HIRUKO ウラ篇 其の玖 ハンフォード
汚濁は、蛇のようにその身をくねらせハンフォードの口の中へと飛び込んだ。
苦悶か、はたまた歓喜か。闘技場内に響きわたる獣じみた叫び。
その姿が大きく揺らめき、蒼黒い炎が全身を駆け上った。
ハンフォードの足元から滲み出してきたタールの様に黒く粘ついた液体。それはまるで巨大な粘菌のように蠢きながら、網の目状に拡がっていく。
苦しげなうめき声を上げ、ハンフォードの周囲に立つボディーガード達が、次々と倒れ始めた。
血管のように脈打ち、その触手を四方に伸ばす汚濁が、彼らを絡め取りゆっくりと覆っていく。
苦悶の表情を浮かべるその姿が真っ黒に変色した。
急速に腐敗が進み、崩れ始めた身体からは体液が染み出し、髪や歯がズルリと抜け落ちる。
やがて彼らは、骨の一片たりとも残すことなく消えていった。
「全身が氷のようだ・・・」ハンフォードがその身を震わせ、己が体を抱きしめた。
「トリニティー、お前は、この血も凍るような極寒地獄の中で何を想っていたのか・・・」
汚濁が生みだす冷気のせいか、皮膚が黒っぽく変色し、あかぎれのようなひびが縦横に走る。
その間にも、汚濁を封じるすべを何一つ身に纏っていないハンフォードの足元からは、止まる事なく汚濁が溢れ出していく。
それは闘技場の最上部から、まるで滝が流れ落ちるようにヒルコ達の方に向かってきた。
「これは、打ち祓うっていうレベルを完全に超えてるだろ・・・このまま汚濁に飲み込まれて、オレ達全員あの世行き確定になっちまうのか・・・」
圧倒的な威圧感を持って迫り来る汚濁を見つめ、ハクは言葉を失った。
「いや、それだけではすまないな。此処だけじゃなくて、この街全体が飲み込まれてthe endってヤツだ・・・」
今まで、人を食ったような表情を浮かべていたヴォルフの顔が真面目に引き締まった。
「コイツらは、触れたものを、瞬時に極小のレベルにまで切り裂いて、自分の中に取り込んじまう。少量ならオレ達でも滅する事ができるが、こんなに巨大になっちまったのは・・・」
「くそっ!為す術もなくお手上げってヤツか?このままじゃ玄女や瑤姫と、永遠にサヨナラになっちまうじゃねーか!くうっ!死ぬ前に一度でいい!あのマシュマロボディに挟まれて、Wパフパフされたかったぜ・・・」
ヴォルフの言葉を受け、ハクは煩悩全開、未練たらたらの様でギュッと拳を握りしめた。
「ヒルコ~!どうせ死んじまうなら、俺の最後の願いだっ!思いっきりギュ~してくれぇ〜っっっ!!!」それにつられたように、ダイキがその図体に不釣り合いな甘えた声を出しつつ、ヒルコに向かってにじり寄る。
「貴様ら、人生最後の願いがそれか?」
二人の、あまりにも不甲斐ない様に、ヒルコの髪がザワリと波を打った。
その顔つきは、見た者を石に変えてしまう伝説のメデューサもかくや。眉間の間に深い皺を寄せ、にじり寄ってくるダイキに鋭い蹴りを食らわせた。
続けて、前のめりに崩れ落ちたダイキの首すれすれに、アマニレナスの刀が突き立てられる。
アマニレナは、短いスカートからパンツが丸見えになるのも構わず、ダイキの横にしゃがみ込んだ。
そして隻眼の目を光らせながら、ドスのきいた声で囁きかけた。
「よ~く覚えとけよ・・・今度、オレの目の前で他の奴を口説こうものなら、次はマジで頸動脈を狙うからな・・・」
「了解っす・・・」ダイキは、斬首された罪人のような姿勢のまま固まって答えた。
「玄女、瑤姫~もう一度逢いてえ・・・」そんな騒動など気にかける様子もなく、ハクの目は遠くを彷徨ったまま還る気配もない。
「生きてさえいれば、また逢えるよ・・・」何処からか、小さくかすれた声が聞こえた。
声の元を探して振り返ると、サラスヴァティ達のために張った結界の色が、みるみるうちに薄くなっていくのが見えた。
「時間切れか・・・」ヒルコが唇を噛んだ。
割れる直前のシャボン玉のように、薄い虹色に揺らめく結界の膜を突き破って、イソラの姿がユラリと現れた。
「生きて・・・みんなで・・・此処から出るんだ!」
ふらつきながらも、強い決意がその瞳に宿る。
「三人寄れば文殊の知恵って言うし、此処にいるのは三人どころじゃないし」
続いて、琵琶をつま弾きながらサラスヴァティも現れた。
「死ぬ気でぶつかれば、突破口が開けるかもしれねぇってか?」
ハクが遠くを見つめるのを止め、吹っ切れたように耳の後ろをボリボリと掻いた。
「何しみったれた事言ってやがんだ。こちとら、死ぬ気なんてこれっぽっちも無いからな」
床に突き刺さった刀を、大きく振り動かして抜きつつ、アマニレナスがフフンと大きく鼻を鳴らした。
「そうだぜ!こんだけスッゲエ奴が勢揃いしてんだ。おちおち死んでられっかよ!なぁイソラ!」
ダイキは、蒼白の顔でふらつきながら歩いてきたイソラを見上げてそう言うと、無事を確認するように己の首筋を撫でた。そして安堵の息を吐くと、起き上がってイソラの背中をドンッと叩いた。
イソラは、その一撃で簡単に吹っ飛ばされ、床に崩れ落ちる。
「ダイキ、馬鹿力で叩かないでくれる?さっきからもの凄く気持ち悪くってさ。吐きそうなの我慢してるんだ・・・」血の気の失せた顔色をして、イソラは涙目でダイキを見上げた。
「お前な、言う事は男前でもよ、行動がヘタレてんだよ。そんなんじゃ、お前がいの一番に、おっ死ぬぞ・・・」
呆れ顔で呟くダイキの横で、ヴォルフの檄が飛んだ。
「そんじゃあ、ウェアウルフ隊!俺達も、改めてケツの穴引き締めて行くぜっ!」
そう言いつつ、ふと思い出したように、少し離れた場所に立つ一人の隊員に問いかけた。
「そういやぁマルコシアス、痔の治療は済んだのか?べっぴんの女医さんの所に通ってただろ」
そう問いかけられたのは、しっとりとした色気が匂い立つような美しい顔立ちの青年。
サラリと艶めく紫がかった黒髪を耳にかけ、気分を損ねたように唇をとがらせた。
「隊長、我らの神の面前でやめて頂けますか。
でも、ご心配おかけいたしましたが、地獄の侯爵マルコシアス、完全復活しました。
それに、美人女医には別のメンテもしてもらったので、充電もバッチリOKですよ・・・」
それを聞き、他の隊員達の下卑た笑い声が上がる。
「いやいやマルコシアス。充電じゃなくて放電の間違いだろ。途中でエネルギー切れになっても助けないからな」
「腰が軽くなってんだから、ぶっ飛びすぎて汚濁の中に突っ込むなよ」そんなヤジが投げかけられる。
「我らの神・・・イソラの事か・・・」少し眉根を潜めつつも、ヒルコの口角が面白さを隠せないように上がった。
「お仲間ごっこは終わったかな・・・?」ハンフォードが、凍てつくようなグレーの瞳を皆の方へと向けた。
「美しき友情、友愛・・・そんなモノが何の役に立つのか楽しみだ・・・私の人生には、存在さえしない言葉だからな・・・」
そう言いつつ大きく腕を広げる。そして、全てを総べる指揮者のように、その手を優雅な仕草で振り動かした。
それに呼応するように彼方此方で汚濁の塊が、漆黒の亡霊のようにゆらゆらと揺れながら立ち上がり始めた。
「汚濁・・・それは、我々の日常の中に潜むもの。各々の中に巧妙に隠れ住む小さな悪意。
それらは毎夜囁かれる、悪意と偏見に満ち溢れたご婦人達の噂話の中に。
小狡い瞳を光らせながら、抜け目なく行われる使用人達の悪癖の中に。
損得勘定のみでこの世を計り渡る、商人達の計算高さの中に。
己の出世と保身のみに心を砕く、小役人達の欺瞞に満ちた狡知の中に。
そして、搾取される為だけに存在する、考える事を放棄した愚民どもの呟きの中に。
汚濁は、全ての人の中に確実に存在している。しかし、個々のそれらは絶対なる悪とは程遠いものだ。その全てが一カ所に集約した時。それはまごう事なき深淵の悪と化す。
でも未だかつて、その領域に到達した者など存在しなかった。
人は遥か昔から、誰よりも強くあらんと、富と権力の座を奪い合い、腐った梯子のてっぺんを目指し争いを繰り返してきた。
その為には、相手を蹴落とし、欺し、傷つけ、己がより上に昇る為の策謀を巡らせる事に何の躊躇もない。
本当は、その為に必要とされるのは全き悪。だか、悲しいかな人はそこまでにはなれぬ。
我々の中には、生まれながらにそのような因子が植え付けられているのだ。
そして、その生ぬるい争いの中で蹴落とされた者に待つのは、二度と這い上がる事のできない諦観という境地からは真逆の底なしの沼の中だ。
その拳を振り上げてみても何もつかめず、もがいてみても1ミリたりとも動けない。
生きる事も死ぬこともできず、諦めの中で誰かを妬み、そねみ、恨みながら、生きた屍となって悪臭漂う泥の底に沈んでいく。
ソドムやゴモラの民も、裸足で逃げ出すほどの悪徳をため込み、絶対なる悪にも善にもなれず、豚小屋の中の糞尿のようにひどい匂いをまき散らし寝汚い眠りを貪る我ら。
かく言う私も、その悪徳の中に首までドップリと浸かっていた張本人だ。
しかし、それは何よりの愉楽だった・・・
上から己よりも下の者を指さして、哀れな奴よと嘲笑う。その指さす手のうちの三本が、己に向いていることも知らず・・・
未来を信じる事ができない者にとって、悪徳は現実を忘れさせる甘美な美酒となる。私は、その美酒に溺れ、一瞬でも浮き世の憂さを忘れたかった。
しかし、とうとう我が一族はその悪徳を一所に集め、それらを意のままに操る術を手に入れた。
絶対なる悪。
それは、オーディンの槍、トールの鎚にも匹敵する絶対の兵器。国をも動かす強大な力。
我が一族は、その絶対なる力を手中にしたのだ。そして、それによって権力の階段を上り詰めていった。
しかし、一カ所に集められた膨大な汚濁は、我が一族に富をもたらすと同時に、滅びへの扉も開いた。
汚濁の持つ汚れは、人にとって致命的な毒となる。封印しても封印しても漏れ出る汚濁は、操る者の体と心をジワジワと蝕んでいく。
生まれてくる子供はどれも虚弱で、大人になるまで生き延びる者はごく僅か。
急速に膨れ上がる富と権力と相反するように、我が一族はその命の源を枯らしていったのだ。
今や、正当な血筋は我がハンフォード家のみ。他の者達は親戚縁者と言いつつも、その家系図は返り血で汚され、金を積まれ、ねつ造されたものばかり。
内なる血には体を蝕まれ、周囲には鋭い爪を尖らせて虎視眈々と狙う獣ばかり・・・
今、我が身を苛む極寒地獄は、この世に生を受けた時から確実に隣に存在していたものだ。
私は、そんな冷たさ慣れきっていた。それが当たり前だと思っていた。
しかし、そんな私にトリニティーの笑顔はたった一つの温もりだった」
「ならば、何故殺した!」ヒルコの髪が大きく逆立った。
「私なりの愛情の示し方だ。お前などには理解できないだろうがな・・・」
「理解などできん!運命に抗おうともせず、自己憐憫の中に堕ちていく者の気持ちなど!!!」
「いつの時か、お前にも理解できる日が来るかもしれんな」ハンフォードの唇に小さな笑みが浮かんだ。
「彼女がこの世から消え去った今、私には、もはや何も残されてはいない。
永遠の孤独、虚無・・・・・・
汚濁よ、もう良いのではないか・・・
お前達も檻に閉じ込められ、人の欲望のままに操られる事にも飽きただろう?
さあ、穢れし者達よ。
お前達を産み落とし、母なる民草の中に戻って行くがよい!この世の全ての悪徳を糧とし、大きく成長したお前達が吐き出す毒によって、この世のすべてを喰らい尽くせ!」
それに呼応するように立ち上がった汚濁は、地獄の針山のようにその先端を尖らせ、ブルブルと振動し始めた。
「先ずはハデスの槍達よ。この腐った世界を消し去る前に、まずは彼らを滅する事としよう。
彼らに、我らの黄泉の旅路の先触れとなってもらおうではないか!!!」
ハンフォードも言葉に応え、鋭く立ち上がった汚濁は、次々と漆黒の槍へとその形を変え始めた。
そして、ヒュンヒュンと中空に向かって飛び立ち、ヒルコ達目がけて雨霰と降り注ぐ。
「うおっ!まるで黒い雨みたいに大量に降ってきやがる!とてもじゃないが全ては防ぎきれないぜ!」
「私に任せておけ!」
印を結んだヒルコの手が、上に向かって真っ直ぐに伸ばされた。
「火輪光!」
その言葉と共に、手の中から飛び出したのは、目も眩むような光を放つ小さな玉。
それは、頭上で大きく成長し、太陽のような光と熱を放つ灼熱の物体へと変化した。
そして、ハンフォードの槍を次々と飲み込むと跡形もなく蒸発させた。
「うわっ!熱ちちっ!!!死ぬっ!死ぬ!」
しかしその灼熱地獄は、そのまま大きく拡がりながらヒルコ達に迫ってきた。
「バカヤロー!こっちまで滅せられるじゃねえかよ!アイツの思うつぼだろうが!このド下手が!」ハクの悲鳴が上がる。チッとヒルコの舌打ちする音が響いた。
「風輪!地輪!水輪!」
再び、ヒルコの手が素早く印を結んだ。
黒く渦を巻く円、金色に波打つ方形、白く輝く小さな半月。それらが、その手の中から次々と飛び出した。
その三つは、火輪光の周りで、逆巻く風となり、堅牢な土の壁となり、最後に分厚い氷の塊へと変化し、灼熱の太陽を覆い尽くした。
ザザッと凄まじい音を立て、一寸先も見えないほどの豪雨が、皆の上に降ってきた。
「いい加減にしろよ!お前のスイッチはONかOFFしかねえのかよ!」火輪光を滅し、大量の氷が溶けて降ってきた水を浴びて、びしょ濡れになったハクがぶつくさ文句を言った。
「悪いな回路が旧式でな。私は量子コンピューターではないのだ」ヒルコが憮然とした表情でプイと横を向いた
「すねてる場合じゃないぜ!次はこっちがお返しする番だ!」ヴォルフの声が飛ぶ。
その声に応え、大量の槍に変化し、所々ぽっかりと大きく穴の開いた汚濁の網をかいくぐって、人狼部隊が真っ先に攻撃を仕掛け始めた。
ハンフォードはそれを受け、足元の汚濁から二股の槍を出現させた。そして勢いよく振り回しながら次々と黒い竜巻を生みだした。黒い竜巻は汚濁の飛沫を辺り一帯に飛び散らせ、逆巻く風で人狼部隊の攻撃をことごとく跳ね返していく。
飛び散る汚濁が、倒れ臥すイソメの所にまで飛んできた。ヒルコはそれを短剣で打ち払った。そしてイソラにその剣を差し出した。
「お前は、この場で皆を守るのだ!あと、サラスヴァティは琵琶の音を止めるなよ。お前の清浄の音は、汚濁に対する簡易の結界になるからな」
「OK!」サラスヴァティはシャラリと弦を鳴らして、悪戯っぽい笑顔を浮かべて片目をつぶった。
「ヒルコ、僕・・・」その横で、イソメに視線を送りつつ、不安気に揺れるイソラの瞳。
「この娘は今、生死の境を彷徨っている。お前が守ってやらなければどうする。それと、術で縛しているがコイツからは目を離すなよ」
離れた場所でグルグル巻きにされ、ミイラのようになったジョカにチラリと視線を送る。その少し後ろには、息絶えて仰向けに倒れているトリニティの姿。
「死ぬなよ」そう言いながらヒルコの手が、イソラの頬をすっと撫でてすぐに離れた。
「それじゃあ、オレ達も行きますか?」ダイキが、鬼と変じていた時に地中から引き上げていた巨大な剣を肩に担ぎ、ヒルコに声を掛ける。
「うりゃぁぁぁ!!!」雄叫びを上げるアマニレナスの体から、紅蓮の火炎が吹き出した。
「それでは、気合いを入れて行くぞ!」
「おっしゃぁ!!!」各々がハンフォードに狙いを定めて走りだした。
ヒルコは、少し遅れてそれに続いた。
先に攻撃を仕掛けていた人狼部隊と共に、それぞれの武器や火炎。爪や牙による攻撃が、ハンフォードに息つく隙も与えまいと繰り出された。
しかしハンフォードは、自らの手に持つ二股の槍や変幻自在の汚濁を使って、それらを軽々と受け止め、何倍もの力にしてはじき返した。真っ黒な汚濁の飛沫が、波しぶきのように周辺に飛び散った。
「たった一人に対し、大勢で寄ってたかってその様とは情けないものだな」凍り付いたような表情のまま、ハンフォードの口の端がくいっと上がった。
「腹立つおっさんだぜ!」ダイキが、目の前の汚濁を巨大な剣で切り払いつつ叫ぶ。汗が飛び散った。
「若いヤツのパワー舐めんなよ!」轟々と大きく火炎が燃え盛る刀を振るいながら跳躍したアマニレナスが、汚濁の竜巻にはじき返され、ネコのようにクルクルと回転しながら着地した。
「かすってもないからな。言われてもしょうがねえだろ」ヴォルフがフンッと鼻を鳴らした。同時に指がパチンと鳴らされる。それに答えるように、隊員達の中の何人かの姿がフイッフイッと消えはじめた。
周囲に散らばる汚濁が、奇妙な形を取り始めた。
幼い子供が粘土をこね回し形作ったような、人や獣の形をしたもの。もしくは、形すら成さないただの塊となって、気味の悪い唸り声を上げながら皆に襲いかかってきた。
その中央で、汚濁によって造り出された豪奢な漆黒の玉座に、ハンフォードがゆったりと足を組んで座った。
「何なんだよ!高みの見物かよ?余裕ぶっこきやがって!」
ハンフォードに罵声を浴びせかけながら、出来の悪いゾンビのようなそれらに向かって、ヴォルフの封魔弾が撃ち込まれ、アマニレナスの火炎が噴き出し、ダイキ、ハクの刀が翻って汚濁を次々と殲滅していく。
しかし、変幻自在の汚濁の網は、一旦その形を崩しても、再び結合を繰り返し、ダメージすら感じさせなかった。また、その鉄壁の防御は、堅牢な盾のようにハンフォードを守り、彼にかすり傷一つつける事を許さない。
細い蜘蛛の糸のようなものが、ゆらゆらと光って揺れた。
「一二三四五六七八九十!月の雫!封魔縛絡!」
闘技場内に響きわたるヒルコの声。
それと共に、ダイキとアマニレナスの背後に突然現れた隊員達が、二人を抱えて大きく跳躍した。
「おめぇは抱えられないからよ、自分で飛べよ!」ヴォルフがハクに向かって叫ぶ。
「うおっ!なんじゃあこりゃぁ!!!」
シュルシュルと絹が擦れるような音と共に、四方に張り巡らされた細い糸が織り込まれつつ、汚濁を取り込み、ハンフォードに向かってもの凄い勢いで迫ってきた。
いつの間にか、透明な蜘蛛の糸のようなものがハンフォードの周りに張り巡らされていた。
蜘蛛の巣に絡め取られた昆虫のように、糸でグルグル巻きにされ、壊れたマリオネットのようにぶら下がるハンフォードの姿。
再び、凛と降るヒルコの声。
「瑠璃の玉、玻璃の玉、金剛球。すべてを原初に還し、阿那清々し、阿那清々し」
三重の光が次々とハンフォードの体を包み込んだ。
「我がハーディス家の終焉か・・・」光に包まれ、ハンフォードの目に諦めとも悟りともつかない感情が揺れた。
光は急激に中央に向かって収縮していく。
最後には小さな玉と変じ、鈴の振るような音と共にその場に落下した。
「馬っ鹿野郎!最初にちゃんと説明しとけ!俺が一緒に縛されたらどうするつもりだったんだよ!!!」
白狐の姿に変じ、辛うじて逃げおおせたハクは、毛を逆立てながらヒルコに向かって駆け寄った。
鼻の頭に皺を寄せ、牙を剥いて襲い掛かかる。
ヒルコは、鼻先で笑いながら身を翻した。しかし、ヨロリとよろけハクの背中に倒れ込んだ。
「悪かったな、敵を騙すにはまず味方からと言うだろう。ウェアウルフ隊には、糸を四方に巡らせる役目を与えていた。誰かが中央で囮となり、奴の相手をしてもらわないといけなかったのだ」真っ青な顔で力なく呟く。その力ない様に、怒りを爆発させることができないままハクは伏の姿勢でヒルコを受け止めた。
「くっそ~!毎度毎度の事だけどよ。いつかお前、絶対食ってやるから覚えとけよっ!」ハクは、ヒルコを背中に乗せたまま怒りで目を光らせ、ガチガチと牙を噛み鳴らした。
「お前なら、逃げられると信じていたからそうしたのだがな」ヒルコは、もたれかかったままハクの首筋の毛を撫でた。
「そんな信じるはいらねぇ~!!!」ハクは、大声で絶叫した。
「頭に響く・・・吐くぞ・・・」
「また貧血かよ?」
「ああ、血が底を突いた・・・動けん。悪いがこのままハンフォードの所まで連れて行ってくれ」
「くそったれが!」そう悪態をつきつつも、ハクはヒルコを背中に乗せハンフォードの所まで運んでいった。
ヒルコは、ハクの背中からふらつきながら降りると、床に転がる玉を拾い上げた。
「次は妹御の所だ・・・」
「チッ・・・」
ハクは舌打ちしたが、それでも黙ってトリニティーの所までヒルコを運ぶ。
ヒルコは、息絶えたトリニティーの側まで行くと、顔を覆うマスクをそっと外した。
白い肌に、亜麻色の髪がサラリと流れ落ちた。かっと見開いたままのブルーの瞳をそっと閉じさせる。
「イソメと言ったか。あの娘とよく似ている・・・兄と共に、大いなる大地の中で永遠の眠りにつくがよい・・・」
トリニティーの乱れた髪を優しく撫でつけ、指を鳴らした。
空中で五色の綾糸が編み込まれ、サラサラとした衣擦れの音と共にトリニティーの体は幾重にも包まれていき、最後には小さな繭玉のように変化していった。
ハンフォードの玉と、トリニティーの繭玉の二つを丁寧にハンカチに包み、ヒルコは自分のポケットにそっと入れた。
「お前ら、早くづらかった方が良さそうだぜ。騒ぎを聞きつけて、政府の犬が来たら面倒だ」ヴォルフが皆に向かって声を掛けた。
「お前も、政府の犬だろうが」と、ヒルコ。
「そうだな・・・だからあまり信用するなよ・・・」ヴォルフの顔に苦い笑いが浮かんだ。
「腹減ったな。なんか食いたいよな」ダイキが、体を左右に振ってバキボキいわせた。
「やっぱ肉だろ肉!ヒルコ!肉食ったら貧血なんて一発で直るからよ」と、アマニレナス。
「あんた達と割り勘は絶対嫌よ!自分の分は自分で支払ってよ!」とサラスヴァティ。
「同じ釜の飯を食うって言うじゃねーかよ。仲良く割り勘にしようぜ!」
「そうだ!そうだ!命張った仲間だろ」
「ふざけないでよね!絶対量が違うでしょ!」
ギャアギャアと騒ぎ立てる三人を横目に見つつ、ヴォルフの指示が飛んだ。
「おいお前ら、怪我人もいるんだからよ。さっさと退散しろよ!マルコシアス。コイツらを下水道から地上に送り届けてやれ」
「嫌ですよ隊長。私は、きつい・汚い・危険の3Kは御免です」涼しい顔でそっぽをむくマルコシアス。
「私も不衛生は好かん」ヒルコも、青白い顔でふらつきながらそれに賛同した。
「お前ら、何を優雅なこと言ってんだ。サッサと行かないと・・・」ヴォルフの言葉が止まる。
視界の端に、黒い閃光が走った。
それは、一直線にヒルコに向かって突き進んでいく。
「ヒルコッ!!!」叫んだイソラの体がかき消えた。
一瞬で移動しヒルコに覆い被る。
真っ黒な汚濁の鋭い先端が、まさにイソラを貫こうとした瞬間。その前に立ちはだかった銀色の光。
「ゲフッ・・・」
後を振り返ったイソラの目に、汚濁にその胸を刺し貫かれ、口から血を吐くヴォルフの姿が映った。




