→はい、帰ります
ご指摘を元に、一部改稿しています!
エドガーが去っていくのを見送ったあと、少し離れたところからこちらを伺っていた人物に声をかけた。
「コゼットちゃん、エドガーを呼んできてくれてありがとう」
「アンジェちゃん……ううん、いいの。でも……」
コゼットちゃんは甘く滴りそうな瞳を潤ませて、複雑そうな顔でわたしのことを見上げてきた。それに小さな苦笑を返す。
「講義で忙しいだろうに色々とありがとうね。そしてコゼットちゃんも……今まで仲良くしてくれてありがとう」
コゼットちゃんはそれに頭を振った。
「それを言うならこちらこそ……アンジェちゃん、今度こそ本当に帰っちゃうの?」
「そだね……たぶんだけど、今度はきっと確実だと思う」
「そっか……今まで本当にありがとう。アンジェちゃんには感謝してる。私、アンジェちゃんのおかげでここまで強くなれたから。きっと今までの私だったらあの人を追いかけることも、ううん、その心を知ることだって怖くてできなかった。だから……あのころの私が今の私を見たら、きっとびっくりすると思う。あの人に会いたいがために遠い異国まで追いかけてきたなんて」
そこでコゼットちゃんは思わずといったようにクスリと笑った。それにつられて私も漏らし笑いをする。束の間二人で笑い合ったあと、コゼットちゃんはまっすぐにわたしを見つめてきた。
「だからありがとう、アンジェちゃん。私を助けに来てくれて、ありがとう」
サッっと風が吹いてきて、コゼットちゃんの長い髪が揺れた。まるで天使が舞い降りてきたようにキラキラと光が跳ねて、それはそれはきれいだった。
その様子をしばらくボーッと眺めていたけど、やがて講義の時間を知らせる鐘の音が鳴り、コゼットちゃんは小さく手を振ると踵を返して行ってしまった。
大好きな乙女ゲームのヒロインとの奇妙な友人関係。その関係を惜しむように、去っていく後ろ姿をしばらく見つめていた。
次の休日。
私は孤児院へは行かず、シリルを誘って二人きりでデートに来ていた。なんてことはない、近くのちょっとした花畑までだ。
街中で見かけるようなロマンチックなデートとは違って随分と地味だけど、それでもよくて、むしろそれがよくて、シリルを引っ張るように私はここへ連れだって来ていた。
「うーん、久しぶりの二人っきり!」
思いっきり背伸びをして後ろを向くと、シリルは眩しいものでも見たかのように目を細め、笑顔を浮かべていた。
「今日に限って孤児院じゃなくて、二人きりでデートしたいだなんてアンジェから言い出すの、なんだか珍しいね?」
からかうような問いかけの中にどこか探るような意図を感じて、わたしは曖昧に笑って誤魔化しながらシリルの手を引っ張った。
どこか適当なところで敷物を敷いて、ピクニックという名の昼寝へとしゃれこむことにする。
穏やかな風はシリルのふわふわな髪を揺らし、のどかな陽の光は曖昧なヘーゼルの瞳を明るく照らしている。
そんなシリルのことを他愛もない話をしながらずっと見つめていると、やっと視線を感じたのかシリルが振り向いてきた。
「ねぇねぇ、ところでシリルってさぁ〜……わたしのどんなところが好きなの?」
いたずらっぽく笑いかけると、シリルはぎょっとしたように頬を赤らめた。
「えっ!? ……な、なんで急に、そんな……」
「べつにいいじゃんよ〜。この際だから全部白状してよ」
「え? えーっと、……」
シリルはどこか気恥ずかしそうに躊躇ったあと、固まった。
「……。改めてどこがって言われると、なんとも言い様がないな」
「ないんかい!」
思わず突っ込んだわたしにシリルはへへっと照れ笑いを浮かべると、拙いながらもなんとか言葉にしてくれた。
「っていうのは冗談だけど……アンジェのそばにいると、なんだかんだで楽しいんだよね。自分でもこんなに振り回されるのが好きなんてさ、まぁ変な性癖持ってたんだなってちょっと引いたけど……でもいつだって、アンジェから目が離せない。一緒にいると楽しいし、守りたいなって思うし、アンジェのお世話は他の人に任せたくない。俺じゃないといやだって思うんだ。どこか危ういアンジェを守るのは、俺の役割なんだって……」
そこまで言って、シリルは恥ずかしそうに笑った。
「そっか、ありがと。なんだかんだでシリルに愛されてるなってまぁ……思えたよ。かわいいとか美人だとかいう言葉がでなかったのは大いに気になるけどね! ……えーっと、わたしはね、」
次いで言葉を紡ごうとすると、シリルはきょとんと目を見開いた。
「シリルのその優しい色合いが好き。淡いヘーゼルの目とか、ふわふわの茶色い髪の毛とか、顔面はぱっと華やかなわけじゃないんだけど、」
途中でシリルが「悪かったね」と苦笑いした。
「でもシリルと一緒にいると安心する。なんだか甘えちゃう。わがままいってもなんだかんだでシリルは絶対に見捨てないって思えるから」
体を起こしてその柔らかなヘーゼルの目を見つめると、シリルはまっすぐに見つめ返してきた。
「あ〜……こうしてると、なんだか幸せだなぁ……」
何気なく漏らした言葉に、シリルの動きが止まる。
「こうしてシリルと二人、なんでもない時間を過ごせることが……わたし、幸せだったなぁ。ねぇ、シリル。知ってた?」
きっと薄々感づいたのだろう。それ以上聞きたくないとでも言わんばかりに伸ばされてきた手を掴み、わたしはお構いなしに続ける。
「わたし、本当はここじゃない世界にいたときからずっとシリルのこと見てたんだよ」
かすかに震える唇。愕然と開いた目には恐れが浮かんでいる。それでも覚悟を決めたわたしは止まれない。
「っていうとなんだかストーカーみたいなんだけどさ、でもほんとに……ひたすらコゼットちゃんを見て、一途に思い詰めるシリルをわたしはずっと見てたから」
シリルはなにか言おうとして唇を開いた。でもその口からは言葉が出てこなくて、出てきたのはハクハクとした吐息だけだった。
「正直に言うと、コゼットちゃんのことが羨ましかったよ。……あんなにシリルに一途に想われるなんて、わたしもそんな気持ちを向けられたいって、ほんとは心のどこかでずっと思ってたんだろうなぁ……だけどね、そんな自分の気持ちよりもシリルが報われないのは悲しいって、シリルには絶対に幸せになってほしいって強く思ったから、だからきっとこの世界に来れたんだろうねぇ」
掴んだシリルの手を引き寄せると、シリルは抵抗せずに体を起こしてきた。間近で見たシリルの瞳があまりにもきれいなものだから、束の間瞬きするのも忘れて見入っていた。
「だからね、今ここでこうしてシリルと一緒にいられて、シリルがわたしのこと見てくれて、わたし幸せだったよ。ねぇ、シリル、……好きだよ」
そう呟いて窺った先のシリルの瞳が揺れていたから、ほんとにそっと、触れるか触れていないかわからないほど手を握った。まるで太陽みたいな体温は、自分の世界へ帰るためのお土産。この気持ちが噓じゃなかったと、たしかにわたしのそばにはシリルがいたんだってあっちでも思えるように、思い出せるように。
そっと吐息を吐いてゆっくりと体を離そうとして、引き留められる。縋るようにキュッと握り返された手が可愛くてふっと笑うと、仕返しだとでもいうように顔を顰められた。
それはまるで心から休まるような、幸せな時間だった。
その幸せを噛み締める。なにも言わなくてもお互いの熱を通して心が通じ合ったのがわかった。
物語はハッピーエンドを紡げば終わる。視界がブレたのがわかる。
「シリル、わたしもう……」
行くね、と続けようとした声は空へとかき消された。
突然シリルから強く抱きしめられた。
「シリル……!」
シリルの力強い腕にがんじがらめに閉じ込められて、髪が乱れることも厭わずにシリルはわたしをギュッと抱きしめて、その強さはまるで帰さないとでも叫ぶようだった。
「ずるいよ、アンジェは」
絞り出すような声は、とっくに我慢できなくなっていた気持ちをぶつけてくるみたいだった。
「気持ちを通じ合わせてしまったら、アンジェはきっといなくなる。だからずっと怖くて聞けなかったのに」
今まで見たこともない悲しい表情をしたシリルがいた。
「俺はまだ覚悟ができてないっていうのに、アンジェはもう一人、帰る決心がついてしまったんだね。もう俺をおいていくって決めてしまったんだ」
「……ごめんね」
「まだなにも聞きたくない……聞きたくなかったよ……」
シリルが一人堪えていたたくさんの感情が、まるでシャワーのように上からたくさん振りかぶってくる。
それを一つ一つ丁寧に拾うように、最後のシリルの抱擁を噛み締めていた。
最後に一つ惜しむように目を閉じて、私はそっと身を離した。
さっきからずっと、意識を体に繋ぎ止めるのに苦労している。油断すれば持っていかれそうに目の前がぶれている。もうシリルの顔も満足に見えないみたいだ。
「シリル、さすがにもうダメみたい」
「アンジェ……!」
掴まれた腕の感覚もない。もうこの体の持ち主はわたしじゃない。
わたしはわたしの世界に帰ろうとしていた。
「……こんなの、乙女ゲームのハッピーエンドとは言い難いのにね」
「アンジェ……! もしもまた会えたら……!」
「もしも今度こそシリルを幸せにするために、またここに来ることができたなら」
ぐいーんと引っ張られるような気がして、まるで幽体離脱するみたいだった。
「今度こそほんとのわたしで……わたしのことを見つけて……」
最後の言葉は伝えられたかどうか分からない。抗いがたい力に引っ張られて、もうほとんど“アンナ”の体から出てたから。
最後に見た景色は倒れたままの“アンナ”の体と、それに必死に呼びかけるシリルの姿だった。




