→はい、詰め寄ります
数日間滞在したレニエ邸を後にして、学院に戻ってすぐ。
わたしはシリルが受けている講義室に足を運んでいた。
「アンジェ!」
わたしが講義室に姿を現すと同時に、さっそくシリルが呼びかけてくる。
目的の人物を見つけて、そっちへと足を運ぶ。
「ねぇ」
話しかけた目的の彼――あのモブ男子生徒は、レニエ邸であったあの夜のことなんてまるではじめからなかったかのように、他人事の顔でシリルとわたしの仲をニヤニヤ笑って茶化している。
「今日は君に用事があるんだけど」
「えっ……」
横からシリルが戸惑った声を出した。ちらりとシリルのほうに視線を向ける。
「えっと、アンジェとトムって知り合いだったの?」
「うん、あのね……」
「ハァ? 知り合いってか、同じ交換留学生ってだけだけど?」
その態度に内心感嘆した。あのときあれだけわたしの不出来を罵っといて、よくも白々しく言えるものだ。
「なに? 俺、まさか今から告白されるの?」
相変わらず茶化しながらニヤニヤ笑う彼に、シリルが顔を曇らせながら諌めている。それ以上見てられなくて、わたしは顎でクイッと合図をしたあと、彼を待つことなく踵を返した。
二人きりになった途端、トムと呼ばれたモブ生徒はニヤニヤ笑いを引っ込めた。
「あのさぁ、学院ではやたらと接触しないでほしいんだけど」
トムの眼光は恐ろしいほどに冷たくて、ぶち撒けようとした言葉が一瞬出なくなる。
「戻ったらおまえに告白されたって面白おかしく広めるからな。これに懲りたら二度と話しかけてくんなよ」
「そんなことどうだっていいよ。それよりも」
逃げられないように身を寄せて距離を詰めると、あからさまに舌打ちされる。
「ねぇ、あの日なにしにレニエ邸に来たのよ? わたしを利用してあんたたちはなに企んでいるわけ?」
その途端、トムは咽せたように笑い出した。
「利用して? なに言ってんだよ」
トムは心底おかしそうにしばらく笑い転げていたが、やがてその笑いも収まると、ぞっとするほどの真顔になった。
「おまえさ……まさか、今さら安っぽい友情ごっこなんかに乗せられて隊長に歯向かおうって気なわけ? バッカじゃないの……俺たち隊長に人生救われたから、今の生活があるんだろ? 冗談もいい加減にしろよ!」
限りなく小声で囁くように、トムは切り裂くような冷たい声でわたしを攻撃してくる。
「国に置いてきた家族とかもうどうでもいいわけ? 自分一人がよければそれでいいって? もしもおまえが本気でそう思ってんなら、俺はおまえをこれ以上なく軽蔑するな。それにな、俺たちみたいな底辺のクズは難しいことなんか考えずに、ただ隊長の言うとおりに動いとけばそれでいいんだよ。だいたい今回だっておまえが自分勝手にぐちゃぐちゃにしちゃったもんだから、結局俺にまでシワ寄せが来る羽目になったんじゃんかよ。……初めて出来たお友だちとやらに随分と入れ込んでんのかもしんないけどさ、そろそろその辺にしとかないと、いくら隊長でもいい加減堪忍袋の緒が切れるよ?」
俺はちゃんと忠告してやったからなと、トムは気怠げにポンとわたしの肩を叩いて立ち去っていった。
情けないことに、わたしはその場から動けなかった。追いかけて反論することすら出来なかった。今まで散々、あれだけ無茶振りでたくさんの人を巻き込んできたはずなのに、たかが一モブの威嚇に身が竦んでしまったなんて――しばらく震える自分の手を見つめていた。
「アンジェ」
やがて、呼びかけられた声にハッと顔を上げると、いつの間にかすぐそばにシリルがいた。
「あ、シリル! 言っとくけど、これ告白なんてそんなかわいいもんじゃないからね! あいつがなに吹聴すんのか知らないけど、絶対に信じないでよ!」
「そんなの、アンジェの顔見たらわかるって」
シリルは呆れたように笑った。
「ならよかったけど。あいつ、トムっていうの? イヤミったらしくてイヤなやつ!」
「そう? 陽気で気のいい奴だと思ってたけど……二人でいったいどんな話をしてたの」
誤魔化すこともできた。笑って曖昧にはぐらかせば、きっとシリルはそれ以上は追求してこなかっただろう。
「……」
それを黙って唇を噛み締めることで答えてしまったのは、我ながら悪手だった。だって、シリルの表情がみるみるうちに変わっていったから。
「ねぇ、なにか温かいものでも飲みに行こっか」
まるで今にもわたしが消えてしまうんじゃないかって、本気でそう心配するような顔をして、シリルがそっと手を引っ張ってきたものだから、わたしは詰まらせた言葉を吐き出せずにシリルに従うしかなかった。
ほとんど人けのない、講義中のカフェテリア。ついこないだはここにエドガーと二人で来ていた。
今目の前にあるのは、くすんだ茶色と緑色の混じるヘーゼルの瞳。テーブルには人肌に冷めたココア。シリルは誰もいないベンチに視線を遣ることもなく、不思議と落ち着くその瞳でわたしのことをじっと観察している。
きっとさっきなにがあったのか聞きたいんだろうけど、それでもずっとなにも言わずに気の済むまでそっとしといてくれている。
「最近見かけなかったね」
わたしが落ち着いたと判断したのか、シリルは柔らかな声でそう切り出してきた。
「あぁ……ちょっとロクサーヌの家に行ってたからね」
「今、噂になってる」
シリルの声が少し沈む。
「レニエ商会のお嬢さんと、ヴィクトル商会の跡取りが婚約解消するらしいって、もう随分と広まっちゃってる。たぶんアンジェのことだからほっとけないんだろうなって思ってた」
沈痛そうな面持ちのシリルは、俯いたわたしの手を握ろうと手を伸ばしてくる。思わずその手を避けるように引っ込めた。
「シリルこそ、最近講義室に姿を現さないよね」
理由はわかっている。コゼットちゃんはすでにディートフリート殿下のことを好きになってしまった。結局わたしは力不足で、シリルを幸せにはしてあげられなかった。
でもそれでも、まだ頑張れる――殿下がコゼットちゃんの想いを受け止めたわけじゃない。シリルにはまだまだここで諦めてほしくなかった。
「ダメだよー? せっかくコゼットちゃんと仲良くなってきてたのにさ。ちょっと目を離しただけでコゼットちゃんたらすーぐ言い寄られちゃうんだから。仲良くなれたからって油断しないで、最後まで……」
「あのさ、そのことなんだけど」
シリルは珍しく強引に、わたしの話を遮ってきた。
「この間は邪魔が入って言えなかったんだけど」
シリルはなにを言うつもりなんだろう。
聞きたいような、聞きたくないようなそんな不安な気持ちが顔に出ていたのか、シリルはまた眉尻を下げて情けない顔で笑った。
「俺、コゼットを追いかけるのはもう止めたんだ」
その言葉に、一瞬呼吸が止まった。
「それは、なんで……」
「たしかにね、俺はコゼットのことが好きだったよ」
シリルはわずかに頬を染めて、気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「コゼットってさ、いつも一生懸命学院生活を頑張っていて、でも優しい微笑みは絶やさなくて、いつだって誰にだって優しくて……まるで天使みたいだった。あの日、初めて会ったときだって、学院の生活に慣れてなくてあたふたしていた俺にコゼットは屈託なく笑いかけてくれて、救いの手を差し伸べてくれて……だからそんなコゼットの儚い優しさを、今度は俺が守ってあげられたらなって」
「だったら……」
「だけど、わかった」
やけにきっぱりとシリルは言い切った。
「コゼットの優しさは俺が守らないと折れちゃうようなやわっちいものじゃなかった。俺は随分と独りよがりで勝手な勘違いをしてたんだ。……コゼットってさ、どんなときでもみんなに優しくて、でもそれってほんとは心が強くないとできない、とても芯のある人だってことだと思うんだ。コゼットのその揺るぎない優しさにはみんな癒されて、否応なく心が惹かれていく。そんなコゼットが俺は眩しくて愛おしくて、たまらなかった。でも不思議なことに、いつからか心の中は全然別のことで占められるようになってたよ。それは、いつでも危なっかしくて、人のためならどんなに度胸のいることでも平然とやってのけるのに、自分のことになるとてんで頓着しない子が突然目の前に現れてからだ。その子と一緒に過ごすようになって、ああ、心がかき乱されるってこんな気持ちなのかって、俺はやっとわかったから」
ああ、シリルのこの顔、知ってる。乙女ゲームの中で何度も見た。この顔は、コゼットちゃんにまっすぐな気持ちを伝えるときの顔。シリルは今、全力でわたしに気持ちを伝えようとしている。
「アンジェ、君のことが心配で心配でたまらなくて、放っておけない」
名前を呼ばれて、ドキリと心臓が音を立てる。
シリルは相変わらずまっすぐとわたしを見据えたまま、言葉を続けた。
「君はいつも俺やコゼットのために動いてくれて、でも自分の領域にはなに一つ入らせてくれやしない。君は、君のことを心配することも気遣うことも、ましてや大切にすることも俺たちに許してはくれない。俺はねアンジェ、そんな君の一人ぼっちの他所に向けられたままの心がいつか折れてしまわないか心配で、叶うならばそんな日が来ないように……俺が君の支えになりたいって、そう思ってしまったんだ」
今度こそ、シリルは迷いなく手を伸ばして、テーブルに投げ出されたわたしの手をしっかりと掴んだ。温かい感触。優しいシリルの手。
「アンジェのことが放っておけない。今日はどこでいったいどんな無茶をしてるんだろうっていつも君のことが心配だし、また誰か妙な人に絡んでないといいけどってそれも心配だし、たまにメルシエ様に言い寄られて翻弄されてるアンジェを見ると、すごく心配でハラハラする」
「っていうか、心配しかしてないじゃん」
「違うよ! いや違うくはないけど、たまらなく心配なのは間違ってないけど!」
呆れた。ここまできたらとんだお人好しもいいとこだ。
「だったら、わたしがせいぜいおとなしくしてれば、シリルも安心してコゼットちゃんに……」
「ああ、もう! ごめん、そんなことが言いたいんじゃないんだ」
シリルは自嘲するようにくしゃりと顔を歪めて笑うと、一瞬怯えた表情を浮かべた。
「だから、俺は、……アンジェのことが心配で心配でたまらなくて、一日中気にかけてしまうほど、アンジェのことが放っておけなくて、つまりそれは……」
キュッと握られた手に力が入る。一度俯いたシリルは毅然と顔を上げて、強い瞳でわたしを見抜いてきた。
「アンジェが好きだから。誰よりも近くにいたいから」
すぐには言葉の意味を理解できなかった。固まってしまったわたしに、シリルはため息をついている。
「ああ、うん……すぐに信じられない気持ちはわかるよ。つい最近までコゼットが好きで応援してもらっていた立場でなに言ってんだって、きっとアンジェならそう鼻で笑うぐらいのことはするだろうなってのはわかってた。だから本当はこんなにすぐ言うつもりはなかったんだ。でも、君がそんな顔をしているから……」
――君がつらいときにだって、そばにいたいって、支えたいって思う人はいるんだって、わかってほしかったから。
それ以上の言葉は聞けずに、ガタリと音を立てて立ち上がる。急な行動にも関わらず、シリルは冷静にわたしを見上げている。
そのままなにも言えずに、駆け足で寮の部屋まで立ち去った。




