032
床についた右手を支えに身体を投げた。
背中の硬い感触が離れたのを見計らってもう一度。
一旦止まって、もう一度そちらに視線を向ける。
追撃はない。
あっという間に追いついてきたヘレンは剣をゆっくり引き抜くだけだった。
(危なっ……)
未だに輝きの衰えない刃に鳥肌が立つ。
壁に叩きつけられたっていうのに傷のひとつも見当たらない。
割れるわ凹むわで、受け止めた壁の方が悲惨な状態。
これが斬撃の痕だなんて誰が信じるだろう。
もし回避が遅れていたら。
あの剣の錆びに変えられるどころか虫ケラのように潰されていたかも。
(なに考えてるんだ……?)
自分の胸に聞いてみても応えはさっぱり。
分かるのはヘレンがやる気だということくらい。
このまま真正面からぶつかり合うのは得策じゃない。
というか、ぶつかり合いにもならない。
もう一度、今度は左足を後ろへ押す。
床の上を擦りながら少しずつ腰を上げる。
「はいストップ」
もう半歩というところでヘレンに止められた。
呼び止められたせいじゃない。
硬い何かが足に当たったせいで思わず飛び上がってしまった。
見れば平坦だった筈の道が不自然に盛り上がっていた。
足首を辛うじて隠せかどうかという高さ。
その程度の障害物が邪魔に思えて仕方がない。
避けようとしても生き物みたいに追ってくる。
その動きがあまりに気色悪くて、非常事態ということさえ忘れそうになった。
「どうして、そこで逃げを選んじゃうんです? 失敗したこと、忘れたわけじゃないんですよねー?」
嫌な緩みをヘレンに引き締められる。
教室にいる時のような声色。
息が詰まりそうな威圧感とのギャップが凄まじい。
「……そんなことを言われても、さすがに、正面からやり合うわけには」
どっちつかずの答えを返すしかなかった。
床を自在に動き回る凸はいつの間にか左足に張り付いていた。
押しても引いても吸いつくように追ってくる。
あくまでも逃がさないつもりらしい。
俺がどれだけNOを突きつけても、きっとヘレンの意思は変わらない。
「そんな甘いこと言ってる場合です?」
ヘレンの姿が揺れた。
「ッ!?」
反射的に構えた《魔力剣》が、それを握る腕が、悲鳴を上げた。
――抑えきれない!
さっきの時点で馬鹿みたいな力がこもっていたのに、それ以上。
ヘレンが作った段差の助けがなければきっと壁まで押し込まれていた。
逸らしたくても逸らせない。
僅かな傾きを力任せに修正してくる。
「今のこの状況、そんな悠長なことを言ってる場合じゃないんですよー? そこのところ、分かってます? のんびりしてると大怪我じゃ済みませんよ?」
ヘレンの調子は相変わらずだった。
冗談じゃない。
こっちは抑えるだけでいっぱいいっぱいだっていうのに。
下手に口を開けば舌を噛み千切ってしまうかもしれない。
「俺はそれより、ヘレンがこんなことをした理由を、聞きたいんだけどな」
「だからそういうところですってば」
――不意に、重さが消えた。
押し返そうと込めていた力はたちまちその行き場を失う。
そのまま身体が大きく前に傾いて。
「……こういうところが、ね?」
浮いた。
飛んだ。
「痛っ……!?」
背中の痛みにはっとする。
一瞬、意識が飛んだ。
何が起きたのか自分でも分からない。
背中には冷たくて硬い感触。
数十メートル先の曲がり角まで飛ばされたと遅れて理解した。
壁が弾いてくれたおかげでどうにか、身動きに困ることはなかったけど。
「じゃあ、終わりにします?」
――ヘレンの顔がすぐそこまで迫っていた。
「嫌だね!」
ヘレンの剣が今度は床を砕いた。
その光景にぞっとせずにはいられない。
手を伸ばせば無慈悲な爪痕に手が届いてしまう。
「阻め!」
身体を押し退け氷の壁を立てる。
後退しながら2枚、更に3枚。
その時にはもうヘレンが剣を振りかぶっていた。
(――飛べ!)
嫌な予感に駆られて、勢いもつけずに地面を蹴った。
直後、氷の壁が砕け散る。
ただヘレンが振った刃に触れただけで呆気なく。
(足止めにもならないのかよ!?)
悪態をつきながら《加速》する。
直進はしない。緩いカーブを描いて急ぐ。
曲がり角でどうしても速度は落ちてしまう。
それでも突っ込むよりは幾分マシ――
「さっきから、そればっかりになっちゃってません?」
たちまち追いつかれた。
(速過ぎるっての!)
闇雲に振った剣が堅い何かに弾かれた。
たった一瞬。
一瞬の衝突だったのに、魔力の剣は跡形もなく砕け散る。
返す一撃を受け止めたのは作り直した《魔力剣》。
「それを言ったら、ヘレンこそ。この流れ、さっきもなかったっけ?」
「別に何回目でもよくないです? これで充分なんですし」
遅すぎた返事にヘレンは耳の痛い事実を突きつけてくる。
実際そうだ。
ヘレンは片手で剣を扱っているのに対して、俺は両腕。
それでやっと受け止められると言ったありさま。
このまま力比べを続けたところで結果は目に見えている。
(押し通る)
それでもやるしかなかった。
ありったけの力を注ぎ込む。
押し込んだと感じたのはほんの一瞬。
すぐさまヘレンに逆転される。
悪い冗談であってほしかった。
こっちは体重までかけてるっていうのに、ヘレンはまたしても余裕な表情。
まだまだだということを嫌になるくらい思い知らせてくれる。
まだまだヘレンの本気には程遠い。
今はまだ到底及ばない。
(やっぱり、過大評価だって)
分かり切っていた事実に変な笑いがこぼれた。
いっそのこと、いい機会だと思った方が楽かもしれない。
この状況をどうにかしないことには話もできそうにないし。
――そのためにも。
「ふんっ……!」
腕に魔力を。
たった一言を頭に浮かべて全神経を集中させる。
「何して……」
ヘレンの顔色がようやく変わった。
阻む力がますます強まる。
それでもまだ本気ではなかった。
ヘレンは未だに剣を片腕で握っていた。
チャンスは、ヘレンが油断しているこの一瞬。
「――おぉおおおっ!!」
全体重を、剣に預けた。
斬撃だなんて口が裂けても言えない。
重さ頼りの強行突破。
だけど抜けた。確かに抜けた。
振り切った《魔力剣》が勢いよく地面を叩いた。
衝撃で折れた先端が大きく跳ねて目の前を舞う。
手の中の感覚も、遅れて消えた。
限界だったんだろう。
むしろよく耐えてくれた。
(ヘレンは――)
ふと後ろを見た時、その光景が目に留まった。
刃は未だに宙を舞っていた。
いくつもの破片に分かれて緩やかに落ちていく。
(そうだ)
そんなもの寂しい光景がひらめきをくれた。
一か八か。
やってみる価値はある。
「阻め《氷壁》」
通り過ぎた地点に氷の壁を置いた。
通路の角から生えるように。
歪な五角形が完成した時に残った隙間は僅かなもの。
「阻め、阻め。阻め――!」
その工程をひたすら繰り返した。
上に、下に、左右に、隙間の位置を変えながら。
それだけを気を付けて数を増やす
纏めて砕かれないよう壁ごとの距離を空けておく。
残した隙間をやすやすとすり抜けられないよう詰めておく。
なるべく厚く、できるだけ堅く。
壁を乱立させながら翼をはためかせる。
通路全てを氷で埋め尽くすより、この方が手に馴染む。
何より強度を保てる気がしない。
多少、速度は落ちてしまうけど。
ただ闇雲に逃げるよりはいい。
……考える時間を稼ぐためでもあるんだから。




