらせ一人また一人と倒れていく。
その影響は、生死の境を彷徨っているイソメにとって殊更に大きかった。
その体がビクリと反り返り、息ができない苦しさに小刻みにあえぐ。血の気が失せ、蒼白だった顔色が、紫がかった死人の色によりいっそう近づいた。
「ゲフッ・・・」何かにむせ、開いた口の中が闇の色に染められていく。
「しっかりしろイソメ!ウラは、ずっとお前の事を探し続けてたんだ!だから、こんな所で死ぬんじゃねえっっっ!」咳き込みながらもイソメを抱きかかえ、叫ぶダイキの声が闇の中に吸い込まれていった。
その言葉に反応したのか、イソメの目がうっすらと開いた。
焦点が定まらないブルーの瞳が揺れ、真っ黒な涙が盛り上がる。そして、大粒の黒真珠のような涙が、一粒二粒。頬を伝って流れ落ちた。
「あたしは、死ねな・・・い。
昔、誰かと・・・。大切な誰かと、約束した・・の・・・。
何があっても生きる・・って・・・」
弱々しい小さなつぶやき。ゴフッと咳き込み、口の端からも黒い液体が流れ落ちた。
「もう誰も、誰も!死なせないっ!」全身から憤怒の炎が吹き出し、イソラの髪が逆立った。闇の中で、赤く変化した双眸が怪しい光を帯び始める。
瞬く間に、その全身が光沢のある黒い毛で覆い尽くされた。
そこに現れ出たのは、鋭い爪と牙を持つしなやかな漆黒の半獣。
唸り声を上げ、体を拘束していた闇を引きちぎる。
そのままイソラの手が、ヴォルフの傷口にずぷりと差し込まれた。煮えたぎる油の中に手を入れたような凄まじい音。もうもうと蒸気が噴き出した。
「ごふっっ・・・」ヴォルフの口からも、イソメと同じような真っ黒な液体がせり上がって溢れ出た。
イソラの手が何かを捉えた。
「ギュエェェェッ!!!」気味の悪い叫び声と共に引きずり出されたのは、まるで目の無い小さな蛇のような形をした不気味な生き物。イソラの手から逃れようと、その身を右に左に激しく振り動かし、掴んだ手に巻きつくと、シューシュー息を吐き鎌首をもたげた。
大きく開いた口には、ギザギザの鋭い牙が何列にもならぶ。それが、イソラの喉笛に狙いを定め飛びついてきた。
イソラの手に、ぐいっと力が込められた。蛇のようにその身を伸ばし、喉笛に食らいつこうとしていた汚濁の下半分は、そのままイソラの手の中で握りつぶされた。それは、ブツブツと胸が悪くなるような呪詛の声を残して消えていった。
慌てて中空へと逃れようとした上半分に、イソラの鋭い牙が襲いかかる。あっという間にズタズタに食いちぎられ、四方に飛び散った。
しかし、飛散した汚濁は、辺りを取り巻く闇を取り込みながら、大きな渦を巻き始めた。一直線に天井めがけ上昇を開始する。
一度着地したイソラの足がそれを追い、床を勢いよく蹴った。
闘技場内の全ての闇を取り込み、猛り狂う竜巻のように成長を遂げた汚濁は、闘技場の天井を突き破って外へと飛び出した。
雷が落ちたかのような轟音が耳をつんざく。辺り一帯を震わせる衝撃波。
と、同時に、天井全体に細かな亀裂が走った。
音を立てて崩れ始める闘技場。
「みんな外に飛び出せ!!!生き埋めになるぞ!!!」白狐姿のハクは皆にそう声を掛けると、血の気の失せた顔で、力なくしゃがみこんでいるヒルコを素早く口に咥えた。そのまま、天井に開いた穴に向かって飛び上がる。
半獣の姿のジャンダルム隊員の一人が、意識の無いヴォルフを肩に担いでそれに続いた。残りの隊員達も、次々に出口に向かって跳躍を開始する。
次々と落ちてくる巨大な瓦礫を目にしてサラスヴァティの悲鳴が上がった。
その悲鳴を耳にして、怒りを露わにし、漆黒の閃光のように汚濁の後を追って外に飛び出したイソラの瞳に迷いの色が浮かんだ。汚濁の行方を目で追いつつも、急ブレーキをかけ、悔しげな表情で踵を返した。
サラスヴァティの上に落ちてきた瓦礫を、ダイキがその太い腕で受け止め跳ね飛ばした。サラスヴァティを小脇に抱え、すぐ隣で、降ってきた瓦礫を一刀両断にしたアマニレナスに呼びかける。
「アマニレナス!イソメを頼んでいいか?!」
「任しときな!」ぐったりと横たわるイソメを、アマニレナスは軽々と肩に担いだ。
二人の足が、同時に床を勢いよく蹴った。そして、次々に降ってくる瓦礫を足場にして跳躍を繰り返し、外へと飛び出した。
それと入れ替わりに、黒い疾風のように闘技場に飛び込んできたのは半獣の姿のイソラ。
「イソラッ!もう誰もいない!そこから早く出ろっ!生き埋めになるぞ!」すれ違い様、叫ぶダイキにイソラは答えた。
「ダメだ!まだジョカが残ってる!」
「あんなヤツほっとけよ!死んだって自業自得だろうが!」
「ダメだ!アイツだってマリヤの母さんなんだ!死んだらマリヤが悲しむ!」
「お前、馬鹿かっ!!」
叫ぶダイキを無視して、イソラは瓦礫の崩れ落ちてくる闘技場に飛び込んだ。落ちてくる巨大な瓦礫が積み重なって、もうもうと土煙の立ちこめる中、辛うじて潰されずにいるジョカの姿を捉えた。
ジョカは、目の前に現れたイソラに一瞬視線を走らせたが、すぐに諦めたように目をそらせた。
「死ぬなっ!」そう一言叫び、走り寄ってくるイソラの真っ直ぐな眼差しがジョカに注がれる。
ジョカの目が、信じるものかと言わんばかりにカッと見開かれた。イソラから逃れようとするように、グルグル巻きに拘束されたままぐねぐねと動く。そんな芋虫のように這うジョカを、イソラは御構い無しに軽々と肩に担いだ。ジョカは、口元を覆う布越しに罵倒の言葉を吐いて暴れ、精一杯の抵抗をした。
「マリアが待ってる」その一言にジョカの動きが止まった。
イソラが足に力を溜め、跳躍しようとした瞬間。今までにもまして巨大な瓦礫が、二人の頭上に降ってきた。
「・・・!!!」叫び声を上げる暇もない。イソラはジョカを担いだまま、ただ息を呑み体をこわばらせた。
ズズーンと腹に響く音。
「この、どうしようもない偽善者野郎・・・」
覚悟を決め、ぎゅっと目をつぶっていたイソラが恐る恐る目を開くと、そこには降ってきた瓦礫を、拳の一撃で打ち砕いたダイキの姿。
「ダイキ・・・」
裂けた拳から骨が覗く。そこからボタボタと流れ落ちる血を見たイソラの顔色が変わった。力なくぺたりと耳と尻尾が垂れ、怪しく輝いていた赤い目の光が薄れていったかと思うと、みるみるうちに人の姿へと戻っていく。
イソラは、肩に担いだジョカの体重を支えきれず、ヨロヨロと床にヘタリ込んだ。
「ごめん、ダイキ。僕のせいで・・」
みるみる間に人間の姿へと戻っていくイソラを見て、ダイキは一瞬絶句した。しかし、瓦礫はそんな状況に御構い無しに次々と降ってくる。
「お前なぁ・・・何で今?今、この状況で人に戻んだよっ?信じられねぇっっっ!!!このクソボケエッッッ!!!」
サラスヴァティを安全な地上に置き、急ぎ戻ってきたダイキはそう叫びつつも、片手にジョカを、もう片方の手にイソラを抱えると渾身の力を振り絞ってジャンプした。
ダイキが外へ飛び出すと同時に、砂時計の砂が落ち込むように周辺の土が崩れ始め、土煙を上げながら周囲の建物を巻き込んで地下闘技場に向かって流れ込んでいった。
「ギリ、セーフ・・・」
皆のいる安全な場所まで来ると、ダイキは二人を放り出し、大きく息を荒げ大の字になって地面に伸びた。
「ごめん、ダイキ・・・僕のせいで死ぬところだった・・・」イソラはシュンとうなだれた。
「誰のせいとかねーし。大体、オレ達ダチなんだからよ。ダチが危ない目に遭ってたら、助けるのあたりメェだろ。だからいちいち謝ったりすんなボケが!!!!」そう言いながら額の汗を拭う。その拳からボトボトと血が滴り落ちた。
「うおっ、目に入る!!!」ダイキは慌てて制服の袖で目を擦ろうとした。すると、ボロボロになって埃にまみれた制服から大量の砂が目に向かって流れ落ちてきた。
「ギョエェェェ!」ダイキは目を押さえて悶絶した。
「くうっ。ダイキ、悶える姿がバリ可愛いってばよ!」ドSな表情を浮かべ、アマニレナスはセーラー服のスカーフを外して、ダイキの拳の傷にぐるぐると巻きつけた。
「痛え!!!痛いってばよ!!!アマニレナス!!!もっと優しくしろよ!!!それに、今痛いのは目!!!目ぇなんだからよ!!!」
「くくっ。何言ってんだよ。いつもに比べたら優しく縛ってやってんじゃねーか。それと、女王様からのご褒美だぜ。目も舐めてやるよ。ひれ伏して喜びな!」
アマニレナスの顔に、益々変質者的な笑みが浮かんだ。
「ダイキ・・・あんたドMな訳?キモっ・・・」サラスヴァティの冷たい視線が突き刺さった。
「あ奴らの性癖など、どうでも良いが・・・」
まだ血の気が戻らない顔色のまま、ハクと共に、ヴォルフとイソメの傷口の手当をしていたヒルコが吐き捨てるように言った。
「本当にどうしようもない馬鹿者め。イソラ、お前はジョカを許すつもりなのか?」ヒルコはイソラをギロリと睨みつけた。
「だって、この人も母さんなんだ・・・」イソラは、身体を小さく縮め、俯き加減に答えた。
「このお人好しが。コイツを野に放ったら、また同じ事をするぞ。弱い者が犠牲になる。お前はそれでいいと思っているのか?」
「それは・・・」
イソラは、力ない声で益々深くうなだれた。
「ジョカのことは、こちらにまかせてくれ」低く落ち着いた声が響いた。
「俺は、この隊の副隊長をしている。コイツの事は、オレ達ジャンダルムが引き受けよう」ヴォルフにベーオウルフと呼ばれていた隊員が前に進み出た。
「ジョカは政府に食い込んで、散々に甘い汁を吸い、罪を逃れてきた。でも今度こそ、正当な罰を受けてもらう。政治的配慮とか、超法規的措置なんて事には持ち込ませない。死ぬまで牢獄の中でおのが犯した罪を償ってもらう。多分、娘との面会もできるだろう。しかし、確かにこの娘が言うように、本当にそれでいいのかは疑問だがな・・・」
それを聞きながら、アマニレナスがペロリと唇を舐めた。「コイツに殺されてきた者達がそれで許せると思うのか?ホント、あのまま瓦礫に潰されて死にゃ良かったのによ。イソラもいらねえ事しやがって。いっその事、ここで殺っちまうか?」刀を一振りするとニヤリと笑う。
グルグル巻きにされ、地面に転がされていたジョカの体が、ビクンと大きく波打った。
「えっ・・・?」
ジョカの眉間から流れ出す赤黒い血。皆の視線がアマニレナスに注がれる。
「オレ、まだ何もしてないって!!!」アマニレナスは焦った顔で手を振った。
「誰だ?誰がジョカを撃った奴はいるのか?」
「いえ、私ではありません」
「違います」
副隊長であるベーオウルフの問いかけに、他の隊員達は素早く陣形を整え、周囲に対する警戒体勢を取りながらも次々と否定の言葉を返してきた。
「ジョカ!マリアを置いて行くな!」駆けよろうとしたイソラをヒルコが引き止めた。
「無駄だ。もう事切れている」
「そんな・・・」
「敵の姿は見えないし、俺達もいつ狙われるかもしれないぜ。さっさと此処から撤退しようぜ!それに、イソメを早くどうにかしてやらないと死んじまう!」ダイキが焦りを隠せないように早口で言った。
「あと、そっちの隊長も半分逝きかけじゃねーのか?」ハクが、まるで死んだように横たわっているヴォルフに向かって視線を走らせた。
「ハク、この娘とヴォルフを婆様の所に連れて行くぞ」乱れた長い髪を、手早く五色の紐で丸く束ね、ヒルコが立ち上がった。
「えっ、何言ってるんだ!娘の方はともかく、アイツは狼だぜ!狼!」
「つべこべ言うな。お前だって狐だろうが」
「◯△×!!!・・・」
ハクの、言葉にならない抗議の声は完全に無視された。
そこに、被さるようにベーオウルフの声が響く。
「ではマルコシアス、この娘の案内する場所に隊長を運べ!そして、第一班はジョカを撃った奴の捜索。残りは、此処ら一帯の監視カメラの情報の書き換えと、我々が居た証拠の隠滅!急げ!!!」
ベーオウルフの指令が下ると同時に、マルコシアスを残し他の隊員達の姿がかき消えた。
ハクはフンっと鼻を鳴らすと、「クソ!付いてきやがれ若僧が」と吐き捨てるように言ってイソメを口にくわえた。
そのぞんざいな呼びかけに、マルコシアスは前髪をかき上げ、含み笑いで返す。
「私は、見た目ほど若僧でもないのですよ・・・」
そう言いつつ、黒紫の毛並みが艶やかな、巨大な狼の姿へと変化を遂げた。そして、そっとヴォルフを口でくわえた。
「きゃぁっっ!日付が変わってる!こんな時間に家に帰ったりなんかした事ないのに。家に帰ったら大目玉よ」サラスヴァティが腕時計を見ながら焦った表情を浮かべた。
「後で何とか理由をつけてやる。まずは、サラスヴァティは私と一緒にハクの背中に乗れ。イソラはマルコシアスの背中に乗せてもらえ。お前達は、自分達で付いてこれるか?」ヒルコがダイキとアマニレナスに問いかけた。
その返答が返ってくる間も無く「僕は、マリヤに謝りに行く・・・」うなだれていたイソラが顔を上げ言い放った。
「お前・・・」ヒルコはツカツカとイソラに詰め寄ると、その腕を取った。
「ゴメン。僕の事はいいから」その手を振り払い、イソラは走り出した。
「くそっ!あの馬鹿者が!」ヒルコは、その後を追って走り出しながらハクに向かって叫んだ。
「ハク!とりあえず怪我人を早く婆様の所へ!」
「げっ!狼とformation flightなんて勘弁してくれよ!!!」
「四の五の言ってないで早く行け!サラスヴァティ!すまぬが、ハクと一緒に先に帰っててくれ!」後を追うヒルコの声が小さく聞こえた。
「もう!あの甘ちゃんめ!!!ふん縛ってギタギタにしてやろうか!!!」
「お前らも、ハクと共に婆様の所へ先に行っていても良かったのだぞ」
顔色の戻らぬまま、イソラの後を追って走るヒルコが、一緒についてきたダイキとアマニレナスに声を掛けた。
「まあ、乗りかかった舟って言うだろ」と、アマニレナス。
「それに、お前力使い果たしてフラフラだろうが。何ならお姫様抱っこしてやろうか?」そう言い放ったダイキに、アマニレナスの顔色が変わった。その体が、一瞬で巨大な火蜥蜴と変化し、その口からは業火のごとく燃えさかる火炎が吹き出した。
「うわっ!!!熱ちちっっっ!!!熱いってばアマニレナス!!!オレ、怪我人なんだぜ!優しくしてくれよ!!!」火炎に焙られダイキが悲鳴をあげた。
「ヒルコ、乗んなっ!!!」サラマンダーに変じたアマニレナスは、クイッと顎をしゃくった。
「すまん。助かる」ヒルコはその言葉に素直に応じた。
もぬけの空になったジョカの屋敷で、ハルが悲しげに鳴き声をあげていた。
ベッドの中には、カラカラに干からび、赤ん坊のミイラのように小さく縮んでしまったマリヤの姿。
イソラは大きく目を見開いたまま、呆然と立ちすくんでいた。
「もう既に死んでいた我が子を、闇の力によって現世に留めていたのだろうな・・・」ヒルコは、イソラの肩にそっと手を置いた。
震えるイソラの手が伸ばされた。
くしゃくしゃに丸めて放り捨てられ、長い年月を経て、茶色に変色したパラフィン紙のような頬に触れる。と、全てが崩れ落ち、マリヤの身体は微細な塵となった。
そして、窓から吹き込んできた一陣の風に乗って霞のように消えていった。
「マリヤッー!!!」
悲痛な叫び声を上げ、イソラは顔を覆って床に崩れ落ちた。指の間からは、抑えきれない涙が後から後から溢れ、汚れた床にポタポタと新たな染みを作り出した。




