013
「どうして、行かせたの?」
驚くあまり、橘は一瞬言葉を失った。
拠点の、資料室へとつながる通路。
そこにいる筈のない人物がさも当然のようにその場にいたことに、橘でさえ動揺を抑える事ができなかった。
「……貴様の部屋にはカギがかかっていた筈だが」
「答えて」
桐葉も篝も不在の今、決して中からは開けられることのない筈の一室。
そこに閉じ込められた――決して褒められた対応ではないからこそ橘は自身にそう言い聞かせていた――衣璃亜の姿を、橘は二度見した。
そもそも開けるための手段を用意していない。
桐葉と篝が捜索に向かう前、橘自身の前で確認させたのだ。そしてそれを今保管しているのは橘だったのだ。
居住スペースにいた衣璃亜が手に入れられるものではない。
そして何より、脱出したにもかかわらず、そういった報告は一切寄せられていなかった。
ここへ辿り着くまでに誰かが見つけていれば、騒ぎになって当然の事態。
こめかみを押さえながら、橘は脱走者へと問いかける。
「その前にこちらの質問が先だ。貴様、一体どうやってあの部屋から抜け出した?」
「私が先に、聞いた」
しかし会話は成り立たない。
相手の疑問など知ったことではないといわんばかりの衣璃亜の態度に、橘の胃も叫びをあげる。
「……とにかく今は人手が足りん。だから任せた。それに、あいつ自身の希望でもある」
「桐葉、の?」
「『友達も危ないならなおさら放っておけません』だ、そうだ。フン、口ばかり達者になる」
反応そのものは橘がその場で予想していたものとそう大差ないものだった。
そもそも衣璃亜が脱走し、更には自身の元へ向かわせた理由を訪ねに訪れるという異常事態。
橘にとって、目がくらむような現状に比べれば大した問題ではなかったのだ。
「暴言めがね」
そんな橘でも、看過できないことは当然、ある。
突如衣璃亜の口から放たれた罵倒としか言いようのない呼称はまさにそれだった。
「おい、待て。待て貴様。誰だ貴様にそんな単語を吹き込んだのは」
「率直な感想を言った、だけ」
「余計に悪質だという事も分からんのか、貴様。あの程度で暴言扱いされてはかなわん」
「……?」
小首を傾げ、『何を言っているのか分からない』と今更過ぎる態度がそれだった。
怒りと呼ぶには生温い感情。
しかし無視して流すにはあまりに唐突で、失礼な――桐葉が冗談で口にするそれと何も変わらないものだった。
喉まで出かかった文句を抑え込み、三度の深呼吸を経て衣璃亜へと向き直る。
「話を戻せば、あいつにはあいつの事情がある。年中貴様につきっきりと思ったら大間違いだ、たわけ」
「そんなこと言われる理由、ない」
「貴様になくとも私にはある。あいつはあいつだ。お前の思い通りに動く存在ではない」
「違う。私だって、そんなことしてほしいわけじゃ、ない」
衣璃亜の態度は頑なだった。
それはこれまで橘が桐葉に聞かされていた、天上衣璃亜と名付けられた少女の姿とはまるで異なるものだった。
「桐葉に変に変わってほしくない、だけ。……そういう理由なら、気にしない」
桐葉が友人に呼び出される姿を衣璃亜は覚えていた。
教室へ戻ってきた桐葉が何かを考えていた事も。
衣璃亜も、桐葉が特に積極的だった理由に見当はついていたのだ。
「でも」
しかし、その時浮かんだ不安がそれで全て不安されたわけではなかった。
怪物との戦いの最中の負傷。その可能性を衣璃亜はもっとも危惧していた。
ただの負傷ではない。それが十分に起こり得ることを、衣璃亜は知っていた。
「……桐葉に何かあったら赦さない、から」
去り際に橘へ見せた表情は、そんな感情の表れだった。
万一の可能性が、普段の姿からは想像もつかない表情を衣璃亜にさせた。
「……まったく」
もうこれ以上話すことはないと、踵を返し立ち去るその姿。
橘には、まるで別人のようだとすら思えた。
そうして残された橘は、ただ一人。
「……“ただの女の子”か……」
神堂の手によって集められた資料の数々に目を落とし、困り果てたようにため息をついたのだった。
「……いるねぇ。ほんとに」
まるで野良犬が歩き回っているかのような動きを見せる怪物。
全身黒に包まれた四つ足の物体は、空き家の多い住宅街を堂々と歩き回っていたのだ。
電柱の陰から怪物の姿を捉えた篝の声は辟易としていた。
話を聞いた時点では篝も、『いくらなんでもそこまではしないだろう』と思っていたのだ。
しかし『見つけた』と興奮気味に知らせる桐葉の後をった結果、見事怪物を見つけてしまったのである。
(まだ一匹だけだからいいけど……ここまでする意味、本当にあるのかなぁ?)
何より、突然の方針転換に違和感しかなかったのだ。
以前の事例は、まだ『衣璃亜が目的だった』ということで納得する事ができた。
しかし今回はその可能性も高くない。念を入れて行われている組織の捜索でも、身元不明の人物が見つかったという話はまるでなかった。
「もう現行犯みたいなものだし、さっさとぶっ飛ばしちゃうのはどうです? また突然吸収合体溶かされたらやばいと思うんですけど」
「今はまだ一匹だけど、ありそうだよねぇ……」
以前見つけた個体にあった複数本の尻尾を、篝達の視線の先にいる怪物には持っていない。
しかし一度それを見てしまった篝も桐葉も、その程度の情報ではまるで安心できなかった。
「というわけでぇ……じゃじゃーん。ここにネットがあります」
「捕まえても何も分からなそうですけど。あれ普通の犬型ですよ?」
「別に連れて帰るわけじゃないよぉ。捕まえてどこかに放置したら仲間が寄って来るかなぁって」
「篝さん唐突に怖いこと言いますよね?」
決して、桐葉も代案を思いつけるわけではなかった。
親しい相手から唐突に飛び出した、らしからぬアイデアにただただ戦慄していた。
決して個々の能力が高いとは言えない犬型が相手だからこそ採用可能な一手。
篝とて、このような方法を好き好んでいるわけではなかった。
別行動中の仲間をおびき出し、一網打尽にするために。
仕方なく、あくまでも仕方なく選んだ一手だった。
「ま、待ちましょう。ちょっと考え直しましょう、篝さん。下手に近付いて隠れてる敵が出たらそれこそヤバいじゃないですか。ね?」
「確かに二匹以上はちょっと強度も心配になるけどー……」
「で、ですよね? ここはやっぱり――」
慌てる桐葉に向かって、篝は優しい笑顔を浮かべた。
そんな篝を見て、桐葉も思わず胸を撫で下ろす。きっと何か別の案に変えてくれる筈だ、と。
「他に出てきたら倒しちゃおっか」
「篝さん!?」
しかし出てきたアイデアは、根本的に何も変わっていなかった。
「私だって好きでやってるわけじゃないんだよぉ? でも、こうでもしないと不安じゃなぁい?」
「それは……いやいやいや、それでもエサに使うのはどうかと」
桐葉も、決して怪物を倒す事への抵抗感があるわけではなかった。
むしろ逆。かつて襲われた経験があったからこそ、倒さなければ誰かが危険な目に遭うという事をよく知っていた。
そんな桐葉でも、生け捕りにして釣り餌に使うという発想は出てこなかったのだ。
それを提案したのがあの篝だという事実を、桐葉はすぐには受け入れられなかった。
「探しますから。俺も全力で探しますから。さすがにそれは止めましょう? 一旦倒しましょう? ね?」
「んー……でもなぁ……」
橘から既に討伐の許可は下りていた。
それでも篝はすぐには首を縦に振ろうとしなかった。
(って、やばっ。逃げられるっ)
篝に思いとどまってもらおうとしている間にも、怪物は更に空き家の多い住宅街を進んでいく。
「…………は?」
そして、ある家の敷地へと入って至った。
車もなく、明かり一つついていない一軒家の塀を飛び越え入っていった。
「あの、篝さん……あれって……」
「……やっぱりそう思う?」
人が住んでいるとは思えない。
だからこそ、桐葉も篝もすぐその可能性に辿り着いた。
「――何をしている、お前達!」
しかし。
「げっ……!?」
そちらへ意識を向けるあまり、近付きつつあった信徒の存在にもすぐ気付くことができなかった。




