003
「すみません篝さ――…………ん?」
いない。右にも左にもいない。
イリアのあの部屋にいなかったから、てっきりこの休憩スペースだと思ったのに。
どこ行ったんだろ。ちょっと聞きたい事もあったのに。
イリアの席替えのこととか、あれとか、それとか。入れ違ったとか?
橘さんは掴まらないし、他の内容はそもそもあの人に訊いても仕方がないし。多分ああいう話題には疎いだろうし。
そういえば篝さん、今日は迎えの車にも乗ってなかったよな。
本当にどうしたんだろう。まだ来てない、とかじゃないみたいだけど。
(まあ、イリアもぐっすりだし急がなくても別に――)
――コツン。
「…………うん?」
何だ今の。足に硬い物体が当たったような。
というか歩く勢いで思いっきり蹴っ飛ばしちゃったような。
「どこ蹴っ飛ばして――……うわ、ベンチの下かよ……」
ここのベンチ、ご丁寧に固定されてるせいで動かせないのに。
しかも無駄に幅が広い。寝転がれるくらい。ベッドかよ。仮眠室にでも作れよ。
ワンタッチで取り外し、とかもできないし。
わざとじゃなくてもぶっ壊したら俺の筋肉がぶっ壊される。
(あーあ、ツイてねー……)
こうなったらもうやることは一つだけ。
というかそれしかできない。……下足なんだけどなぁ、ここ。……言っても無駄か。
「くっそ、届けっての…………!」
だからせめてすぐに出て来いって。
こちとら固い地面に這いつくばって手を伸ばしてるんだよ。薄暗いせいでよく見えないんだよ。
ここまでしてゴミだったらさすがにキレそう。ないと思うけど。思いたいけど。
誰だか知らないけど変なところに落とすなっての。あんな固いんだからすぐに気付くだろ。
「ふんっ……!」
取るだけでも無駄に悪戦苦闘させられたんだから。せめて落とし物であってくれ。
手が伸びる魔法とかないのかよ。念力でもいいけど。
(……って、もしかして風の魔法を使えば……)
違う。そんなことない。きっと気のせい。
もしそうだったとしても、失敗したに決まってる。
そんな都合よくベッドベンチの下にあるものなんて押し出せるわけがない。
うっかり吹っ飛ばして隣の自販機の下に追いやったりとか。……マジでありそう。
「それで、結局誰が…………え?」
少し雰囲気は違うけど、これって――
「一人で使える部屋まであるとかマジかよ……」
今まで近付こうともしなかった区画。
例によって、硬くい上に冷たそうな材質の廊下。
明かりもそんなに多くない。夜道よりはまだマシかなってレベル。
左右を見ればドア、ドア、ドア。
しかも全部灰色。番号が振られてるけどその意味まではまだ教えてもらってない。
でも最低限のスペースはありそう。ドアとドアの間でめいっぱい手を広げても、まだ隣の扉に届かない。
「篝は同年代がいないから結果的にそうなっているだけだ。説明してやったのにもう忘れたか、たわけめ」
「じゃあ俺にもください。なんちゃって」
「……本気で言っていたら燃やすところだったぞ、貴様」
「その顔で言うの止めてくれません? 冗談に聞こえませんよ?」
ない。さすがにそこまではやらない筈。だってあの橘さんだもん。
あってもちょっとしたお説教。一般的に見れば長めのやつ。
それに、俺だって分かってる。
イリアがあれだけ広い部屋を使わせてもらってるんだから。それ以上なんて頼めるわけがない。
あの部屋だって二人暮らしでも豪華なくらいなのに。よくやるよ、まったく。
おかげで不自由もしてないけど。イリアの服も丁寧に洗濯してもらってるみたいだし。
「まったく、唐突に篝が使っている部屋はないかと聞いてきたかと思えば……忘れ物の一つや二つ、後で渡せばいいだろう」
「俺も最初はそのつもりだったんですけど、これはちょっと急いだ方がいいかなって。……見せませんよ?」
さすがにそれは篝さんにも悪い。……見ちゃった俺が言っても説得力ないな。
素直に謝ろう。それで許してもらえるか分からないけど。
よりにもよって上を向いてた面に貼ってあるなんて。
裏だったらまだ見ずに済んだかもしれないのに。……裏にも貼ってありそうだけど。手触りからして。
「心配するな。興味もない。……そんなことより、すぐに終わらせることだな」
「大丈夫ですよ。イリアはもう今日は起きそうにないですから。誰かさん達が席替えのことを黙ってたせいで」
「忘れていた貴様に言われる筋合いはない」
またそうやってド正論で言い返す。まあいいや。
まさか席替えの話だけであそこまで疲れるなんて。
何なら実際に終わるまでずっとヒヤヒヤしてたみたいだった。
俺や美咲が何を言っても、気休めにしかならなかった。
そんな精神状態で一日過ごせば疲れるに決まってる。前の席だってことも気にならないくらいに。
でも廊下側よりは多分マシ。
あっちだったら、外を誰かが通るたびに警戒することになりそうだし。
「とにかく終わったらすぐに戻れ。トレーニングルームに寄り道しようなんて考えるなよ」
「そこまでですか。どうしたんですか。サプライズパーティの時期じゃありませんよ?」
「貴様ならやりかねんと思ったまでだ」
ひどっ。
言われるまでそんなこと考えてすらいなかったのに。
特に今日は師匠のトレーニングだってあるのに。そこまでやれるか。
帰る寸前までなんて失礼な……今度は俺が攻略ガイド作ってやろうか、あの野郎。
じゃなくて。
「はぁい? どちら様ぁ?」
いた。本当に。ノックしただけですぐに声が返ってきた。
でも、なんだか新鮮。こういうことは今までなかったから。
いつもは部屋にいてくれたし、車に乗って迎えにも来てくれてたし。
「俺です。天条桐葉です。ちょっと篝さんに用事が――」
「ふぇ!? 桐葉くん!? ちょ、ちょっと待ってぇ!!」
……はい?
何か妙に声がくぐもってる。
それはまあまだ仕方ない。ドア越しだし。
でもなんだ、このヤバそうな音。
何かが崩れて倒れて、強盗でも入ったんじゃないかって音。
音だけでも部屋の惨状が目に浮かぶよう。ちょっと耳を覆いたい。
他の人はいない。気がする。それなのにこれだ。
何かぶっ壊してるんじゃないかってくらいひどい音。……本当に何してるんだ? 例のあの虫?
「篝さん? 篝さーん? あの、どうしたんですか? そろそろ入れてほしいんですけどー」
でも、返事はない。
明らかにやばそうな音だけが継続して演奏中。俺の声が聞こえてないわけじゃないのに――
「ぅおっ!?」
爆弾!? 雷!? 何事!?
ヤバい。今の音は絶対ヤバい。
さっきまでの比じゃなかった。
鈍くて重くて、聞いてるこっちが痛くなりそうな音。
しかもそれっきり、あの破壊音が聞こえてこない。
「ちょっと、篝さん!? もしもし篝さん!? 無事ですか!? 聞こえてますか!?」
笑えない。これっぽっちも笑えない。
どれだけ呼んでも返事もない。崩れる音も途切れたまま。
(こんなことなら橘さんに残ってもらうんだった……!)
何度ドアをぶっ叩いても、他に何も聞こえてない。
近くの部屋のメンバーは組織やらそれ以外やらでお仕事中。
「開けますからね!? 後でお説教は聞きますから開けますよ!」
だからもう今は俺がやるしかない。呼びに戻ってる場合じゃない。
ええい、ままよ。
化け犬だろうとGだろうと何でも出てこい!
「………………は?」
だから、覚悟はしてた。
あんな都がしたからとんでもない状況だろうって。
頭でわかったつもりになってた。
「……汚っ!!?」
でもまさか、足の踏み場もないくらい散らかってる上、山のように積み上がってるなんて。
そんなの予想できっこない。




