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→はい、逃げ出します

 

「シリル!」


 遠すぎて聞こえていないのか、シリルがこちらに気づく様子はない。


「シリ……」


 もう一度呼びかけようとして、言葉が途絶えた。

 ふと人混みが捌けて現れた姿。大人になっても変わらないシリルの隣には、知らない女の人がいた。

 シリルは、綺麗な女の人と連れ立って歩いていた。


「あっ、おいアンジェ……!」


 とっさにその場から駆け出したわたしに、隊長の声が追ってくる。それでも止まれなかった。







 ああ、思わず走ってきてしまった。

 息が切れてもうこれ以上走れないというところまで来て、どこぞと知れない街角でへたり込む。

 あーあ、はっずかしー。わたしってつくづくバカだ。

 そりゃ数年も経てば隊長の心が解けてコゼットちゃんと結ばれたように、シリルだって前を向いて進んでるわな。

 なーにがもう一度シリルを幸せにする、だ。シリルは自分でもう幸せになってるっての。

 わたしにしては珍しく、かなりショックだったのかネガティブな言葉しか出てこない。

 どうにか自分を立て直そうとは思うものの、今までにないくらいに落ち込んでしまってて、もはやこれからどうしたらいいのかさえ思い浮かばなかった。


「……アンジェ」


 ややあって、目の前に誰かが立った。


「……バカみたいだよね」


 エドガーだった。顔を見られたくなくて、咄嗟に手で隠す。


「なんでかシリルも待ってくれてるって勝手に思い込んでた。そっか……シリルはシリルでもう幸せは手に入れちゃったんだね。わたしが出る幕もなかった。よかったよかった」

「アンジェ」


 なにか言いたそうなエドガーを制して、わたしは無理やり笑顔を作って顔を上げた。


「シリルと会ったあとのことなんか、なーんも考えてなかったわ。これからどうしよっかな。帰り方もわかんないし……帰ってももうなにもないし……ちょっと詰んだかもね!」

「アンジェ、もう一度訊きます」


 さっきのどこか戯けた雰囲気を一切取り払って、エドガーは蹲るわたしの前にしゃがみ込んだ。


「私では駄目ですか。シリルの次でもいい。代わりでもいい。あなたが幸せにしたいと思う人はもういないというのなら、代わりに私を幸せにしてくれませんか」

「エドガー……」

「今すぐ答えを出さなくてもいいんですよ。一緒にいるうちに、いつかそう思ってもらえるなら……どれだけだって待ちますから」


 そう言って儚げに笑うエドガーは、さすが攻略対象者だけあって破壊力が半端なかった。

 ――不覚にもドキリとしてしまった。初めてエドガーのこと、男性として意識してしまったかもしれない。

 長い銀の髪をけだるげに流しながら覗き込んでくる、透き通ったアイスブルーの目を見つめ返す。

 エドガーはそんなわたしに顔を寄せてきて――。


「エドガー……!」


 そこで響いたシリルの声に、びくりと肩が震えた。

 焦ったように少し息の荒いシリルの声。あんなに聞きたかったシリルの声だ。会いたくて会いたくてたまらなかったシリルが今、目の前にいる。

 シリルはなんにも変わっていなかった。ふわふわの茶色の髪も、曖昧なヘーゼルの瞳も、とりたてて華のないモブな雰囲気も。でも優しくてよく見ると愛嬌のある可愛い顔も、そのままだった。


「エドガー!」

「シリル」


 エドガーは少し眉を下げると、立ち上がってシリルのほうを向いた。


「あのさぁ……」


 シリルはもどかしくてたまらないとでも言いたげに、エドガーへと詰め寄った。


「さっきアンジェって……今さっきアンジェって言ったよね? アンジェがそこにいるの、アンジェが帰ってきたの? ねぇ、ちょっとそこどいてよ……」


 わたしを隠すように立ち竦むエドガーを退かそうとして、シリルがエドガーの肩にかける。

 その空気に冷や水をかけるように、冷めた女の人の声が響いた。


「シリル」


 シリルの後ろからカツカツと歩いてきたのは、長い金髪を後ろに流したクールビューティ。細身のシルエットにスーツがピシリと決まっている。できる(ひと)って感じだ。

 その人は空のように青い瞳をシリルに向けて、シリルの袖を引っ張った。


「おい、勝手にどこに行く。急に目の前から消えるな」


 随分と冷たい物言いをする人だ。シリルはまた振り回されているのかな。

 シリル、人に振り回されるのが好きだもんな。なんだかんだでまた世話焼きしてるんだろう。――そしてその世話焼きの対象になったのはもうその女の人で、二度とわたしのことは見てくれないんだろうな。

 一瞬でそんなことを考えてしまって、そしたらもうダメだった。

 次から次にここまできた決意とか、ここ数ヶ月の虚無感とか、やっとシリルに会えるワクワクとか、後から後からいろんなものが込み上げてきて、気づいたら涙をこぼしそうになっていた。あわてて込み上げてくるしゃっくりを呑み込んで、絶対に泣くもんかと目をかっぴらく。

 わたしが勝手に期待して勝手に押しかけたんだから、こんなところで泣き出したってここにいるみんなに迷惑をかけるだけだ。


「アンジェ」


 そんなわたしの様子に気づいたエドガーが、振り返ってきた。


「どうしたんですか? ちょっと場所を移動しましょうか」


 立ち上がるように促されて、シリルに背を向ける。

 そのままエドガーに連れて行かれようとして、背後から肩に手をかけられた。


「待って」


 シリルだった。


「待って、まだ行かないで」


 エドガーは反射的にその手を払った。


「やっぱりアンジェって言ったね? ねぇ、ねぇ……なんでさっきからエドガーは邪魔するのさ?」


 振り返ってシリルと目が合った瞬間、シリルは束の間言葉を失ったように立ち尽くした。なにも言わないまま、シリルはただわたしのほうに手を伸ばしてきた。


「……エドガー。お互い隠し事はなしにしようって約束したよね? まさか忘れたとは言わないよね」


 震える言葉は、徐々に厳しくなっていく。険しい語気に、エドガーは黙り込んだ。


「もしもまたアンジェと巡り会えたら、今度こそお互い正々堂々とアプローチしようって。一人だけの力じゃどうしたってアンジェを見つけ出すのに弱いから、お互い協力して、それでアンジェが見つかったらすぐに教え合おうって」

「そうですね。別に忘れてませんよ」


 ため息まじりにエドガーは呟いて、シリルの手を避けるように私を引き寄せようとした。


「だったらこれはどういうこと?」

「……。私はこの方があの()()()()だとは一言も言ってませんよ」

「だったらなんで俺から隠そうとするんだよ」


 シリルの声が震え、それからキッと鋭い視線がエドガーへと向けられた。


「女性に触れられないはずの君が大切そうに抱え込んでいて、俺から必死に隠そうとしている。それだけでアンジェだって言っているようなものじゃんか。ねぇアンジェ、君はアンジェなの? お願いだから返事を聞かせて……!」


 シリルの迫力に圧されて、エドガーの手が離れていく。


「アンジェ……!」


 至近距離で合ったシリルのヘーゼルの目が大きく見開かれた。とうとう掴まれた手に力がこもり、シリルが声にならない声に喉を震わせる。

 あのときよりも少しだけ大きくなった腕が、確かめるように私を支えている。


「シリル、時間だ。行くぞ」


 それを遮ったのは、切り裂くように冷たい女の人の声だった。












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