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幸せな日々の空白  作者: 一天草莽


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1/9

01 幸せへの旅立ち

 いつもと変わらぬ凡庸ぼんような一日が、何をする間もなく半分を過ぎて、いつものように変わりなく一人で木陰こかげに座っていた。

 数日前から伝えられた天気予報の通りによく晴れた日で、初夏に合わせた服装を着込んでいれば体感的に暑くも寒くもなく、そよそよと気持ちのいい風が私に向かって何度となく吹きつけてくるから、それだけで休日のひと時としては十分に満足だった。


「おーい、何してるのー?」


 元気な子供みたいに走り回って遊ぶ代わりに、たわむれに居眠りでもしようか。

 そう思って伸び切った草むらの上に横たわれば、そうはさせまいと遠くから私に呼びかける声が聞こえてきた。ドタバタと慌ただしい足音から察するに、誰かがこちらに駆け寄ってきているらしい。

 いや、誰か、ではない。

 聞き慣れた声から簡単に相手を特定できる。一人で暇そうにしている私を見つけて声を掛けてきたのは、近所に住んでいる二つ年下の少年だ。

 誰かを本名で呼ぶのが苦手な私は彼のことを「イル」という愛称で呼んでいる。そう名付けた理由は単純なもので、イルカが好きだと言っていたからだ。

 それに対して私の名は、


「ねえ、ポーのことだよ?」


 ポー、というわけだ。

 彼によれば私がいつもボーっとしているから「ボー」と呼んでみたけれど、濁音の「ボー」よりは半濁音の「ポー」のほうが響きが良くて呼びやすいから、ということらしい。

 ヘンテコなあだ名に聞こえるかもしれないが、実は本名よりもずっと気に入っている。

 誰かに生き方を願われて一方的に押し付けられたものではなく、今の私のありようを見て与えられた自然なものだからだろう。

 彼の口からポーと呼ばれると、不思議と自分の存在を肯定されている気がする。


「こんなところで退屈そうに休んでるけど、今日は勉強しなくてもいいの? もしそうなら一緒に遊ぼうよ」


 これに対して、うん、と気安く答えることはできない。

 今の私は勉強をしなくてもいいわけではなく、しなければならないものを自主的にさぼっているだけなのだ。

 物心がついたころから私は学校や試験というものが苦手で、いちいち周りの人間に成績や生き方をチェックされて評価され、将来を人質に努力を強要されて生きる重圧が苦しくて仕方がなかった。

 勉強それ自体が嫌いなわけではない。

 何かを他人から強制されるのがいやなのである。


「いや、しなくていいわけじゃない。勉強から逃げているんだ」


 行政によって市民の憩いの場として整備された公園でもなく、ただの放置された空き地。世間から取り残されたような僻地へきちにも感じるけれど、この場所が私は大好きであった。

 のどかであり、牧歌的ぼっかてきであり、文明の発達から置き去りにされたこの場所こそ、人間本来の生きざまを知ることができる気がして。

 エンタメ的に刺激の少ない田舎であっても不満はない。

 貴重なる平穏さが屋台骨として私たちの日常を支えてくれている。

 ひょっとしたら都会の人は違うかもしれないが、生まれてからこの町に住んでいれば、さすがに慣れてくる。ありがたいことに、普通に生きている分には目立つような不便さもない。

 けれど最近は開発が進んで新しい建物が増え、古い建物を取り壊した舗装道路ができて、過疎化が進んでいる周辺地域から流入してきた人口とともに車の交通量も増えて、この場所以外の町は嫌いになってきた。

 その中でも特に、何よりも私は自分の家こそが嫌いだ。偏屈へんくつな価値観で作られたむちで叩くように、凝り固まった人生の型へと私を閉じ込める両親の存在がうるさいからだ。

 そうした理由で私はいつのころからか頻繁に家を抜け出すようになり、あまり知られていない静かな木陰へと足を運ぶようになっていた。


「だめだよ、ポー。そうやって大事なことから逃げてばかりじゃ。でもまあ、せっかくだから楽しく遊ぼうよ。あっちでみんな遊んでいるんだ」


 だったらイルが一人で遊んでくればいいじゃないか、という突き放すような言葉がのどから出かかったところで、ぐっと我慢して飲み込む。

 人見知りで内向的な自覚のある私は心の中をさらけ出して他人と付き合うことができず、唯一それでも私を慕って寄ってくるイルを冷たくあしらうことはできなかった。

 私はいつも不安で、そして孤独だった。

 どんなにイルが私を慕ってくれていても、それが本心なのかどうか、なぜ多くの人間の中で私なのかという理由がわからなかった。いつ切れてもおかしくない縁に思えた。

 そして実際、現実として彼との縁が完全に切れてしまえば、他に友達のいない私は本当の孤独を味わうことになる。

 いつもいつも、一日の例外なく心に不安を抱えながら、表面上は楽しそうに振る舞う作業を終えて、私は極端に疲労して精神的牢獄とも呼ぶべき家に帰るのだ。

 何も答えられず黙っている私を見て、イルが不安そうにこちらの顔を覗き込んでくる。


「わかった。ごめんね、もう誘わない。でも、じゃあ、ずっとここで休んでいるつもりなの?」


「……そうだよ」


 考えた末に短く一言で答えてみれば、一瞬、イルの顔が悲しげに見えた。

 私が勉強もせずに休んでいるからだろうか。


「いつも、そうだよね」


 やはり短く言われたきり、しばらく沈黙する私たち。一般論の液体に親しさを希釈きしゃくしたような気まずさに頭を悩ませる。

 いつもそうだとすれば何か問題でもあるのか、世間の正論をバックに愚痴を言うようなイルにどんな意図があるのかわからない。あるいは深い意味などなく、単なる相槌あいづちのつもりだろうか。

 人の心を想像することが私は本当に下手だと思う。

 なぜイルがそんなことを言うのか、まったくわからない。


「いつも、こうだけど……」


 所在なさに耐えられず私が言うと、それを受けてイルは語り始めた。


「あのね、ポー。僕が今よりもっと小さかったころ、なかなか友達ができなかったこと、覚えてるかな。あのとき一人で遊んでいた僕に、最初に近づいてきてくれたのがポーだったんだよ。それから今日まで、ずっとポーは僕にとってお兄さんみたいな存在なの」


 優しさや感謝を込めてイルはそう言ってくれるが、そうなのだろうか?

 悲しいことに、当の私は覚えていない。

 本当に私が……?


「でもね、ポー。最近はぜんぜん楽しそうじゃないよ。それはね、たぶんポーを取り巻く環境が悪いと思うんだ。だから今度の夏休み、僕と気分転換に行こうよ」


「気分転換? イルと一緒に行くと言ったって、いったいどこへ……」


「幸せにあふれる国。法律も犯罪も憎しみもなく、みんなが楽しく一生懸命に働いているという国。行こうよ、ポー。幸せを感じに」


 幸せにあふれる国。

 ……ああ、なんだ。

 その名前を聞いた途端、これはイルが私を旅行に誘うため言っている冗談なのだということがわかった。幸せにあふれる国など、この世界に存在するわけがない。

 探しに行くだけ無駄だ。

 そこは永遠にたどり着けぬ、人類にとっての正体なき理想郷でしかないのだから。

 しかし、これから訪れる長い夏休みをずっと家に閉じこもっているのは途方もなく苦痛だ。

 ここは半信半疑どころか無信全疑むしんぜんぎのまま話を合わせて、私はその得体の知れない「幸せにあふれる国」とやらへ、彼と一緒に行くことに合意した。

 その日、家に帰ると両親に夏休みの旅行のことを伝える。

 もちろん正直には言わず、大学受験に備えた勉強の合宿だとの嘘をついて。勉強さえするのなら両親は私にあまり興味がないのか、特に詳細を尋ねず、ただ「いい」とだけ答えた。





 夏休みになった。

 イルの両親はとても優しい人であるので、中学生と高校生だけで行く二人の旅行をすぐに認めてくれたらしい。

 遊びを目的として家族で遠くに出かけた経験がなく、旅行そのものが初めての私は右も左もわからないので、行く先を知っている様子のイルに従うことにした。ツアーのガイドになりきって先導してくれるイルは列車に乗り、船に乗り、そして港に着いたとき、後は自分たちの足で歩こうと言った。

 この日だけでは目的地に着くことができなかったので、明日に備えて野宿をする。

 星がちらちらと出現し始めた夜、寝袋に入ったイルが小さい声で打ち明けた。


「実はね、この先どう行けばいいのかわからないんだ」


 もちろん私は戸惑ったが、すぐに愉快な気持ちが勝った。

 旅行の目的を隠して数日間の合宿と言い張ったおかげか、私は両親に十分な資金をもらっていたので、予定が変わったところで差し迫った危険もないだろうと思い、こう言った。


「いいよ、イル。どうせそんな国が本当にあるわけがないし、きっと現実ではない夢の中の話なんだよ。夏休みの間、ずっと二人でこんなところにいて、一緒に楽しい夢を見て過ごそう。それだけできっと十分さ」


 そうして二人とも眠った。

 その夜に見た夢の中で、闇に紛れて姿の見えない誰かが私に言う。


「お前達にきっと悪意はないだろうから、この国に入れてやろう。明日、立て札の示す場所へ来るがいい」


 もっともらしく語る何者かの声を聞き、私はとうとう自分の見る夢にまで馬鹿にされてしまったと思って目が覚めた。

 だが、もしイルも同じ夢を見ていたのなら……。


「夢? いや、僕は見てないなあ……」


 しかし、残念ながらイルは夢など見ていなかった。

 けれどイルは私の夢の話を聞いて喜び、なにやら遠くのほうを指差した。

 立て看板だ。

 とはいえ、幸せの代わりに無駄に情報があふれた我々の世界には、誰かが立てた看板など無数にある。とんでもない秘境でもない限り、道を歩いていて標識や看板が一つも見当たらないほうが珍しい。

 それでも目印が何もないよりは励みになると、行く先の手がかりを見つけた私とイルは怪しい立て看板の示す道に従って、ゆっくりと歩き出した。

 長時間の移動で足を痛めて全身の疲労がたまったころ、あたり一面にひまわり畑が広がっているのに気がついた。


「きれいなひまわりだね、ポー」


 夏といえばひまわり。視界を埋め尽くすのは、真昼の空を地面から照らす黄色い花火。

 どうやら私たちはちょうどいい季節にここへ来たようだ。


「まあね。うん、ひまわりか……」


 ひまわりには、明るくて優しい朗らかなイメージがある。言葉や拍手もなく、まるで私たちの門出を祝福してくれているようだ。こんなに広大なひまわり畑が現実の世界にあるなんて、どこか私には夢のように感じられた。

 べっとりとまとわりついている汗を忘れさせる、さわやかな夏の風が私たちに吹きつける。

 と、なにやら遠くでかすかな声がした。


「ここも、ここも、ここもここも」


 一輪ずつひまわりを指差しながら、こちらへ近づいてくる少年。


「困ったなぁ、ここも枯れてる。さすがに種が密集しすぎたかぁ……。あれ、そこにいるのは見かけないお二人さん? こんなところまで来るなんて旅行かい?」


 何をやっているのだろうと思って見つめていると、逆に何か用事があると思われたのか話しかけられてしまった。

 とっさに顔をそらした私と違い、人当たりのいい笑顔を浮かべたイルが答える。


「うん、旅行。……あのさ、ここって幸せな国かな?」


「幸せ……? いきなり幸せって言われてもね。まあ、楽しいところだよ」


「本当? よかったね、ポー。ここでいいよね」


「え、まあ……」


 イルが言うならそうだろう。

 すでに幸せの国への興味を失っている私はここがどこかなんてどうでもよかった。

 無関係な第三者のつもりで話が終わるまで視線をそらしているはずが、元気なイルにつられて少年へと顔を向けてしまった。このまま無言でいると失礼で不愛想に思われるので、あいさつ代わりに少しだけ気になることを聞いてみる。


「ところで、ここで何をしているんだ?」


 この質問に少年は笑顔で答える。


「ここにやってくる人たちが少しでも喜んでくれるように、たくさんひまわりの種をまいているんだ。いつも種をまいていたから、僕はみんなに”まく”って呼ばれているんだよ」


「まくか。よろしく、まく」


 それから、その少年は私たちに彼の思い出を語ってくれた。

 それはこんな話だ。

 まくと呼ばれた少年はひまわりの種がたくさん詰まっている袋を腰に携えて、広い畑に好きな歌を口ずさみながら種をまいていた。今年でいったい何年目になるのか、ここにひまわりが咲くようになってから、それを見る多くの人々の気持ちは幸せに包まれた。種まきの少年は誰かに報酬がもらえるわけでもなく、ただそれだけのために種をまいていた。

 かつて、種まきは一人でやる孤独な作業ではなかった。まくには大切な友達がいた。種まきの季節に二人で一緒に種をまき、一緒にひまわりの成長を見守っていたのだ。

 しかし、悲しいことに、その友人は二年前に遠くへ引っ越してしまった。

 別れの日、まくとその友達はまた会う日を夢見て、涙ではなく笑顔でありがとうと言い合った。それから現在まで二人の間で多くの手紙が行き来したけれど、直接会うことはなかった。

 一人になってからも、まくはひまわりの種をまき続けた。寂しさを感じないこともなかったが、新たに一つのやりがいができたのだ。

 それは、その友達が再びここへやってくる日のために、ひまわり畑をいつも満開にしておくこと。

 まくは幸せとは何かと改めて聞かれたとき、考えたこともなかったのだと自分でも驚いた。もし友達と二人でいたころなら、こうやって一緒にいられることだと言えたのだろうけど、一人になった今では……。

 まくにとって幸せとは、物質的な充足感や名誉だけでは決してもたらされないものだ。まくにとっての幸せは、このひまわりを見た人々が感謝や称賛の言葉を与えてくれることではなくて、少しでも喜んでくれること。

 ただそれだけで十分なのであった。


「だから僕は嬉しい。君たちがひまわりを好きでいてくれて」


 少年の屈託なき笑顔は、興味深く彼の話を聞いていた私たちまでも笑顔にしてくれた。


「僕たちも嬉しいよ、こんなに素敵なひまわり畑を見ることができて。ねえ、ポー」


「ああ、そうだね」


 その少年、まくは私たちを見て、うらやましそうに言う。


「いいなあ、君たちは二人で一緒にいれて。きっと仲が良いに違いないね、こんなところまで二人っきりで来るぐらいなんだから。僕はうらやましいよ。そうやって友達が近くにいるってことは」


 うらやましいと言われて少し恥ずかしかったが、それでも悪い気はしない。

 むしろ、誇らしいくらいに嬉しかった。

 ただ、いつも隣にいてくれるイルが本当に私を友達と思ってくれているのかが、急に不安になる。

 するとイルが不安を払拭するような明るい声で答える。


「うん。僕もそう思う。でもね、まく、君はもう僕たちの友達だよ。少なくとも僕はそう感じている。これからもよろしくね」


「そうかい? ありがとう」


 それからまくは、自ら申し出て、旅人である私たちを町のある方向へ案内してくれた。

 これから向かう町には優しくて親切な人がたくさんいるから、何か困ったときには近くの人に声をかければいいよ――と言って、まくは私たちと別れた。

 どうやらまくの家は町の中心部ではなく、ひまわり畑の近い外れにあるらしい。

 さて、いよいよ目的地だ。いったいどんなところだろうと期待と不安を胸に抱えて、もう歩けないほどにくたびれた足で町に着くと、まくが言っていた通り、町の人々はみんな笑顔で活気があり、とぼとぼ歩く私たち旅人を気遣って声をかけてくれた。行く当てはあるのか、お金はあるのかと、縁もゆかりもない部外者にも優しい人ばかりだ。

 だから私たちは安心して胸をなでおろし、この町でこれからの宿を探すことにした。

 と言っても、ろくな情報もないまま到達した町に宿の心当たりなどあるわけもなく、さまようような足取りでふらふらと歩きながら、今夜はどうしたらいいものかと考えた。

 だが、何をするにも心配性な私と違って、何に対してもおくするところのないイルは少しも迷うことなく、まくに言われた通り見知らぬ男性に声をかけた。


「すみません」


 すると、その男性は不思議なことに、


「う、うっうん、うん」


 と、愉快な鼻歌で答えた。

 それも、あまりに陽気な鼻歌だ。身構える余裕もなく聞かされた私たちは思わず笑いそうになったが、いきなり噴き出しては失礼になる。

 個性はそれぞれに尊重されるべきであると自分に言い聞かせ、さらに尋ねた。


「す、すいません。この町は初めてなので、少し案内してくれませんか」


「いいぜえ、いいぜえ、案内、いいぜえ」


 男性は再び楽しげに鼻歌を歌いながら、すたすたとリズミカルな足取りで、説明もなくどこかへ向かって歩き出した。私たちはその愉快に揺れ動く背中を見失わないように、けれどパレードの仲間と思われるのにも抵抗があるので、人目を気にして少しだけ身をかがめて隠れながら追いかけた。


「う、うっうん、ううーん?」


 突然、その男性はステップを踏んで立ち止まり、やはり鼻歌を歌いながら振り向いた。


「ところで、俺、お前たちをどこに案内すりゃいいんだい?」


 てきぱきと先を急ぐ彼を無心に追いかけていた私はてっきりどこかへ案内してくれるものとばかり思っていたので驚いたが、すかさずイルが注文をつけた。


「じゃあ、僕たちが泊まるところまで」


「となると、宿ね、泊まるんだったら宿がいい。ところで、いいかい? シンだよ、シン。俺のことならシンって、どうか、呼んでくれ」


「わかりました。これからはシンさんって呼びます」


「うっ、ううん。オーケイ」


 気分がいいのか、もとからそういう性格なのか、どの瞬間を切り取っても楽しげなシンは再び軽快に歩き出した。

 ……けれど、すぐに足を止めて振り向き、こちらに尋ねた。


「ところで君たち、ラジオ、持ってない?」


「あ、いえ、ラジオは持ってないです。すいません……」


「そっか、そうか、じゃあしょうがねえか。今頃、たぶん、あのラジオ……。俺の大好きな音楽が、流れているって、思うけど」


「すいません。それ聞けないの、案内を頼んじゃった僕たちのせいですよね」


「いやいや、別に、いいけどね。その素敵な番組に、せっせとハガキを送って好きな曲、いっつも俺はリクエスト。けれど全然、なかなか何故か、流してくれはしないのさ」


「へえ、そうなんですね。いつもどんな曲をリクエストしているんですか?」


「この村に名前を」


「え?」


 聞いたことのない曲だ。


「いいよ、いいんだ。知らなくっても、構わない。いつか聞けるよ、君らもラジオで。きっと聞けるよ、いつの日か」


 こんな会話が終わったころ、私たちはこの町にある一つの宿に着いた。

 お世話になった私たちはそろってシンに頭を下げる。


「ありがとうございました」


「うっううん。オーケイ。じゃあまた、どこかでいつか、また会える日まで」


 アカペラで歌うようにしゃべるのが好きなシンと別れた私たちは、これからしばらく泊まることになるであろう宿を見た。築五十年は軽く経過していそうな見てくれは実に古ぼけた感じがするものの、落ち着いた雰囲気がある。

 おそらく私たちの宿にはぴったりだ。

 ギイギイと音を立てて中に入ると、すでに先客がいたようで、狭いロビーでは三人の男女が語り合っていた。


「おーや、誰か来たようですよお。わしはそろそろ行きましょうかねええ」


 と、こちらに気づいた一人の老人が席を立った。

 そして入口のあたりで私たちとすれ違う際に、その老人はこんなことを言い出した。


「わしはこの町で唯一の、最高の船頭なんじゃあああ。どうかあい? 明日、わしの船で小島に出かけてみんかねええ」


 船頭? となると、この町は海の近くにあるのだろうか。

 あまり潮の香りがしないので、海辺の印象はないけれど。


「船で小島ですか。でも、どうして?」


「君らは新顔のようだ。だからわしは船に乗せたい。それだけじゃあああ」


 天を仰ぎながらそう答えた老人は「ほら、これじゃあ」と、私たちに場所と時間を書いたメモを渡して立ち去った。

 あっけにとられて呆然と立ち尽くしていると、今度は青年が私たちの前にやってきた。


「確かに、お見かけしません顔ですな。これは旅行者ですかな。だから宿に来たのですかな。いやはや、きっと泊まりに来たのでしょうな」


「はい、そうです。予約はしていないんですけど、こちらに泊めていただけませんか」


「私に頼んでも意味ないでしょうな。そこのおばさんに頼むべきでしょうな」


「あ、そうですか」


 そこのおばさんと言われた人物は、ロビーのカウンター越しに座っており、こちらを見てにっこりと笑った。


「どの部屋でも自由に使うがいいさぁ」


「え? あの、宿泊料は?」


「へえ、お金? そんなもん、いらんいらんよお。ただで泊まってどおぞ」


「あ、ありがとうございます」


 驚くべきことに、この町は本当に親切な人が多いようだ。

 でも、そんなことでしっかりと生活していけるのだろうか?

 サービスには対価が必要だ。お金を払うのが当然なところで生きてきた私たちには、常識的にそんなことしか考えられなかった。

 薄汚れた床板を踏めばミシミシと音が鳴る廊下を進んだ奥には、角部屋で日当たりも風通しもよい二人部屋があったため、遠慮なく私たちはここを使わせていただくことになった。

 とりあえず今日は寝よう。

 なにせ昨日は野宿だったから、二人ともとても疲れていたのだ。

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